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『婦系図』、『源氏物語 六条御息所の巻』2024年10月歌舞伎座 夜の部
遅くなってしまいましたが、24年10月歌舞伎座の夜の部、感想を残したく思います。
夜の部は泉鏡花原作の『婦系図』、そして『源氏物語』から六条御息所の巻。
どちらも、わたしにとっては「思ってたのと違う」興味深いものだった。
婦系図
原作は1907年1月から4月まで新聞に連載され話題になった小説『婦系図』。
初代喜多村緑郎が劇化を望んで、翌1908年に初演。早瀬がお蔦に別れを切り出す「湯島境内」の場は、小説にはない。
新派の『婦系図』を見たことがない。市川雷蔵の映画『婦系図』は、あまり面白くなかったことしか憶えていない。
その状態で観たのだが、今回の二幕の上演だと、うっかりすると原作の小説とまるで逆の印象を受けるかもしれないなぁと感じた。
今回上演の『婦系図』は、若いドイツ語学者の早瀬主税(片岡仁左衛門)と、元芸者お蔦(坂東玉三郎)の悲恋がメイン。恩師である酒井(坂東彌十郎)の言う通りにお蔦と別れる早瀬主税は、女性差別や階級に屈したように見える。
小説では、恩師の娘妙子と、早瀬主税の友人で静岡の名家の跡取り・河野英吉の結婚も大事な軸である。妙子を品定めする河野家に早瀬は反発する。早瀬主税はお蔦と別れたあと、静岡へ帰って河野家に接近し、命を賭けて階級と闘う。
早瀬主税は、河野英吉の父に言う。
可愛い娘たちを玉に使って、月給高で、婿を選んで、一家の繁昌とは何事だろう。
たまたま人間に生を受けて、然も別嬪に生れたものを、一生に唯一度、生命とはつりがえの、色も恋も知らせねえで、盲鳥を占めるように、野郎の懐へ捻込んで、いや、貞女になれ、賢母になれ、良妻になれ、と云ったって、手品の種を通わせやしめえし、そう、うまく行くものか。
(略)
河野の家には限らねえ。凡そ世の中に、家の為に、女の児を親勝手に縁附けるほど惨たらしい事はねえ。
原作の小説はタイトル通り、人を系図(血縁、財産、地位)で判断し、特に女性の自由を奪う階級社会への強烈な批判と憤怒になっている。
行儀の良い、若き学者早瀬主税が、堪えに堪えていたものを吐き出してその本領で血の花を咲かせるようなラストも印象的だ。
今回の芝居で萬壽、彌十郎、仁左衛門によって表される人物がどれも奥深い。
だから、たとえ原作の小説を知らなくても、この物語は単なる美男美女の悲恋ではなく、もっと何かあるぞ、と思わせる。
しかしもしも、これが別の配役だったら、『婦系図』って好かん、の感想で終わってしまったかもしれない。
登場人物の動きやセリフを、全部そのまんま受け取ると、この展開にいったい何を観ろというのだろう?と腹が立って終わるような気がする。
*
さて。
仁左衛門の早瀬主税は、若く、生真面目で、気骨のある人物。キリリとした眉が涼しげで美しい。
恩師である酒井(坂東彌十郎)に対して折り目正しく、それでいて情けなくはない。師を取るか女を取るか酒井に迫られ、「女を棄てます」と答えるのだが、フニャフニャと不甲斐なく見えないところが、やはり仁左衛門。
お蔦と主税を取り持った芸者小芳を、中村萬壽。
萬壽の芸者役を観るのは久しぶり。しっとりとした色気がある。
小芳は、早瀬を叱りつける酒井(彌十郎)をどうにか宥めようとする。早瀬が、お蔦と別れると答えると、それはそれは辛そうにうなだれて、言葉を失くす。
お蔦と仲がいいとか、早瀬との間を取り持った責任だけではないのが、ひたひたとこちらの胸に押し寄せる。
小芳は、芸者であることから妙子の産みの親であることを世間に隠している。
世間をはばかって親と名乗れない、芸者の身の上を、いま再び目の前にして、打ちひしがれる。
坂東彌十郎が演じる酒井は、セリフも動きもほとんど悪役状態だが、居丈高に弟子の頭を押さえつけるのではない複雑なものを感じる。
「女が焦がれ死に」してもいいから別れろ、との言葉は、早瀬に強くぶつけられていながら、一方で、全ての恨みを自分が引き受けるという熱も含んでいる。
(小説では、病気で死ぬお蔦を、早瀬の代わりに看取るのは酒井である)
第二幕の湯島境内で、酒井からの金を「手切れか」と邪険にするお蔦(玉三郎)を早瀬が叱るのは、早瀬が恩師酒井の複雑な心を感じているからなのだろう。
坂東玉三郎のお蔦。
芸者をやめて早瀬と住んでいるが、大っぴらに奥さんと名乗れず、め組(というあだ名の魚屋)くらいにしか顔を見られないよう、家でも早瀬に客が来ると隠るような暮らし。
デートが嬉しくて、甲斐甲斐しく早瀬の世話を焼き、はしゃぐお蔦が可愛らしい。
この部分のお蔦に関しては、小説にない場面であるし、他の登場人物と違ってこのまんま、小説を膨らませる形で受け取るものなのかもしれない。
仁左衛門の早瀬とのポンポンとしたやりとりには、思わずこの次の悲しい展開を忘れて頬が弛んでしまう。
