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「がんばってね」という言葉に拒否感や怒りを感じたら赤信号【頑張れない人へ】

頑張り方を間違えていることに気づく

「がんばってね」

よく耳にするこの言葉。

何気なく使われている言葉。


この言葉を言われて、拒否感を感じたり、怒りを抱いたら、それは赤信号です。


みなさんは、いかがですか?


なぜ、拒否感や怒りを感じるのか。

それは、「頑張り方」を間違えているからです。


周りの目を気にしての「がんばり」は、自分の心の潤いを枯渇するだけ。


「がんばってる」と判断するのは、周りの人であって、自分ではないのです。


「がんばってね」は挨拶だった

プロフィールでも少しご紹介しましたが、私は幼い頃から自分に自信がなく、いつも周りの人を気にしながら育ちました。人前で話すのが苦手で、自分の思っていることを主張できない、とにかく引っ込み思案な性格。学校の友だちや女の子の集団がとくに苦手で関わりたくなかった。けれど、そんな訳にも行かず、自分を表現できないまま友だちとの関わり合いを持っていました。


そんな弱い自分を変えたくて、高校生の時に客室乗務員になる夢を抱きはじめ、そのための努力を重ねました。ありがたいことに客室乗務員になれましたが、現実と思い描いていた理想のギャップに直面し精神的にかなりつらい時期を経験しました。鬱症状もありました。


その経験から多くのことを学びましたが、そのうちの1つに「がんばり方を間違えていたこと」に気づいたのです。


私がなぜ客室乗務員になりたいと思ったのか。その核となる動機は、強い自分になりたかったから。自分を変えたかったからです。客室乗務員の人物像は、凛としていて、自分を持っている女性。人前でのパフォーマンスも難なくこなせる、独立した女性。そんな自分と相反するイメージが、これまで自分を表現できないでいた心を奮い立たせたのでした。


「ちっくしょー!いい加減、こんな自分はもうイヤだ!変わってやるー!」

ずっとこれまで押さえつけていたフラストレーションが、マグマのごとく噴火したのです。

「なりたい自分になれた!」

そのはずでしたが....、客室乗務員の仕事に就いて日を追うごとに私の精神は消耗していったのです。


この時期でした、

人から「がんばってね」と言われると、無性に腹が立ち、怒りを抱き、「もう今までずっとがんばってきたのに...。これ以上何をがんばれっていうの...。」と壮絶な拒否感を憶えたのです。私の中の1本の糸が、プッツン...と切れる音がしました。


接客業であるのに、人と接することが怖い。

そのような状態にまでなり3カ月間、休職をすることに。


せっかく、弱い自分を変えるために実現できた目標だったのに。

なぜ私だけがこんなに苦しいのか、つらいのか。


同期はちゃんとフライトできているのに、なぜ私はそれができないのか。

同期と自分を比較して、自分がダメな人間に思えて、欠陥している人間に思えて苦しかったです。


そんな葛藤や自己嫌悪、自分の感情の波を毎日繰り返す休職期間。何がこんなに自分の心をむしばみ疲弊させているのか向き合いました。


その時に気づきはじめたのが、これまでしてきた「がんばり」は、実は間違っていたのではないか...?という違和感です。


私は、

周りの人に認めてもらいたくて、

「すごいね」という自信になる言葉がほしくて、

愛されたくて、

外へ外へ「がんばり」のエネルギーを向けていたのです。


それは他人本意から生まれる自信であり、

他人が認めてくれるから自己受容できるものであり、

「他人」がいなければ、自分で自分を受け入れてあげられない事実。

他人に自分を委ねているということは、とっても不安定で、とってももろいのです

そうなると、常に他人からの評価や、自分がどう見られているか、

いい人と見られたい、すごい人と見られたい、

そんな欲求や焦りに似た思いが先行し、ただただ自分の精神を消耗していく負のスパイラルに陥る一方でした。


「あ、私、人からどう見られるか、他人の評価ばっかり気にして生きてきたんだ...。」


自分のがんばり方が間違っていたことに気づいたと同時に、「要らないものを手放したい」と心から感じた瞬間でした。


(※他人の評価から得られる自信について 【自信がない人必見】自信をつける一番の方法  で詳しくお話しているので、気になる人はぜひご覧ください。)

間違った「がんばり」であっても、今の自分があるのはそのおかげなので否定をする必要はありません。しかし、間違いだったと自分で気づけたなら、これからは自分にとって適している「がんばり」方に変えていきたい。そう捉え方が変わっていきました。


そして、もう1つ気がついたのは

「がんばってね」の意味。


これは、

「じゃあね、またね」

「近いうちにまた会おうね、バイバイ」


そんな気軽な挨拶として、とても使いやすい便利な日本語なのです。


本当にがんばってねとエールをおくるというよりは、

別れ際の挨拶や、会話中の何気ない「返答するツール言葉」として用いているだけなのです。


それを真に受けてしまう。

拒否感や怒りを抱いてしまう場合は、精神的に疲れているサイン。

「がんばってね」の言葉を聞いて、自分がどう感じるか問いかけてみるのは大切な作業です。

頑張らなくても愛される

人の目や他人評価を気にする無意味さ、それよりも大切な本質は、「自分で自分を認めてあげる」「受け入れてあげる」こと。ここから、すべては始まります。


過去の弱い自分、これも私。

厳密に言うと、弱くはなかったのです。

ただ、自分を表現する「術を知らなかった」だけ。

解決する「術を知らなかった」だけ。


そして、本来、どの自分であろうと、変える必要はないのです。

(※自分が変わりたいと望む場合は別です)


自分ががんばらなきゃ人に認めてもらえない、

自分ががんばらなきゃ人に相手にされない、

自分ががんばらなきゃ人に愛してもらえない、


全部、違います。


がんばらなくても認めてもらえているし、相手にされているし、愛されているのが真実です。


自分で不安や恐怖を抱いて、そのような現実を創りだしてしまったのは自分自信なのです。


人一倍、繊細で

人一倍、傷つきやすく

人一倍、頑張り屋で

人一倍、不器用で

人一倍、愛されたい思いが強い


このような性質をもっていると、「がんばり方」を間違えてしまう傾向があります。


でも、間違えたっていいんです。


それでいいんです。OK(´ー`)


そうでなければ、気づけなかったことがあるから。


だからこそ、気づけたことがあるから。


自分の意識が変わり、今までの捉え方とは違う捉え方になってきた時、人間は「変化をするタイミング」に差しかかります。


これが、大切なのです。


今現在、取り組んでいる「がんばり」が苦しいと感じるなら、それはあなたにとって必要ないもの。


冒頭でもお話しましたが、「がんばってるね」と判断するのは周りの人であって自分ではありません。


時には歯を食いしばって忍耐を育てる時期もあるでしょう。

自分の夢を実現させるために我武者羅(がむしゃら)になる時期もあるでしょう。


それも人生のかけがえのない糧になります。


しかし、本来の「がんばり」は自分の成長を促すものです。

自分を破壊するものではありません。


この意識を変えるだけでも、確実に1ミリずつ自分の中で変化が生まれます。


苦しいと感じたら、そこで立ち止まり、振り返ればいい。

「頑張り」方を自分に合ったものに変える「変化をするタイミング」なのです。


失敗しながら、気持ちの波を繰り返しながらも、自分を諦めないで、大丈夫。


そして、もともと私たちは、生まれながらにして「がんばらなくても愛されている」この大前提があることを、思い出して下さい。


私たちはただそのことを忘れているだけ。

遠い記憶の彼方に眠っているだけなのです。

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