帚木蓬生 『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
僕にとってのこの書:
ネガティブ・ケイパビリティは、早急に答えを出さず、不安定を受け入れる力。わからない状態に耐えて、希望が育つのを待つ力。
2017年の出版。
いろいろな方面でながく話題になっている書だと思うのですが、ようやく読むことができました。前回読んだこちらの本の内容は、対人支援職に有効な考え方としてネガティブ・ケイパビリティを紹介する意図の本でした。
僕は歴史の教師で、コーチングを学習中です。教師にもコーチにも、ネガティブ・ケイパビリティという考え方は力をくれるのではと、関心を持っていました。
ずっと読みたいと思ってはいたもののようやく読む日がきた、そんな本です。直接的には与那覇潤さんがこの本に言及していたことがきっかけになりました。
大きな感銘を受けたのは、「ネガティブケイパビリティ」の言葉の意味もさることながら、この言葉の背景にある歴史でした。この言葉は、もとは詩人のジョン・キーツ(1791−1821)の言葉。
キーツのことを僕はよく知りませんでした。ロマン派の詩人ですね。
著者による詩の引用もありますが、とても切実な詩を書くひとだなあと思いました。キーツは、詩人にして、医師でもあった。
キーツは、多くの不安の中で詩を書き続けた。詩への不安、生活への不安、未来への不安。それに、彼の生きた時代は、イギリス産業革命の時代であり、フランス革命の時代。生活や価値観が大きくゆさぶられた時代だったでしょう。不安だっただろうなあ。
こうした不安のなかで本当の言葉を探し求めた結果、かれは詩作に必要な力をシェークスピアに見出した。
いわく、シェークスピアの詩には"feel of not feel"がある。受動的にものごとをとらえる感覚。劇の中の登場人物にも、この受動的な力がある。キーツはシェークスピアの作品にあらわれるこの力のことを、「ネガティブ・ケイパビリティ」と表現しました。愛する弟たちへの手紙の中で。
おどろいたのは、キーツがこのことば使用したのは、25年の生涯でたった一度だけだった。
さて、この言葉の力を晩年に信じたのは、170年後、ウィルフレッド・ビオン(1897-1979)。
ビオンは高名な精神科医にして、精神分析医。さらには大戦の英雄にして、オクスフォード大のラグビー部主将(水泳部主将でもある)。インド生まれの、もと高校教師。ワンアンドオンリーな医師でした。
もとは芸術を生み出すための力、正解のないものにむきあいつづける力、そういうものだったネガティブ・ケイパビリティは、ビオンによって、精神分析医にとって大切なものという意味を与えられました。
奇跡のようなことばのリレーだなと思いました。美しい話。
ビオンは、この力について、「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態でつちかわれるものだと言ったそうです。
仏教の「空」を連想させますね。
さて、以下は本書のなかの印象的な部分を抜き出してみました(ママではない)
・脳はそもそもわかりたがる。その意味ではネガティブ・ケイパビリティは本能に反する
・脳は期待する。
・楽観視する力。医療の歴史はプラセボ効果の歴史。プラセボ効果とネガティブケイパビリティの親和性。
「日薬」と「目薬」
・伝統治療師 「メディシン・マン」
まじないしや祈祷師のことです。伝統的な社会にいた医学のない世界で医療を行っていた人をこう表現するそうです。
・創造行為の負荷 芸術家たちのアルコール依存。
・創造行為の苦しさに、ネガティブケイパビリティが必要だった。
・偉大な詩人は「アイデンティティを持たない」。この世の事物の中で最も詩から遠い。
・ネガティブ・ケイパビリティと紫式部
おもしろいのは、「メディシン・マン」と呼ばれる医療っぽいことを行う人々への言及。僕も共感できるところがありました。伝統医療者には占いなども含まれるでしょうか。じつは僕は占いには影響を受けるんですよね。いつかそのことについて書きたい。
コーチや教師、医療者や芸術家の仕事に共通点があってうれしく思います。かのソニーロリンズをして、ひとたびはドラッグの世界に足を踏み入れさせてしまった。芸術とはかくも孤独なものなんだと思わずにはいられません。
本書には「ネガティブ・ケイパビリティと教育」、という章もあります。いつかそのことについても書きたい。