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【藤田一照仏教塾】道元からライフデザインへ(19/06)学習ノート②

(ここまでの6月一照塾)
6月塾のオープニングとして一照さんが語ってくださった「early bird talk」の模様は、学習ノート①をご覧ください。

この「学習ノート②」では、5月一照塾からのhomeworkをシェアするグループワークについて振り返っていきます。

(5月一照塾からのhomework)

「坐禅の功徳」を自分の言葉で表現する

3~4人ずつのスモールグループを組んで、それぞれが小グループ内でシェアした中から全体でシェアしたほうがよいもの、あるいは"問い"として一照さんに投げかけたいものをグループ内で一つ選んで、全体にシェアする。

1. 坐即転換

(塾生cさんのシェア)
私たちのグループの話し合いの中では、ワードとしては「無碍」とか「超越」という言葉が出てきました。
「超越」という言葉は「beyond、向こう側へ越えていく」という意味ではありますが、超越の"超"は、「調身・調息・調心」の"調"と音は同じだね、という話が出ていました。
「超越」ということで問題になってくるのが「自分、自我」だという話になって、自我と世界との関わりの中で、向こう側からやって来るものと、自分がいまいるところの"境界"が、普段の日常生活とは変わってくるという時間が過ごせるのが坐禅の功徳だね、と。
そこで出てきた例え話が、あたかも「カルピスの原液」のような状態で自我を防衛しながら社会の中で頑張って暮らしている普段の自分から、坐禅では「カルピスの原液を水で薄めた感じ」みたいな感覚になるのではないか?という話が出ていました。

〔一照さんコメント〕
今のにコメントするの?どうやってコメントすればいいのか(笑)。
今のお話を聞いていて思ったのは、坐禅の功徳の一つにあるのは「普段の自分から切り替えられる」ということです。"切り替え"というのは、"切断"と言ってもいいし、あるいは図と地の"転換、反転"とも言えるでしょう。坐禅は、その切り替えなり転換・反転を、身体で具体的に行なっている、ということです。
「坐って、転換する」のではなくて、坐ることが転換そのものになっている、「坐即転換」というところが坐禅の功徳です。

坐ってそれが転換になっているのですから、それはそれでいいのですが、私たちはその転換としての坐から、いずれ立つわけです。
「坐即転換」というのは、私たちの意識に上ろうが上らなかろうが転換しているわけです。これを「即自的」と言います。サルトルの本を読んでいて出てきた言葉ですが、何かの概念の日本語訳でしょうね。「それそのものが、そうなっている」という意味で即自的というわけです。

しかしそれだけでは足らなくて、即自を「対自的にする」ことが必要になってきます。"対自"というのは、「即自的に起きていることの意味を自覚する」ということです。人間は、この"対自化"ができるわけです。対自化ができると、私たちの日常に影響が及んでくるのです。

坐禅中にはもちろん、心拍数が減ってきたり、酸性だった血液が弱アルカリ性になったり、緊張していた内臓が緩む…といった、私たちの意識が及ばないところで即自的なことが起きているから、「坐禅健康法」みたいな本が出ているわけなのですね。身体を平常に戻す働きが即自的に起きている…それはそれでいいのですが、対自化するという営みも大切です。

坐禅をし始めたばかりの頃は、坐禅が何か特殊なことをしているように感じるわけです。日常の状態から、日常でない状態のほうへ行っているという感じがするのですが、その"日常でない感じ"が対自化されて「これはなかなかいいものだな」というのがだんだん分かってくる状態になる。

その「即自⇔対自」をぐるぐるしているうちに、だんだん"比重"が変わってきて、「そちらの感覚のほうがほんとうだな」、"日常でない感じ"と思っていた側のほうが日常で、普段の状態のほうが"非日常"と感じられる、「日常/非日常」の図柄が反転するようなことが、いつか起こるのが期待されている。「修行」というのは、このようにデザインされているわけです。

転換・反転というのは、昨日今日起こるという話ではなくて、じわじわ進んでいって、気がついたら反転していた…というようになる。
きょう物販用に持ってきた、私の新しい本「ブッダが教える愉快な生き方」にも、こういうことを書きました。

