青田麻未『「ふつうの暮らし」を美学する 家から考える「日常美学」入門』
「美学」をはじめようと思い立つ。
『Vtuber学』の感想を書きたいのに書けなくって、哲学とか社会学とか全然「わがんない!」と悩んでおりました。何か手掛かりないかしらと、Twitterをウロウロしてたら、タイムラインでこんなポストを見る。
そういえば美学なんてのも、全然「わがんない」なあ。美学と言う単語からして『ルパン三世のテーマ』の歌詞でしか縁が無い。なんか面白くて分かりやすくて、ついでに感想文書いたらnoteのビューとかXのインプレ稼げるような、美学の本ないかしら?
と思っていたらこんなポストも流れて来た。
こういう縁は大切にしたいですね。ずいぶん評判も良いみたいです。失業中の中年独身男性のこどおじ生活が「ふつうの暮らし」に入るかどうかはさておくとして、読んで損はなさそうです。家から考える、というのがまたよろしい。こんな寒くちゃ、おそと出たくないもん……え? そういう意味じゃないの?
光文社新書公式noteの記事がこちら。
著者、青田麻未氏ご自身のWebサイトでの紹介がこちら。
「ふつうの暮らし」に即した「美学」の入門書。よさそうなので、さっそく読むことに。
良い本でした。「美学」をはじめるのに最適の一冊だったかも。
読んでみたら、とんでもなく読みやすい本でした。逆に、スイスイ読めすぎて、ちゃんと理解できてるのか不安になるくらい。でもよく噛んで読めば、噛めば噛むほど、噛んだだけの味が出てくる本でもある。よくある、分かった気にさせるだけさせて、実は内容あんまりない、みたいなファスト教養って奴ではない。
というか逆に、分からない事が増えた。意識していなかった場所に、謎を見出すようになった。これは脳ミソを刺激する良い本の証拠。「それについて知らなかった」という事を知って、もっと勉強したくなる、というヤツだ。
コレ、著者も言っているように、この本が取り上げている「日常美学」という学問自体が「Vtuber学」と同様、新しい学問だからだろう。著者が、未知なる知性の開拓者であるなら、読者も未知なる世界に挑む同士だ。
「分からない事がたくさんある」というのが、どれほどワクワクする素敵な事か! それを味わうだけでも、新しい学問に触れるのは幸せな時間。その事を、改めて実感させてくれる一冊でした。
この本のおかげで、楽しく美学をはじめられそうです。次に読むのは井奥陽子氏の『近代美学入門』かな?
日常は、美学の対象となり得るのか?
さてここからは長い長い蛇足。個人的に考えたアレコレ、主に、たくさん増えた分からない事について、例によってダラダラと垂れ流します。
筆者によれば「本書は日常美学の入門書です」とのことで、序章では、美学、感性といった言葉の定義が示されます。
この後、芸術という概念の成り立ちについての要点が述べられます。それにより、美学というと美術芸術を扱うものと考えてしまうのは、そもそも美学が、実用に値しない物になぜ魅力を感じるのか? という問いから始まったからだと説明されます。
美学が芸術について語るものだと広く認識されているのは、その二つの成立が不可分だったためであり、芸術かそうでないかを区別するのが美学、との解釈すらできそう。だけど、旧来の美学では芸術とされない日常生活、例えば美しい風景だとか好きな物に触れることでも、芸術に負けず感性が動かされるのは、皆さんが実生活で経験したとおりです。また芸術とされるものが広がり続けた結果、感性に訴えないものも芸術として扱われるケースが出てきました。
そんな状況で、新しく生まれたのが「日常美学」とのこと。「芸術作品に触れる等の、非日常的な経験ではなく、日常的な時間と空間の中での、感性のはたらきを解き明かす学問」という解釈で良いのかな?
このあたり、ちょっと難しいです。日常の中に、非日常的な特別感を得る事は対象にならないのか? 平凡な日常も、美学という解釈によって意味付けされ差別化されたら、それは特別な非日常ではないのか?
このあたりが落ち着かないのは、美学の問題というよりも、日常という言葉が扱いづらいせいかな?
日常が、どんな平凡な生活であっても、それは個人的な経験で、誰とも共有できない。だから定義も難しいし、個々人で想像するイメージも異なる。Official髭男dismを思い出す人もいれば、あらゐけいいちを思い浮かべる人もいる。
筆者が釘を刺しているのは、この本は「ていねいな暮らし」とかあのへんの、平凡な生活をオシャンティーに演出する、みたいなアレを勧めてるアレじゃない、という点くらい。
「生活に美学を」なんてキャッチコピー、一部の界隈が好きそうですね。でもそういうんじゃない。美学はキレイな事だけじゃない、不快な事も扱うんだと、学究の徒らしい覚悟の決め方。カッコいい。
この本では第一章以降、具体的に、生活の中の様々な存在や場面に対して、感性の働きを解き明かしていきます。
椅子の例……インダストリアル・デザイン?
