ハングマンというのをご存じだろうか。
10画で描く、首吊りしている棒人間のイラストである。
「ハングマン イラスト」
でネット検索すると直ぐ出てくるので、ご存じない方は見てみてほしい。
20年近く前、このハングマンが学校現場で問題になったことがあった。
ある学校で外国人講師が英語の授業をしていたときのことである。
その講師は、子どもたちに問題を出し、解答ミスが出ると1画ずつ黒板に線を描いていくというのをやっていた。
解答ミスが10回になる。
するとあるイラストが完成する。
ハングマンのイラストだ。
10回ミスしたら、つまり、ハングマンが描き上がってしまったら、ゲームオーバー――というのを、授業でやっていたのである。
それが問題となった。
首吊り人間のイラストをゲーム感覚で授業で用いることなど人権的に不適切というわけである。
日本では、線を書き足しながら数を数える場合は、「正」の字を書いていくのが一般的だ。
正を2つ書けば10になる。
中国や韓国もそうらしい。
漢字使用国の中国は分かるが、今はハングルが使用文字になっている韓国でもそのようだ。
かつては韓国・朝鮮も漢字使用国だったから、その名残なのだろう。
欧米では5を数えるとき、縦線を4本書き、最後に斜め線を1本書く。
タリーマーク(Tally Marks)という。
日本でも欧米でも、ひとまとまりが5なのは、人間の指が5本であることに由来しているのであろう。
さて、先述のハングマンだが、海外では10数えるときに使うことがあるようだ。
特に10になったら首吊りイラストが完成してしまってゲームオーバーになってしまうハングマンは、カウントダウンとして、ちょっと緊迫感あるゲームなどのシーンで使うのだろう。
推察するに、当該の国では昔からの習慣なので、使う人は人権的なことなど何も考えてないに違いない。
その外国人講師ももちろん悪気はなかったものと考える。
だが、やはり首吊りは問題だ。
人の死を、そのような、ゲームのペナルティ的なものとして扱うべきではない。
さて、ここで今回の表題にしているドラえもんの話になる。
漫画ドラえもんの第1話を読んだことがあるだろうか?
未見の方は、ネット検索すればドラえもん第1話の試読を直ぐに見つけられるから、読んでみてほしい。
私は小学生のころ、ドラえもんが大好きで、それこそコミックスは何百回も繰り返し読んだ。
それほど大好きだったドラえもんだったのだが、大人になり、久しぶりに読み返してみて、軽く「えっ」となったのである。
それは、のび太が首吊りになってしまう描写にだ。
お正月。
外でジャイ子と羽根つきをしていたしずちゃんに、のび太は家の1階の屋根にのってしまった「羽根を取って」と頼まれる。
のび太はしずちゃんにいいとこ見せようと、「よ、よ、よしきた」と恐る恐る自宅2階の窓から屋根に出て羽根を取るものの、足をすべらせてしまった。
運よく木に引っかかって地面への落下はまぬがれたものの、のび太は首吊り状態となってしまったのである。
そんなのび太を見たジャイ子は、「やあ、首つりだ。ガハハハ」と大笑い。
――いや、これ、お読みになって、皆さんはいかがであろうか。
今の私の正直な気持ちを書くと、残念ながら、「令和の時代では不適切な表現」である。
でも、昭和時代、小学生だった私は、ここの場面を何百回読んでも全く何とも思わなかった。
単なるギャグ描写と感じて読んでいた。
しかし、令和時代、還暦の私は、ここの場面、笑えないのである。
首吊り状態の者を、笑いものにすべきではない。
そもそも、子ども向け漫画に首吊り描写を入れるべきではない。
そう感じるのである。
これはやはり、世の中の変化、人権感覚の変化がもたらしたものだ。
昭和当時、作者の藤子・F・不二雄氏は差別意識など微塵ももっていなかったと思う。
それどころか、藤子・F・不二雄氏は、子どもたちのための良質な漫画を真摯に追求し続けた漫画家だ。
でもやはり、それは昭和時代の物差しの範囲内での話であって、令和になってくると、時代に合わなくなってしまっている描写がいくつも出てくるのだと思う。
ドラえもんと同じく国民的漫画と呼ばれているものに名探偵コナンがある。
名探偵コナンの漫画の第1話を読んだことがあるだろうか。
やはりネット検索すれば試読が直ぐ見つかるから未見の方は読んでほしい。
これも、令和の今の感覚で読むとショッキングな描写がある。
なんと、殺人事件の被害者の首が切断され、ものすごく血が噴き出しているシーンが大ゴマで描写されているのである。
平成時代、私はコナンのこのシーンを読んでも特に何も感じなかった。
探偵物の漫画である。
殺人事件だって描かれる。
当然のことだと思っていた。
名探偵コナンの連載開始は1994年。
なんともう30年前だ。
コナン君も、30年間も小学1年生のままなのだ。
おそらく、令和の今だったら、首が切断されて血が噴き出すなどいうこんなグロテスクな描写は国民的漫画ではなされまい。
今は、漫画誌も読者対象によって細かく棲み分けがされている。
令和時代、小中学生が読む漫画雑誌に、この直接的な残酷描写は掲載されないのではないだろうか。
私が、ドラえもんや名探偵コナンの第1話に問題を感じてしまったのは、これらが今や国民的漫画と呼ばれる作品にまでなってしまったからというのもあるだろう。
ドラえもんは、国語の教科書にだって載ったことがある。
名探偵コナンは小学生新聞にだって載っている。
そしてどちらも学習漫画がたくさん出ている。
だから、両作品とも、人権的なことには十分に配慮された、優等生的な作品でなければならない。
いつの間にか私は、そんな人権フィルターをかけて、両作品を読むようになってしまっていたのだろう。
小学館の子ども向け雑誌に載ったのが始まりとはいえ、2作品とも最初から国民的漫画だったわけではない。
ほかにも、首吊りを笑う漫画や、首が飛ぶ漫画は、たとえ令和の今でも、子どもが読む雑誌に掲載されている――だろう。
私が危惧するのは、近い将来、ドラえもんや名探偵コナンの第1話の描写が、人権的に問題アリとして改変されたりしないだろうかということなのである。
昭和のギャグが令和にそぐわない例をもう1つ。
4年前、大物コメディアンが新型コロナウイルス感染症で亡くなった。
その後、そのコメディアンを偲んで、彼の出演した様々なコントを特集した番組が放送された。
ところが、そのコントが、令和の今の感覚で観ると、どうにも笑えないものばかりだったのだ。
最初にそのコントが放送された昭和や平成の当時は、私を含め視聴者は観て大笑いしていたはずだ。
だが、令和の今の人権感覚だと笑えない。
そのコントには、高齢者や障害者、貧しい人、マイノリティ、社会的弱者を笑いものにする内容のものが少なくなかったのだ。
「笑えない」という声は、新聞やネットでも見られた。
そのような人々を笑いものにすべきではない、笑うべきではない――そういった人権教育が、長い時間をかけて日本の小中学校で徹底されてきた。
だから今の人たちは、それが身についている。
その人たちが、その大物コメディアンのコントを受け入れなかったのである。
ドラえもん第1話、名探偵コナン第1話は、彼らにとってどうであろう。
今はまだ「ちょっと昔に描かれた漫画なんだから仕方ないよね」という感じ方のレベルかもしれない。
だが、もしかしたら、今後は描写が改変される可能性もあるのではないかと、そんなときもくるのではないかと、私は複雑な思いを抱いているのである。
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