「修行をしていくうちに本人の意識に上らずに「好くなる」状態へと変容していくのは、たとえば、霧の中を歩いていると知らないうちに着ているものがぐっしょり濡れるようなものです。いつ、どこで、なぜ、そういうことが起きたのかを特定することは困難なのです。
(「ブッダが教える愉快な生き方(NHK出版)」83ページ)

「いつ、どこで、なぜ、そういうことが起きたのかを特定することは困難」というのは、発酵(英語ではfermentationといいます)という現象にも似ていますね。「人間にとって有益な腐敗現象」のことを発酵と言うわけです。
近日、「青山ブックセンター」で、桜井さんの知り合いの熊倉敬聡さんという人の新しい本「藝術2.0」(春秋社刊)の出版記念イベントがあるのですが、そこで私と話すのは小倉ヒラクさんという「発酵デザイナー」です。

即自的に起きていることの意味を対自化する時に、「経典」のような文字で書き表わされたものや、言葉による表現が役に立つのです。
自分だけでのプロセスとなると時間がかかるのですが、即自の意味が言語化されていると、それがヒントになるわけです。心理セラピーの領域だと、「フック」とか「ハンドル」と呼ばれているものです。気づきのための手がかりになるということですね。

このあとの時間で読む道元の言葉や教えなどが、

フックやハンドルとして役に立つ、
リソースとして使える、
fermentationを早めてくれる、
励みになるし、対自化のプロセスを明確化してくれる

…というわけです。


自分ひとりだけで気づく…というのは、やはりすごく時間がかかるでしょう。なので、「先に誰かが歩いて、道ができている」というのはとても役に立つことです。
安泰寺での冬の修行の時に、雪山に道をつける「ラッセル」という作業がありました。最初に歩く人は大変なのです。新雪の上を足を高く上げて踏み込んでいかなければいけないので。2人目の人は、最初の人がつけた道の助けを借りながらちょっとだけ楽に進める、3人目の人はまたちょっと楽に進める…という具合に道ができていくわけです。

ブッダが最初にラッセルをやってくれたので、そのあとの人たちはずっと楽に道を歩くことができるというわけです。

2. 「この世界」は、どの世界?

(塾生dさんのシェア)
坐ると「ワンネス(oneness)感」を感じるよね、という話をしていました。「ユニバース(universe)」というと、すごく遠いところのようなイメージがあって、仏教での"悟り"とか"涅槃"というのも、とても遠いところにあるもののような感じがするのですが、久しぶりにあった気功の先生が、「"ここ"なんだよ。どこか遠い場所ではなく、ここがonenessであってuniverseなのだから、ここから気をつくっていけばいいんだ」というお話をしてくださって、それがすごくしっくりきました。
深く内観するだけでもなく「onenessとつながる感」というのが、坐禅をしているとなかなか難しかったりするのですが、坐る時に眼を閉じたり"半眼"だと難しいので、最近は空を見ながら坐っていたりもするのですが、そうしていると、「universeって"このサイズ"だよね」という感覚が近い感じもしてきます。

〔一照さんコメント〕
朝日カルチャーセンター新宿教室での講座「鼎談・仏教3.0を哲学する」でも一緒にお話している、哲学者の永井均先生の講義を、つい先日も聴いたところでした。すごく面白かったですね。

私たちは「コトバ」を通じ合わせることによって、一つの共通した世界を「構成」している…というわけです。世界というのは「構成されたもの」なのです。私たちは「世界そのものを体験している」と思っているけれど、実は「構成された世界」を体験している、ということです。自分で世界を構成して、構成された世界を"世界そのもの"だと「思いなしている」…というわけです。これをもっと哲学的に言うと、さらに長い文章になっていくと思うのですが。

内山興正老師の言葉で言うと、カタカナ書きの「コトバ」によって世界は構成されている、というわけです。「言葉というはたらき」というニュアンスを込めて、内山老師はカタカナで「コトバ」という表現にしているのだと思います。

コトバというはたらきによって構成された世界の中には、様々な人たちがいて、その人たちは、例えば「貧乏で、不幸せ」な状態から脱して「お金持ちで、ハッピー」な状態を追っていたり、そういうことを一生懸命しているわけです。仏教でも、これに似たようなことが説かれているわけですが、これは内山老師のいわゆる「第四図」と言われているものです。