どこで聞いた話だったかな? ある学校で、教官が生徒に、こんな課題を出したそうだ。
「何かの動作をしている人体の絵を描きなさい」
生徒が思い思いに、寝てる人、大工仕事をしてる人、読書をしている人など、スケッチを仕上げると、教官が次の課題を加えた。
「その人の体を支えている物を描きなさい」
……実はこれ、椅子のデザインの授業だった、というお話。
椅子が椅子であるために何が必要か、という事から、椅子を構成する要素を分解する。そして椅子が、何を求められているのかを考える。それによって、椅子には、どんな感性が、どのように向けられているのかを考える。
椅子が椅子であるための要素は何か。
何をもって椅子と認識しているか。
椅子に何を求めているのか。
椅子がある事によって何がもたらされるか。
ある椅子と、別の椅子はどのように区別されているか。
椅子と他の器物との違いは何か。
「日常美学」の最初の例示。
毎日、何気なく座っている椅子に、どれほどの感性が働いているかを、理論的に分類・分析、再確認していくプロセスが説明される。それを、ピカソ『ゲルニカ』を例に、芸術作品に適用した場合はどうなるか、という比較までしてくれる。なるほど「日常美学」とはこういうものなのか、という理解は、いやおうにも高まる。
そこで半可通の自分は、ふと疑問に思ったりする。
「これ、インダストリアルデザインとの違いは何だろう?」
冒頭の出所不明のうろ覚えエピソードも、インダストリアルデザインに関する逸話だった。椅子とは何か? をまず考えなければならない、というお話。変えられないモノを知ってはじめて、変えられる自由を知る。
インダストリアルデザインとの違いは
「対象の椅子が、生活の中でどのように存在するか」
という視点から行われる、という事だろうか?
あくまで生活の存在が前提、生活の中でその椅子を使う者が主体者でなければならない。
インダストリアルデザインは、視点が椅子を提供する側なのだから、正反対っちゃあ正反対?
掃除と料理……インスタレーションやパフォーマンス?
掃除された部屋を「きれい」というのはなぜか?
芸術作品や花や絶景を見た時と、なぜ同じ言葉を使うのか?
整理整頓清掃された部屋の美しさとは何か?
掃除について一章を割き、美的感覚とは何かを、改めて問いなおす。
整理整頓清掃された部屋が、そうされていない部屋よりも、良いと判断されれるのは、倫理感や道徳的なものだったり、衛生的なものだったりする。台所などの作業を伴う場では、安全にかかわる重大事項ですらある。
これらと、美的感覚は同じものなのだろうか?
前章で、椅子というオブジェクトについて、機能と生活上の存在感について語られているのだけれど、それは部屋という空間にも適用可能なのか?
椅子の評価が、かならずしも理論的な機能にはとどまらない事は、既に論じられていた。部屋でも、そういった理論的なものではない根拠での評価、というのはあるだろう。
実際にその部屋を使用する、という価値観以外での、部屋の鑑賞というのは行われている。博物館なら時代や地域の違う生活様式を示すものとして、美術館でも芸術家の仕事を偲ぶよすがとして、再現された室内が展示されている事がある。また、現代アートのインスタレーションでも、室内を模した作品は多々ある。最初から作品として鑑賞されるためだけに作られた部屋を、部屋と呼べるかどうかは、また別の問題となるかもしれないけれど。
鑑賞の為に作られた室内は、美的な価値という側面、鑑賞の対象としての側面では、実際に生活に供されている室内と、どう違うのだろう?
いや、実際に生活が営まれている室内も、鑑賞に価するものとして評価されている。その写真集は、既に一つのジャンルとして成立すらしている。
そういった室内を作るのは、間違いなく整理整頓掃除という毎日のメンテナンスに他ならないはず。だけど、そのような評価は行われない。むしろ清潔すぎる室内は「モデルルームのようだ」などと、商品としては優れていても、作品としては鑑賞できないと評価される。
極端な話になると、少し汚れていた方が自然でよろしい、とまで言われる。
茶道というと、茶懐石などというのもある。
次章にて「料理はなぜ芸術ではなかったのか」という命題を扱うのだけれど、お茶席はどういう扱いになるのだろう?
