「共に在り、共に学び、共に創る」という関わり。「挑戦の島」隠岐島前から開く、「技法以前」の伴走論
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──「伴走」という言葉が公用語になってきています。これがどうして社会に広がり、求められるようになってきたのか。その背景をどう見ているかを聞かせてもらえますか?
澤正輝(以下、澤):学校でいえば先生と生徒、会社でいえば上司と部下とわかれていますが、その関係性そのものが揺らぎはじめているんでしょうね。
これまでであれば、先生や上司は「正しい人」であり、より多くの情報や知識を持っていたり、より豊かな経験を持っている人だったりしました。持てる人と持たざる人という固定された関係性があり、導き、示すことが当たり前でした。
でも、あるときからその前提が揺らいでしまった。関係性はしだいに流動的になり、コミュニケーションも柔軟性が求められるようになってきました。こうした中で、新しい関わり方として「伴走的な関わり」に注目が集まってきたんだと思います。
──例えばある生徒がいたときに、伴走者がいる時といない時ではどんな違いがあるんでしょうか?
澤:伴走者が必ずいなければならないかといえば、そんなことはないと思っています。
ぼくは生徒や学生、学習者はすでに色んなことを学んでいるし、これからも学んでいけると思っているんです。上田信行さんは『プレイフル・シンキング』の中で「変容的知性(Yet Mindset)」と呼んでいましたが、ぼくも生徒たちが計画したり、実行したりするときに、彼らだけで何かをやっていくことは十分に可能だと思っています。
その上で、伴走者が「共に在る」ことによって、例えばほっと一息つけたり、もうちょっとがんばってみようと勇気を出せたりするなどの「前向きな変化」が期待できるんだと思います。
──「自分の伴走者はこの人です」「私はこの人を伴走しています」といったあり方もあると思うんですが、そうじゃないあり方もあるって感じですか?
澤:あると思います。例えば「あいつが留学先でがんばってるから、おれもチャレンジしよう」と思えたら、その関係ってどこか伴走的でもありますよね。直接的なものばかりじゃないと思います。
──最近、伴走されたエピソードはありますか?
澤:誰かを伴走している時って、だいたい自分も伴走されていますよね。生徒や先生の伴走をしていく中で、ぼくがエンパワメントしていることもあると思うけど、気づけばその様子に触発され、自分も何かを「はじめてしまっている」。「するーされる」の関係をこえて、エネルギーを交換しあい、エールを送りあっている。そんな感覚がありますね。
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──スポーツの世界における伴走者にスポットを当てた本を読んだ時に、走者がよりストレスなく、よりスムーズに走れるようにサポートすることに美学を持っているように感じました。教育の世界における伴走についてはどう感じていますか?
澤:前提として、「これをすることが伴走だ」という考えを手放すことがとても大事だと思っています。先ほどの例でいえば「走者が走りやすいように歩調を合わせることが伴走だ」というのは、そうしたほうがよい場合もあるし、そうじゃない場合もあるので、いつでも柔軟でありたいです。
歩調を合わせることが本当にベストかは状況によりますよね。心地よく走れれたほうがタイムが伸びるならそうすればいいけど、現実は必ずしもそうではない。違和感を感じたほうが問いが生まれ、メンテナンスやアップデートが期待できるなら、ぼくが伴走者ならあえて歩調をずらしたい。
主語はあくまで走者です。伴走者が「どうさせたいのか?」ではなく、走者が「どうなりたがっているのか?」を観察し、コミュニケーションをとりながら共に向かっていくのが伴走的な関わりなんだと思います。
──確かに新しい関係性のような気がしてきました。伴走に興味をもっている人は増え、悩んでいる方や困っている方もいると思います。悩みごとや困りごとに特徴はありそうですか?