(「第四図」と「第五図」、参考:「<仏教3.0>を哲学する」(春秋社刊)」110ページ)

永井先生の講義の時におもしろいなと思ったのは、永井先生は「この第四図の中の様々な人たち、逃げたり追ったり戦ったりしている人たちの中に、"自分"が一人いますよね」という話をするわけです。

「第四図の中にいる人たちの中にたった一人だけいる<私>」というのを、永井先生の独特な表現で「独在的存在」と言います。
「独在的」とか「独在性」というのを簡単に言うと、「世界は"ここ"からしか見えない」ということになります。どんなに高速であちこち移動してみても、世界は常に"ここから"しか見えないじゃないですか。叩かれて痛い身体も、音が聞こえるのも、常に"ここ"にしかない。この不思議さとか異様さ…っていうのは分かりますか?

この第四図の「コトバで構成された世界」のことを「世間」ともいうのですが、世間の"間"というのが大事で、この"間(あいだ)"には、国家とか文化とか歴史、時代というのがあって、コトバによる構成の仕方がそれぞれ違ってくるのです。
むかし、うちのおばあちゃんが「世間様が許さない」とか「世間に笑われる」とよく言っていて、「世間様って誰だよ?そんな人がいるのか?」と思ったものですが、その当時の私にはその意味がよく分かっていなかったのですが、今はよく分かります。世間は世間で、リアリティをもって存在しているのです。

世間の中には「私(1)、私(2)、私(3)……」という具合に、「私」がいっぱいいるわけです。だって、みんな一人称でしゃべっているじゃないですか。こういう私を、「私」(カギカッコの私)というわけですが、その「私」たちの中にたった一人だけいる<私>(ヤマカギの私)は、他の「私」とはまったく違うありかたをしているのです。

この<私>というのは、世界が始まるところ、

「世界開闢(かいびゃく)の起点」

であるわけです。
(参考:「<仏教3.0>を哲学する」(春秋社刊)」191ページ)

第四図の中にいる様々な人たち、コトバのはたらきで構成された世界を世界そのものと思いなして生きている人にとってみれば、この「世界開闢の起点」という事実は見失われているわけです。
それでも、その人たちがその事実を忘却していようがいまいが、世界はそこからしか開けていないという事実には何の変わりもないのです。

内山老師の第四図は、先ほど言った「転換」の前の状態です。そして第五図というのは、第四図の様相とか中身(「アタマの展開する世界」)は変わらないのだけれど、第四図のままに坐禅している身体がある…という図になります。第四図から第五図への転換というのが、先ほど話した「坐即転換」になってくるわけです。第四図というのはアタマの中で起きていることで、リアリティというのはその外側にある…というところへ転換していくことになります。

しかし、「世界開闢の起点として<私>がある」という事実は、転換の前後で何の変りもありません。では何が変わるのかというと、

「世界開闢の起点としての<私>を"思い出した、気がついた"」

ということが起こるわけです。

第四図の中で逃げたり追ったり、グループ呆けしながら生きている人たちも、即自的には世界開闢の起点として生きているのですが、それがまったく対自化されていなかった、ということに"気づく、洞察する"という転換です。

悟りというのは、今までになかった新しいものが加わるわけではないのですよ。「(世界開闢の起点として<私>があるということが)実際にそうだった」ということに気がつく、というだけの話です。それを、自分の"世間"での生活の中に影響させてゆく…ということになります。

講義の中で永井先生がおもしろい言い方をしていたのが、「私たちは、構成された世間(=演劇)の中に「没入」してしまっている」というわけです。「没入人から、(演劇の)"見物人"になる」というシフトです。
見物人になったからといって、第四図的世間から出ることはできないので、

「演劇を続けながら、観客席から演劇を観るという視点も同時に持てるようになる」

という言い方をされていました。

先ほどシェアしてくれた「ワンネス感、この世界、universe」というのは、神秘的な話とかいうものではなくて、<私>というのは、

「世界開闢の起点である<私>と、そこから開けている世界」、この全体

が<私>ということです。

ところが、同じ"わたし"という言葉を使っても、私は「<私>(ヤマカギの私)」と呼ぶするつもりで"わたし"と言っても、他の人が、私が"わたし"という言葉を使うのを聞くと、「「私」(カギカッコの私)」のことだと思ってしまう。このズレが問題になってきます。
<私>が包含しているものは「世界」であるわけですが、他の人にとっては「「私」(カギカッコの私)」のことであると(悪気がなくても)誤解しているのです。しかも、世間では不思議なことにその誤解が通用してしまうので、人は世間にどんどん没入していってしまうことになります。

