議論と前提と共通認識
皆様は「議論」という言葉にどういう印象を抱きますでしょうか。難しそうなイメージや対立的なネガティブな印象を持たれる方もおられるかと思います。議論とは本来どうあるのが良いでしょうか。
議論がネガティブに見えるのは「何を言っているかよりも誰が言っているかを優先する」日本の文化的なところにも要因があるのかもしれません。本来議論は「より良い結論を導き出すために行われるもの」と考えると良いと思うのですが、「相手の否定と対立」というネガティブなところに話が行きがちです。
では、「ポジティブな議論」はどのようにすれば実現できるのでしょうか。今回はこちらについて論じていきます。以下、目次になります。(5節だけ有料にしましたが、4節までで話がわかるようになっています)
1. 議論を進めるにあたっての重要な点
2. なぜ議論ができない人がいるのか
3. 議論の仕方をどのタイミングで教えるべきか
4. 教えるにあたってはどのようなカリキュラムが良いか
5. まとめ
1. 議論を進めるにあたっての重要な点
議論を行うにあたって筆者は、「前提や目的の共有」と「共通の価値認識を持つ」というのを常に心がけるようにしています。以下それぞれについて見ていきます。
・前提や目的の共有
多くの議論が対立に見えるのは、前提や目的についてしっかり共有されていないケースが多いためではないかと思います。もちろん利害対立をすることもありますが、この利害の対立が生じるときも前提や目的をお互いが共有していれば、一見難しそうに見えても交渉におけるZOPA(Zone of Possible Agreement)を作り出すことも可能です。たとえ対立が生じたとしても、前提や目的と全体像さえ明確であれば建設的な方向に議論を進めることができます。
・共通の価値認識を持つ
議論によって「より良い結論を導き出す」にあたっては「共通の価値認識を持つ」ことも重要です。前提の共有との違いとしては、前提や目的は単に説明すれば良いものに対して、価値認識はある程度の時間をかけて構成する必要があります。
この価値認識を構成するにあたって必要なのが教育であると筆者は考えます。義務教育の9年、高校の3年、大学の4年が基本的な意味では現在の日本人の教育のベースになっているかと思います。
2. なぜ議論ができない人がいるのか
さてここで疑問ですが、なぜ議論のできない人が多いのでしょうか。「単に相手の頭が悪いから」という結論に行き着いているケースも見受けられますが、それだと意味がないので、もっと国家運営的な全体的な視点で見てみましょう。先に結論ありきの方がわかりやすいと思うので、「日本では議論の仕方を教育で教えない」というのをこの記事での主張としたいと予め明言します。
議論は基本的に「事実」に基づいて皆が「意見」を言って課題解決を考えるという流れだと思いますが、高校までの教育ではあまりこのような教育はされていないと思います。一方で大学の講義、ゼミ、研究室では色々と選択制になりうるのでしっかり身につけないケースもありそうです。そしたら企業でやるかという話にもなりますが、企業によっては必要ないと判断する場合もあります。
とはいえ、「議論の能力は全員には必要ない」とするのは民主主義国家が成立しなくなるので危険です。ということは義務教育として「議論のやり方」は教えなくてはいけません。しかし、小学生、中学生にそれほど高度な話をさせるのも難しいし(現在の状況を鑑みるに高校も義務教育としても良いかもしれませんが)、場合によってはイジメにもつながる可能性もあります。解決策については3節で考えてみます。
3. 議論の仕方をどのタイミングで教えるべきか
議論の仕方を教えるにあたって、下記を論じてみたいと思います。
① 少人数学級の導入によりケアを手厚くする
② 選挙権取得にあたって、特定の講習を受けることを義務付ける(対象は現在の有権者に限る)
①については今後効率性の向上により、世の中から仕事が減っていくと思うので、教育にかける人員をより増やすべきだと思います。それにあたって学校教育を少人数単位で行えるようにし、30名以上の生徒を一人の教員が見るという体制はやめる方が良いと思います。
②については、選挙権取得にあたっての有権者教育についてはある程度行うべきと思います。とはいえ、既存の大学についてはそれなりに行っていると思うので教養課程の必修科目の一つに現代社会論を設け、それを履修すればOKとすれば十分だと思います。高卒で就職した方などは、無料で90分12〜15回程度の講習を受けて選挙権を取得できるような形を設ければ選挙権の平等性が担保されると思います。この運営にあたっては政治的中立性が望ましいので、この点は実際の運営にあたっては色々な工夫が必要だと思います。
4. 教えるにあたってはどのようなカリキュラムが良いか
「じゃあやってみましょう」になりやすいのが議論やディベートの教育ですが、これらはどちらかというとエリート教育のような状況ではできるものの、ボトムアップが求められる現場では行わない方が良いと思います。有名進学校や有名大学のような教員も生徒も選べる状況であれば実際にやってみるで良いと思いますが、+2σ(約上位2%)があたり前という状況は一般的ではありません。(とはいえ、成功例として出てくる学校などは大概上位2%などの例なので、基本的に生存バイアスがかかっています)
筆者としては「議論を実際に行う」よりも、「良い議論」と「悪い議論」の例を見せてそれぞれの「良い点」と「悪い点」を指導するというのが良いと思います。たとえば「事実を誤認する」、「人格攻撃にすり替える」などはよくないやり方です。おそらく大多数の日本人は「良い議論と悪い議論」がそれぞれなんなのかについて考えたことがないと思います。このような教育を行うと考える指針ができるので様々なところで参考になる考え方が身につくのではないかと思います。
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