茶懐石なんて全く経験がないから触れられないけれど、開き直って素人の大胆さで言わせてもらえるならば、茶を点てるとは、料理のエッセンスを凝縮した行為ではないだろうか? 毎日のお献立に頭を悩ませてる、主婦や主夫の方々に怒られるかもしれないけど、茶を点てるというのは、緑の粉を湯で溶くだけではない。火を熾すところから始め、湯を沸かし、給仕して、最後に器を浄める所まで行う。
それらすべてが、鑑賞の対象になっている。鑑賞者も、客としてこのパフォーマンスに参加している。
茶碗、水差し、釜に建水、掛物や花立、茶室そのものまで、それらは全て美術品で、主人の調理パフォーマンスのための舞台装置だ。
現代アートにおける料理の例として、料理を介したコミュニケーションをテーマとしたパフォーマンス、料理についての哲学的思考を取り入れたレシピの出版などが取り上げられているけれど、そんなの茶道が五百年前からやってるよなあ。などと思ってしまう。
掃除についても、お茶室のあしらいなど、ともすれば美術に含められるのかな。茶道に深く結びついた、禅宗において、掃除は修行の第一ともされる。
日本古来の感覚からすると、掃除や料理を、芸術かどうかはともかく、美意識の対象として考える方が自然なような気がするなあ。
「日常美学」の対象は、あくまで日常の掃除や料理だから、非日常な茶室やお茶席は対象外? 本書の中で現代アートが例示されるのは、あくまで参考引用ということで。
奇しくも、調理を扱った章は「日常と芸術の境界とは?」という問いかけで締めくくられています。この問いは「日常と非日常の境界とは?」と言い換えられるかもしれません。
地元とVlog……日常と非日常を、どう区別しているか?
これまで内容がどれも家の中でしたが、章があらたまると、一歩外へ出て、地元の話になります。
地元というのは、どういう場所でしょう?
自分たちのグループのシマの事? だけど、敵対グループがイキってる地域も、自分の地元だからシメたいんだよなあ。
……そういう話ではなくて。
この本では親しみのある場所、という捉え方が提案されています。音楽を聴きながらでも歩ける。どこに何があるか分かっている。同じ場所には同じものがある。刺激が少なくて、落ち着ける場所。言うなれば、家の延長。
そういう地域は、最初からそうであるのではなくて、そこで過ごす時間の経過によって、しだいに構築される。行きつけの店や、買物先など、日常生活の場として使っている場所であれば、そうなるのも早い。
職場や学校など、自分が帰属する場所になると、単なる地元ではなく、家に次ぐ……場合によっては家を越える拠点です。
旅行や引っ越しなどで、初めて訪れた場所は、親しみのある場所になるまで、新奇な場所、というカテゴリになります。新奇な場所は、どこに何があるのかわかりません。緊張します。だけど驚きと刺激に満ちている。
変化のない地元では、感覚を研ぎ澄ます必要はありません。感覚による知覚が減れば、感性の働きも鈍くなります。でもその一方で、感覚を休ませたり、内面に向けられるメリットがあります。
新奇な場所では、感覚を研ぎ澄ませる必要があります。時に疲労とストレスの要因となりえますが、刺激を受けた感覚は成長し、知覚は発達、感性の進化に繋がります。
新奇な場所が、かならずしも、時間経過で地元のようになるとは限りません。こちらが長期間地元を離れたり、逆に地元の交通網や地域開発、コロナ禍における長期の自宅待機や、施設閉鎖などにより、元々地元だった場所が、新奇な場所になった。作者はそんな経験を語ります。
新奇な場所という非日常と、地元という日常。避けられない日々の生活により、どんなに刺激的で新奇な場所も、平穏な地元に変わってゆく。かと思えば、環境を変える外部の力によって、住み慣れた地元が、油断のならない新奇な場所へと変えられてしまう。
しかし筆者は、そんな風に受け身である事を良しとしない。地元を新奇な場所に変える事を提案します。
見慣れた建物も、建築という作品として鑑賞する。目に入る物に対して、前提となる情報量を上げれば、知覚の解像度が上がります。感性に訴える刺激は倍増します。
移動手段を変えてみる。これは、物理的に環境から得られる知覚が変化します。
アプリを使う、という提案もありました。『Ingress』から『ポケモンGO』まで、位置情報ゲームは、自分のいる場所に新しい意味を加えます。
筆者は触れていませんが、いわゆる聖地巡礼なども、場所に新しい意味を付け加える、という点では同じかと思います。その場所に、新しい意味を付け加えていくのは創造的な行為であり、ひいては地域社会にも大きな影響を与えるようになるのかもしれません。
そういえば事の発端は『Vtuber学』の感想が書けない、という悩みだったような……奇しくも『Vtuber学』執筆陣の一人、岡本健氏には、聖地巡礼に関する著作がありました。読みたい本がドンドン増えていくなあ……
しかし、自分が訪れた場所に、自分が意味を与えるという行為ばかりが優先されれば、ネガティブな結果を生む事もあります。位置情報ゲームも、初期には様々なトラブルがありました。アニメなどの聖地巡礼では、ファンの多くには好きな作品に迷惑をかけられないという意識がありますが、トラブルが皆無というわけではありません。そのような配慮の対象がない、話題になった場所でインスタ映えを得られればそれでよし、という人々の場合は、問題はさらに深刻です。
インスタグラムなどに投稿された写真は、美学の対象となるのでしょうか? この本でSNSは、Vlogについて一章を割いて述べられています。前章で地元という空間を扱ったので、ルーティーンという、時間について書くための選択かな?