しかし、没入していても、「<私>が世界開闢の起点である」という本来的な事実は変わらない。私たちがいま読んでいる「弁道話」の"自受用三昧"というのは、こういう問題を扱っているのだと私は思っているのですよ。
「自分の世界を、自分として生きていて、それを受けて用いている」。
「ワンネス感」にしても、この<私>の観点というのを入れれば、別段遠いところとか大変なことではなくて、ただ単にそういう事実があるだけ、ということになります。

この事実というのは永井先生にとっては決定的なもので、神や仏のことを飛び越えてしまうくらい大事なことだと、講義の中で話していました。
「世界開闢の起点としての<私>」を抜きにして、いろいろなことを考えてしまうと、何か大事なことを忘れてしまうことになる…というわけです。

「世界開闢の起点として、"特異点"として独在している<私>」の驚くべき不思議さ、異様さ…「宇宙は歪(いびつ)である」といってもいいですよね、これを見失わないようにして、対自化して、日常生活に影響させていく…これが、永井先生が取り組んでいるプロジェクトだと思います。

この観点は仏教にきちんとリンクできるし、それを盛り込んでいけば、

辞書的で平板な仏教から、もっといびつで、目覚めへの起爆剤となり得る仏教のメッセージが出てくるのではないか?

…という期待をもって、私は永井先生とお付き合いさせていただいています。


3. doing→undoing→being

(塾生eさんのシェア)
私たちのグループでは、「何のために坐禅をするか」ということについて話をしていたのですが、「坐ること自体が、"自分のスペースを持つ"ことにつながるのではないか」という意見が出てきました。
このグループに集まってくれた人は、東京に住んでいる人もいればそうでない人もいて、東京に住んでいる人にとっては、普段の生活ではあまり意識されないのだけれども、やはり「パーソナルスペース」が少ないと感じられるようです。そのことは日常生活の中で慣れているとはいえ、やはり何となくの違和感を持っている。そういったスペースを持つために、「自分の身の置きどころを探す」というのが、坐禅をしたくなる気持ちの一つなのではないか、という話ができました。
 
坐禅をしたいシチュエーションというのは人によって様々で、心がざわざわしている時ほど自分のスペースが欲しくなるという人もいれば、逆に、心が穏やかだからこそ坐る時間をもちたい…というパターンがあって、これには個人差もあるのかなと思います。

現代では、何らかの目標を設定してそれを達成したり、あるいは成果を出すことが、例えばビジネスの世界では重要視されていて、「ただそこにある」ということに価値を見出されていない…という感覚が共有されました。
坐禅って、坐っている間は酸素は消費しているのかもしれませんが、それで何かを生産しているわけではないですよね。「何も生産せずにただ坐っている」という、世間にとっては何の役にも立っていない時間を過ごすこと自体が、自分のありかたを認めてあげたりだとか、ひいては他者のありかたも認めてあげることにつながるのではないか…という話ができました。

〔一照さんコメント〕
"世間"とか、第四図的世界の中では、自分を見せなければならない…前の塾の時にも話したように「You should become SOMEONE... ひとかどの人間にならなければいけない」ということが求められてしまいます。
しかし、このSOMEONEというのもコトバによって構成されたもので、どんな人が価値があるのかということは、時代や文化によって異なってきますので、必ずしも自分のハートから出てきたものではないわけです。

ブッダのことを考えてみても、当時のインドはカースト社会で、生まれた家の職業を維持発展させるのが、その人に課せられた宿命…というようなことが、文化の中に制度として組み込まれているのですが、ブッダはそこから降りたわけです。「"世間"に対する責任放棄だ」などと言われかねないので、これは相当な勇気が要ることですよね。

「社会から期待されている役割」というものに疑問を持って、自分に対してその役割を免除する…などということは、"世間"の構成員の皆にやられたら困ることなので、社会の側からは、それを許さないような「自罰のメカニズム」が様々なかたちで私たちの中に埋め込まれているので、難しいことではあります。