「静岡って箱根より遠いんですか」の地理感覚のなさとか、別れ話を切り出されてこのまま現地解散(?)だと思っていた天然ぶりは、そういうところが女性の可愛らしさだと描かれているわけではなく、こういうことさえ知る機会を与えられずに来た、と見るのだろう。
舞台照明もずっと暗く、別れだけの場面で、いろんなものが鬱々と胸に溜まる芝居ではある。
しかし、こういう気持ちになるのも、芝居の一つの魅力だと思う。この辛い光景が、つい数十年前までめずらしくなく、いまも変わりきらない。
そういうことを考えさせてくれるのも、芝居の力だと思う。
地味に悔しかったことが、ひとつ。
第二幕の湯島境内で、声色屋が出てくる。
「橘屋の真似」と言っていたように思う。それなら15代目市村羽左衛門なのかな?と思ったが、わたしは本物を聞いたことがなく、似ているともいないとも分からなかった。
源氏物語
舞台に大きな屋体を置かず、几帳を何枚も互い違いに重ねるというシンプルさ。それでいて、平安絵巻の広大さと、優美さが表れている。
これで奥行きも出しつつ、廻り舞台を180度回すだけで、2つの館(左大臣邸と六条御息所邸)を切り替える。これはすごい。
坂東玉三郎の六条御息所。中村時蔵の葵の上、その両親が坂東彌十郎と中村萬壽。
光源氏は市川染五郎。
染五郎の光源氏がぴかぴかと眩しい。
染五郎をはじめ、現在考えられる最高の配役。なのに、展開にモヤモヤする。
源氏物語の六条御息所は、前東宮(桐壺帝の兄)の妃。
気品と教養があり、ハイセンスで人々の憧れの的。しかし考えすぎるタイプで、気位が高く、軽んじられたり人の噂になるのは耐えられない。
それもあって、光源氏の足は以前に比べ遠のいている。
今回の『六条御息所の巻』では、愛が去っていく悲しみ、先の不安を、六条御息所が光源氏に向かって訴え、嘆く。
すると、光源氏は怒って「もう二度と来るまい」と言い帰ってしまう。
先に『婦系図』で、強引な別れ話をお蔦が承諾させられるのを見ていたフラストレーションがわたしにあるのか、六条御息所が光源氏に、ストレートに恨み言をぶつけるのは、聞いてて気持ち良いところもある。
しかし…。
そうストレートに発散できないから、この人は生き霊になるのでは?と首を傾げたくなってしまう。
さらに、今回の舞台では、赤子と2人になった葵の上に六条御息所の生き霊が襲いかかると、僧と光源氏が駆けつけて生き霊を追い払う。
葵の上と赤子を抱きしめて、誰にも我々は引き裂けない!と光源氏は言う。
もののけは去ったぞ、と高らかに言って、幕。
…あら、幕ですか。
葵の上、死なないの?
六条御息所が、めんどくさい女認定されて光源氏に「二度と来るか!」と言われ。
恨み悲しみのあまり心が身体を離れて正妻の枕元に立つも、僧の祈祷でさっさと追い払われ。
めでたしめでたし…ですか。
光源氏の押しに負けて始まった関係なのに(たぶん)、自分でも気付かぬ間に生き霊になるほど恋焦がれてしまうのが六条御息所の悲しさ寂しさ。
そして光源氏の罪の深さ。
罪の報いを、光源氏は夕顔や葵の上の死という形で受けることになる…と思っていたので、おや?となる。
もとの物語どおりの展開にすべきなんて気持ちは全く無いのだが、どうせ観るなら、これもいいねと思いたい。
まさか、『婦系図』と並ぶとどっちも結末が悲しいから変えようなんて理由ではないはずで…。
どういう思いで、何を伝えようとしてこういう形になったのだろう? それがわたしはまだ分からないでいる。
まあ、もしかすると、いったん六条御息所を追い払っただけかもしれない。
いずれまた襲われて、そのときは葵の上が死ぬのかも。最後も照明の明るさは全開ではなかったし…?
いや決して、葵の上に死んでほしいわけではないのだが。
展開にはモヤモヤが残りつつも、風情の部分は大満足。
萬壽の左大臣の北の方が、手を隠した袖の形といい流れる髪の広がりといい、絵巻を見るように美しかった。
玉三郎の六条御息所は、葵の上への恨みを見せる場面が最高。
地を這うような低い声で、「おのこ…」と繰り返し、その幸せはやらぬと呟くくだり、怖すぎる。
さっきまで、光源氏の後ろ姿を追って、よよと泣いていたのに、この落差。
本当に軽やかに、この人は世界を飛び越える。
時蔵の葵の上は、賢くちょっと硬質な葵の上らしさがある。さらに、六条御息所の生き霊に襲われるところが良かった。
枕元に現れた六条御息所が、扇で払うようにすると、体を持ち上げられたようにズズっと立ち上がる。最初、ワイヤーで吊るのかと思った。
スムーズに立ち上がるとかいうレベルではない。本当に、吊り上げられるように身体が持ち上がっていた。どんな鍛え方なのだろう。
ますます、時蔵の芝居を好きになる。
そんなわけで、歌舞伎座10月の夜の部は、どちらも初めて観る演目で意外さが面白かった。
長文お読みいただき、ありがとうございます。