澤:経験がありすぎる方と、なさすぎる方が苦戦している気がします。
不安感をあおられ、これまでのやり方を捨てないといけないと思っている方は苦しそうですよね。固執してしまうのは問題ですが、実際は全てを捨てる必要はなく、指導や指示が必要な場面ではそうしたらいいんです。でも、なかなかそうは思えない。
着任してまもない方は、どうしても経験が浅いので、「どこを観察したらよいか」も「どう軌道修正したらよいか」もわからず、四苦八苦しています。
どちらの場合も「まずは伴走してもらう」ことをおすすめしています。してもらえば「ここはマネしよう」「ここはアレンジしよう」というのが見えてくると思うからです。
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──奥は深そうですね。澤さんが伴走という言葉に出会い、アンテナが立つようになった前と後で、何か変化はありましたか?
澤:伴走という言葉を最初に意識しはじめたのは、「学校と地域をつなぐパターン・ランゲージ」を島根県内の仲間と一緒に開発した時でした。「社会に開かれた教育課程」を推進する「コーディネーター」の役割に注目したもので、42の言葉のひとつに「共に汗かく伴走者」(Core3)を加えたんです。
当時、探究学習やプロジェクト型学習が各地で展開されていく中で、それを支える伴走者についての議論があまり進んでいないように感じていました。であれば島根県の辺境から始めてしまおう、どうせやるならば極めようと考え、隠岐國学習センターの中に「伴走ゼミ」を立ち上げ、この指とまれに応じてくれた仲間と一緒に研究を始めました。
そこからは「伴走とは何だろう?」という問いと常に向き合いながら日常を過ごすようになり、解像度が飛躍的に高まりました。もともと他分野から学習し、応用することが好きだったこともあり、色んなところにアンテナを立てながら、あり方ややり方を研ぎ澄ませていきました。
いま思えば、この頃からいつも誰かや何かに伴走してもらっていたんですね。
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──教科的な学びと探究的な学びとを区別した時に、伴走者は前者の方によく登場する印象があります。
澤:その区別は本当はいらないんでしょうね。そう思いつつ、教科的な学びと探究的な学びとではゲームの構造が違うと思うんです。
前者は知識・技能を理解する、テストで点数をとる、試験に合格するなど、言わば逆算型の知性を育むのに適した構造なんです。でも、探究的な学びでは、それもありつつ、順算型の知性を育むのに適した構造になっている。
そういう意味では、探究的な学びの伴走力が高まれば、教科的な学びの伴走力も同時に高まると思います。知性観の拡張は必要ですけどね。
──おもしろい。ゲームの構造ごとにスタンスが違うんですね。
澤:教科的な学びにおける伴走と、クラウドファンディングにおける伴走の構造は本質的には同じで、逆算型なんですよね。この知性はこれからも大切だけど、時代は知性のアップデートを求めている。であれば、伴走者も逆算型と順算型とをしなやかに往来したい。
何を見立てるのか。どこから見立てるのか。どんなタイミングで、どんな言葉をかけるのか(・かけないのか)。判断や評価を手放し、その人の「今」に好奇心を持ちながら共に在りたいと思っています。
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──ここまで話した上で、「伴走とは何か」と聞かれたら、どう答えますか?
澤:なんでしょうね...。「共に在り、共に学び、共に創る営みの総体」って感じかも。
伴走している時ってだいたい伴走してもらっているし、してもらっている時って実はしているから、「共に」って感じがしますよね。そしてこのプロセスはとてもおもしろい。喜怒哀楽を共にしたいですね。
──そうなるとやっぱり教育だけではないですよね。
澤:そうですね。究極、「生きる」ってことなんだと思います。共に在り、生きるための営み。
──いまはどんな問いを持ちながら伴走と付き合ってるんですか?
澤:伴走って純粋におもしろいんですよ。そのおもしろさを伝えたいし、「伴走者の伴走者」として環境を整えていきたいと思っています。そのために例えば本も書きたいし、ゼミや講座も開きたい。
たまたま多くの人に出会わせてもらい、学ばせてもらってきたから、それを還元したいし、循環させていきたい。そう思っています。読者の皆さん、よかったら一緒にはじめましょう!
──ますます楽しみになりました。今日はありがとうございました!
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【1月24日追記】
#探究学習がすき 応募作品の中で、先週特にスキを集めた記事に選んでいただきました!応援ありがとうございます!
【1月31日追記】
なんと2週連続です!応援ありがとうございます!
【2月7日追記】
まさかの3週連続です!読者の皆さん、応援ありがとうございます!