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ローズマリ・サトクリフ 『王のしるし』
僕にとっての本書:
壮絶な運命。やけっぱちでとびこんだ新しい生き方、王としての生き方。剣闘士だったフィドルスは、王になる。力の限り生きる。
ローズマリ・サトクリフについて、読んで考えるというシリーズです。
1965年の作品。The Marks of the Horse Lord.
訳は、1973年。サトクリフへの理解の深い、猪熊葉子氏によって。
他がどうと言えるほどに詳しいわけではないのですが、それでも猪熊氏の訳はすごいと思います。魂がそこなわれない、というか、サトクリフと共鳴している、そんな感じがします。
そうそう、共鳴する感じ。猪熊氏は、サトクリフの語彙に対して、深い理解をお持ちだったのでしょう。勝手な私見ですが、ヘルマン・ヘッセに対する高橋氏のお仕事にも同じような印象を持っています。
フィドルスという剣闘士が、自由を手に入れる代わりに生きがいをなくす。
物語はそこから始まります。
この時点で、もうすでに、自由の意味を僕ら現代人は考えずにはいられない。フィドルスはまだ若く(たぶん10代終わり)、人生は長い。危険と隣り合わせだった剣闘の日々から逃れられたはずだったのに、彼は、生き方について考える。
そして、酔っ払った喧嘩のはてに、馬族の王であるマイダーと出会い、姿が酷似していたことから、自分のかわりに王となるよう要請されました。
フィドルスは、王となることを決意。あらゆる困難をのりこえ、即位します。そして、即位したのちも、真の王となり民をひきいる責任を引き受け続ける。
物語が終わるまでの時間軸は、約1年くらいに設定されている。しかし、とにかく読み応えがあり、重厚で、たくさんの要素がある。
親友、死、一族、戦い。
神、慣わし、そしてローマ。
作品は、大地の女神を崇拝する部族と、太陽の男神を崇拝する部族の戦争を描いたものです。この戦争の中に、登場する人物、フィドルスやマイダーの人生が織り込まれていく。
紡がれる、織り込まれていく、などの言葉は、物語終盤のフィドルス自身も、1年間の戦いの回想の中で使用していきました。みんなの生き方を、フィドルスが自分の記憶(=歴史)の中に、織り上げていくんですね。
すこし読み方が斜めからになるかもしれませんが、本書はドッペルゲンガー的な作品でもあります。うりふたつの2人の人生が、とけあっていく様子が描かれていくもの、という意味です。
このドッペルゲンガーというテーマ(?)で僕が忘れられない強烈な印象をもっているのは、オルハン・パムクの『白い城』。この本はすごかった。パムクは作中で、オスマン帝国とイタリアのそっくりな男たちを、向き合わせる。
パムクは現代世界文学を代表するひとりだと思いますが、『白い城』の二人は、それぞれが、「東洋」と「西洋」という役割を与えられて作中で哲学を展開していきました。
サトクリフの本作では、フィドルスとマイダーは、ただただ、シンプルにひたすら生きる。生きる目的に引っ張られていく。
サトクリフの本にいつも感じるもの。
運命、孤独、生きる、疾駆する、戦い。
ほかにもある。歴史、自己犠牲。
猪熊氏の「あとがき」の言葉が、サトクリフ作品を評するうえで、この上ないほどに言い得ておられたように思いました。よって、ここに少し引用してみたい。
こちらの文は、『第九軍団のワシ』についての言葉でしたが、本作もふくめてサトクリフの作品に流れている一貫したテーマはこれだと思いました。
個人にとってはどんなに切実な問題であっても、歴史が形成されていく過程のなかに埋もれてしまうこともありうるのだという人生の冷厳な事実
歴史、うずもれていく個人の問題、冷厳な事実。
サトクリフの作品は、冷厳さをたたえているんですね。今回、やっとわかりました。
これはまことに「あらあらしい」物語です。しかし、ともすれば自分の生きていることの意味、そして人間としての責任の所在を見失いがちな今日のわたくしたちに、「人は何によって生きるか」という大きな問題をつきつけゆさぶりをかけてくる力にみちた作品だと思われます。
サトクリフの作品にでてくる青年たちには、いつも称賛を送りたくなる。
かれらはいつも、読み手をゆさぶってくる。