世間というのはあるリアリティをもって、そのような拘束を私たちにかけてくるのですが、それは必ずしも私たちの「人間としての幸福」にはつながらないわけで、そこには社会の圧力と個人の自由との間の対立・ジレンマがあって、それは各自が各自のやり方でもって解決していかなければならないという問題は、時代に関わらず共通の課題としてあると思います。

むかしよりは現代のほうが自由度が高いと言えるかもしれないけれど、それほど楽観的にも言えないような気もします。逆に現代のほうがその課題に向き合うことが難しくなっていて、「この人生、何をやったらいいのか分からない」という人が増えている…というのは、現代のひとつの問題だと思います。

「人生として与えられた何十年かの時間を、どうやって後悔のないように使うか」という課題に取り組むにあたっての"間違いのないやり方"というのは、おそらくまだ私たちは発見できていないし、それを見つけられるかというのが問題で、仮にそのやり方が見つかったとして、「やり方通りにやったら間違いないだろう」と考えてしまうのも、また一つの大きな問題ではあるのでしょうが…。

「その問題を引き受けるかどうか」。
坐禅はこれに大きくかかわっているのだと思います。

「ただそこにある」というのは「being」と言いますけれど、これとは反対に、「何かやる」というのが「doing」。「doingとbeingの上手な折り合いのつけ方」というのがすごく大事です。

エーリヒ・フロムという人の本に「To Have or To Be」というものがあります。日本語では「生きるということ」という題で訳書が出ています。
この本の中でフロムは「doing重視の現代社会では、beingが忘却されている」という立場で、なかなかおもしろい分析がなされています。
エーリヒ・フロムは、精神分析の知見を社会病理に適応した人として知られています。
私が「doingモード/beingモード」というような話をする時は、だいたいこの本がネタになっています。

doingとbeingという、この2つの存在の態様を対比させる観点からみると、坐禅はどう見ても「doingをやめて(undoing)、beingへ」という方向です。

実はプラクティカルな側面では、この「undoing」というのが大事で、doingからいきなりbeingにパッとは移れないんですね。undoingというのがどうしても間に入ってこなければいけない。「手足を使うのをやめて、口を使うのをやめて、脳(思考)を使うのもやめる」坐禅のかたちというのは、まさにundoingを象徴していると言えます。

undoingで何をやめるのかというと、「人間的な力み」をやめる。
「"動物的な"力み」というのは、生物として生存するために必要なのですが、その過剰なものが人間的力みということです。
"世間"での体面を保つために、心は力みますよね。エゴの維持と拡大のために、人間的な力みが起こります。それが様々な苦悩を作り出すわけです。それを解消するには、逆方向へ行く必要がある…ということが、実践的な(プラクティカルな)側面から考えられるわけです。
人間的な力みを手放すための練習、あるいは人間的な力みを"浮き彫りにする"ために坐禅をするとも言えるでしょう。

坐禅をしているときに"抵抗"として現れてくるものは、人間的な力みが基になっているというわけです。坐禅の難しさというのは、「人間的な力みの手放しの難しさ」ですね。
日常生活の中でいろいろなことをしながら人間的な力みを手放していくというのは非常に難しいわけです。「坐禅の功徳」というのは、「doing→undoing→being」をやりやすい状況を作ってくれていることだと言えます。


4. ジューサー

(塾生fさんのシェア)
にんじんジュースをジューサーで撹拌するんですよ。撹拌している間が日常で、内山老師の図で言うと「第四図」。坐って、ジューサーを止めると、分離して上澄みができますよね。私は坐ったあとにこの「澄んだ」という感覚があるんです。この上澄みができるところが「第五図」。
ジューサーがガーッと撹拌している中に入ってしまっているのが、先ほどの一照さんのお話で言えば「没入人」の状態ですよね。日常の中でも、例えば「ジューサーの中ににんじんが入ってきたな」とか「撹拌のスピードが"中"になったな」と自覚できていればよいのですね。
坐って、ジューサーがわさわさ撹拌しているのが静まって上澄みができてくるのが、私にとっての坐禅の功徳です。