ルーティーンというのは、朝の身支度や化粧といった、毎日同じ事をする様子を切り取ったものです。日常と言えばこれほど平凡な日常はない。なぜそれを、メディアに乗せたり、視聴したりするのでしょうか? 前述のインスタグラムは、何かのイベントや旅行先といった、他人とは違う自分の姿を投稿するケースが多いかと思うのですが、Vlogは平凡な毎日の動作をやり取りする、という違いも不思議です。
このあたり、自分はVlogの視聴経験がほぼない。他人の日常生活については全く興味が無くて、正直、この章はほとんど理解できなかったという。
前章は、地元という日常を、いかに非日常に、感性と知性を働かせて美学の対象としていくか、という話だったと思うのですが、このVlogについての記述は、そこに見られる他人の日常は、全くそのままで、美学の対象になるのだ、という話なのかと思いました。他人の日常は自分の非日常ですし。
あるいは、そんな他人の日常を見た、その眼で自分の日常を見直す事で、自分自身の平凡な日常を、美学の対象とする事ができるという話?
世界を創る主体者として「ふつうの暮らし」を営むために。
長々と書いて来たのですが、本書で重要とされてている語句「家」と「世界制作」について、一度も触れる事ができませんでした。
筆者の説くところによれば「日常美学」は、家を世界とするための手段なのだそうです。芸術相手に使われてきた美学を日々の生活に、価値や意味を見出するために使う、という事なのかな?
自分がまず連想したのは、柳宗悦の「民藝運動」や、ウィリアム・モリスの「アーツ&クラフツ運動」でした。生活の中の美を見出し、さらに美によって生活を豊かにする。
だから、椅子の話はインダストリアル・デザインかな? と思ってしまったし、掃除や料理の話からは、茶道の美学を感じた。地元という日常生活の舞台に、美学の視点から新しい価値を見出すのは、街角をモチーフにした画家が、皆やってきた事じゃないかしら。佐伯祐三とか荻須高徳とか。
いやロートレック以降、ポスターを表現手段にしてきた者は皆、街角そのものを美的に飾ろうとしていた。それを言い出したら、過去の様々な職人から、建築家やデザイナーまで、皆そうだ。生活に美を加えようとしてきた。
そういったクリエイターたちの美学と「日常美学」は、どう違うのか?
おそらくそれは、生活に美的な資材を提供する側か、実際に生活を営む側かで、変わってくるのかと思います。
これまでの美学は、芸術という日常から離れたものか、又は職人やデザイナーなど、作り手側のものだったのでしょう。職人もデザイナーも、使う者の事を考えて創る。使う者の声に応えようとするけれど、完全な使う側の者ではない。
どうしても、実際に生活をする者は、美という点においては受け身にならざるを得ない。
「日常美学」は、その構造を壊すものなのでしょう。
何が美しく、どんな意味があり、どれだけの価値があるか。
使う側、平凡な日常を送る側の者が、それを主体的に語る。
生活をする者が、美意識の主導者となる。
ネットの登場以降、情報や考え方を、皆が発信できるようになった以上、美意識についても、世の大多数である生活者がそれを語らなければならない。
何を美しいと思うのか。
何を心地よいと思うのか。
何を善いとするのか。
それこそが、自分が自分であることの証明だ。
ならばそれらについて、与えられるまま無批判に従ったり、自ら考えることも求める事もなく、他人に流されてしまうなら、自分という、一人の独立した人間として生きているとは言えないだろう。
さらに言えば、独りではなく、皆とともに、
何を美しいものとして認めるのか。
何を心地よいものとして共有するのか。
何を善いものとして分かち合うのか。
それを考え、行動することでこそ、自分自身として、独立した一人の人間として、社会に生きることが、社会を作る事ができるのだろう。
生活の中で出会う、あらゆる事物や出来事について、自分は感覚をどう用いて、どう知覚し、創造力や知識などの要素を関わらせていくのか。そういった事について自覚的になり、自分の意志で方向性を決めていく。
そうして、幾重にも楽しんでゆく。
「日常美学」を身に着けるということは、つまりそういう事なのだろうと思います。