多言語学習者の脳内分析
私は語学が好きである。こよなく愛している。以前書いたいくつかの記事でもそのことにふれている。
最近はDuolingoというアプリを利用して、中国語と韓国語、フィンランド語、スウェーデン語、チェコ語に取り組んでいる。このDuolingo、無料で使える外国語学習アプリとしてはかなり優秀で、毎日続けるのが苦ではないし、ついつい学習言語を増やしてしまう。
外国語学習アプリをお探しの方にはぜひおすすめしたい…と言いたいところだが、Duolingoの紹介記事を書こうと思ったのではない。再び熱心に外国語学習に励むようになったことでひとつ気づいたことがあったのだ。
私は今、アプリを利用して5ヵ国語を学んでいる。大学時代にも、一学期間に5言語ほど時間割に詰めていたことがあるので慣れ親しんだ感覚だ。こんな正気の沙汰とは思えないことをしているので、友人からはよく「そんなに一度に勉強してごちゃごちゃにならないの?」と言われたものだ。
私の答えはこうである。
「全く混ざらない。」
なんで?とその先を問われると、私はいつも困っていた。なぜ混ざらないのか。言語それぞれ全く異なっているとはいえ、言語系統が同じであったり借用語があったりと似通っているところもある。それでもきちんと自分の頭の中で整理がついていた。自分ではどうやって頭の中で整理しているのかよくわからなかった。
私よりも遥かに流暢に多くの言語を操る人々もいる。その人たちは大量の語彙が頭の中で錯乱することはないのだろうか。
よくわからないモヤモヤを抱え、ふとしたときに思い出してはまたぐるぐるとかき回していた。
そして突如として2つの仮説を思いついたのである。
ひとつは、言語を学校の授業の科目のように把握しているのではないかということだ。
例えば、数学の問題を解いているときに物理で用いる公式を思い浮かべることがあるだろうか。数学の問題を解いているのだから、数学で用いる公式という引き出しの中から、今必要としているものを探して解くのだと思う。
すべての言語を言語という大きな引き出しに収めるのではなく、言語という棚に英語や中国語、フィンランド語といった引き出しがあるのだ。
もうひとつは、敬語やタメ口、方言といった言葉遣いのカテゴリーの延長線上に日本語以外の言語があるのではないかという説だ。
TPOに合わせて、私たちは言葉遣いを改める。お堅い場や目上の人には敬語、仲の良い友人たちとはタメ口、地元へ帰れば方言が強くなる。だが、代表として人前で挨拶をするような重要な場面でタメ口で方言を話すことはないし、気心知れた仲間との飲み会で急に堅苦しい敬語を使うことはない。
その言葉遣いの切り替えのようにして、他の言語を扱っているように思う。実際に英語話者や中国語話者と会話しているときはもちろんだが、ひとりで学習しているときも目の前の言語に向き合っているということで、ネイティブスピーカーを前にしているときと状況は同じといえよう(少し無理矢理ではあるが)。チェコ語を学んでいるときにはそれ以外の言語を意識の中から一時的に排除しているのだろう。
一度にたくさんの言語を学ぶことは確かに大変なことではある。しかしながら見方を変えれば、それは不可能ではないように思えてくる。
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余談だが、私は「外国語」と「言語」という単語を使い分けるようにしている。もっぱら「言語」という語を好んでいる。理由は、「外国語」というと「国として認められている地域の公用語」や「国名が入っているもの」しか表していないように感じるからだ。
世界には幾千もの言語があふれている。
国のアイデンティティを表しているようなものから、大国の一角の小さな地域で話されているもの、なんとか生き永らえている少数民族のもの、国とは認められていなくとも独自に守られているものなど、様々な言語がある。その背景には歴史や文化が刻まれている。そして生き物のように変化したり、新しい表現が生まれたり、消滅していったりしている。
昨今の言語の大きな動きと言えば、新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区での中国語教育の強制だ。皮肉にも中国語を学習している身ではあるが、ニュースを見ながら、新疆ウイグルや内モンゴルの民族たちの独自の言語が、どうにか生き残るよう私は祈っている。
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