〔一照さんコメント〕
「泥水の入ったコップをかき回した後に静かに置いておくと、重力がそれをしずめてくれて、澄んだ水と泥とが分かれる…」という喩えは、内山老師もしていると思います。でも、その泥が悪いというわけではないですよね。


5. 自然体を稽古する

(塾生gさんのシェア)
「坐禅は"何もしなくていい時間"」というコメントが、私たちのグループの中では出ました。ある人は「仕事上、眼を使うことが多いので、坐禅は眼を緩める時間になっている」と仰っていました。また、「偏っている自分に気づいた時にその偏りを緩めてくれるような時間になっている」という話も出ました。
「偏り」というテーマで話が進んでいって、人々の間に関わっている中で、心が乱れたり、「あの人がこうしてくれたらいいのに」と思った時に、実は自分のほうが偏っているのではないかと気づいた時に、坐禅のような状態を作るとそれがスッと静まって、「undoing」の状態になるのかな、と。そしてそのようなundoing状態になってから、あらためて物事を判断できるようになる…というのが、私が坐禅の功徳として感じることです。
アタマで「こうしたほうがいいのではないか」と考える時は「闘争的な状態」で、undoingな状態に自分がなった時には、気がついた時にはもう行動を起こしているな、と。自分自身の価値観が差し挟まれない状態で、すんなり動いている。そういう状態の時は気分としては「朗らか」になっているのではないか、という話も出ました。

〔一照さんコメント〕
人間的力みがないと"世間"ではやっていけない…と、私たちは思い込まされているので、先ほど発表してくれた「ジューサー」を動かさなくてもいい時間を、自分に対して保証してあげる、というのは大事な視点かと思います。

私たちが"世間"に適応する時には、「マイナスから逃げてプラスへ向かう、ペケ✖の状態→マル◯の状態、アンハッピー→ハッピー」という動きの中で適応しようとしているのですが、適応の方法は「闘争する(fight)」か、あるいは「逃走する(flight)」かのどちらかと言われています。

これが悪いわけではないのですけれど、いつでもこのモードになっていると、適応がパターン化してしまうということもあります。
一つは「ある場面でうまくいったら、次もそのパターンでいこう」というもの。パターンを変えないのは効率がよくて経済的だからですよね。
もう一つは、「パターンを変えることに恐怖を感じる」というものがあります。脳神経系的に、このどちらかに偏っていくわけです。

そうすると、そのパターンがうまくいかない時に困ってしまう…というまずい状況が起きてしまいます。この中間の状態が、仏教でいうと「中道」、neutralize(中道化)という新たなパターンが必要になってきます。「ホームポジション」と言ってもいいですが、坐禅はホームポジションに帰ること…。

これを武道で言うと「自然体」というものですね。動かないけれどいつでも動ける、動いていてもここに帰るし、ここからまた新たな動きが始まる…という「原点」にあたる姿勢のことを言います。それ自体は、防御でもなければ攻撃でもない。その自然体が確立されていないと、いつも構えを保っているということになるので、多くの場合は、その構えが隙になってしまうということになります。

「何に対しても構えていないけれど、すべてに準備ができている状態」

のことを自然体と言ってもいいと思います。それなしで「闘争か、逃走か」しかないというのは、未熟とも言えるし、危ない。

自然体が確立されていないことを別の言い方をするなら、「仕事ばかりたくさんあって、家がない」とも言えるかもしれません。坐禅は「my true home」を作っていることと言えるでしょうね。私たちはtrue homeに家を作らないで、外側に仮の家を作ろうとしている。

この状態が確立されると、この中で闘争や逃走という反応が必要に応じて出てきて、また収まる…というかたちになってきます。坐禅は、このホームポジションとか自然体の「稽古」になっている、あるいはそれを「味わっている」状態ということになります。

これはとても大事なことです。私たちがどんなに「忙しい忙しい…」とアタフタしていても、ほんとうに忙しくないところというのは「my true home」だけです。「homeがない忙しさ」というのが危ないのです。「安心して忙しくしていられるhome」というのが必要です。


6. 世界との新しい出会いかた

(塾生hさんのシェア)
坐禅の功徳の「メンタル面」と「フィジカル面」の2つの側面からの意見が出ました。
フィジカルな側面では、身体全体で起きている呼吸を感じられることが坐禅の功徳だと思いました。日常生活の中では、胸やお腹の動きで呼吸を感じることはあるかもしれませんが、それ以外の、例えば背骨や脚も呼吸によって微細な動きを感じられる…というようなことです
メンタル面では、人とのつながりとか、こういった学びの場にやって来ることも「坐禅がつないでくれた」と話してくださった人もいました。また、日常の中で"よいこと"があった時も「坐禅をしてきたことのお陰だな」と思えるようになったり、また"悪いこと"が起きた時もそうですが…自分のまわりで起きたことの受容のしかたが変わってきたとか、「自分を含めた世界で起きていることなんだな」という理解ができるようなモチベーションになることが坐禅の功徳だと思いました。

〔一照さんコメント〕
先ほど話した、内山老師の第四図に永井先生の「世界開闢の起点である<私>」の図が重なった図式で言うと、「私の目の前で起きていることはそのまま私の中身」という理解になってくるわけです。それはジューサーがガーッと撹拌している中ではなかなか分からないのですが、静かにしてみると…聴こえてくる音や見えているもの、匂ってくる香り、五感を通して届いてくる世界のありかたが実は私の中身だったということが、素直に認められるようになってくるわけです。

第四図的世界だと、自分のまわりに"仕切り"が入っているのです。人間的力みがその仕切りを形づくるのですが、坐禅の時というのは、周りを安全で自由な空間にしているから、そういう条件下で仕切りとかバリヤーをはずした状態で、内山老師が仰るところの「出会う処わが生命」をしみじみ実感できるような状況で坐っている。

それが馴染んでくると、「出来事との出会い方の今までにないかたち」というスタンスが生まれてくる。困ったことが起きたとしても、動揺はするのですが「それで世界がなくなるわけではない」というようにその度合いが少なくなるような感覚はあります。


7. 自分のオリエンテーションが決まる坐禅

(塾生iさんのシェア)
このグループでは、キーワードとしては「調律」とか「リセット」とか、「"ある"という感覚に立ち戻る」という言葉が出ました。
日常の中で坐禅をどういうかたちで取り入れていますか?という話では、仕事をする前に坐ったりとか、"朝晩くり返し坐っています"とか、"様々なエクササイズの一環として坐禅をしています"…など様々でした。
グループのどの方も仰っていたのが、「日常生活がしやすくなったよね」ということでした。お仕事をしていく中での人との関わり方など、物事がうまく進められるようになったりだとか、「ねばならない思考」を手放せるので、不安になったりすることも少なくなった、という意見が出ました。

〔一照さんコメント〕
坐禅によって「身ごなし・心ごなしがよくなる」というのでしょうか、ギクシャクする度合いが減ってくるということはあると思います。

摩擦のことを英語で「フリクション(friction)」と言いますが、「inner friction(内部摩擦)」というのがありますよね、例えば、精密に組み上げられた機械の中に、砂粒のようなものでも噛み込んでいたら、ガタガタと動きが悪くなったりするじゃないですか。それがまったくのゼロになるわけではないのですが、「精密機械の中に挟まる砂粒の大きさが小さくなる」というイメージを私は持っています。

私たちは大抵の場合、心の中で「内部分裂」しているわけです。心の葛藤は内部摩擦、inner frictionのようなものなので、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるというような状態でしょう。

別の言い方をすると、鉄が磁化するときには、鉄の内部にある無数の小さな磁石(分子磁石)の向きがピシッと揃っているから、外側にはNとSの磁界が生まれて、ものを引きつける力が発生するのですが、磁化する前というのは、鉄の内部にあるものの向きがバラバラで、打ち消し合って磁力が出ないわけです。

つまり、ブッダと凡夫とでは、その中身(ingredient)は何も変わらないのです。ブッダはピシッと揃っている。凡夫は「ああしたい、こうしたい」という気持ちの方向がバラバラ…というイメージを持っています。

教えを受けたり、坐禅をすることで、向きがピシッと揃う。
今日このあとのソマティックワークでもやりますが、

「自分のオリエンテーション」がはっきり決まる

ということですね。何かを行なう時に、自分の内側での葛藤が少なくなっていれば、ギクシャクすることも少なくなる…ということは言えると思います。

……このあと、学習ノート③に続きます。


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