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口伝は守破離の自然体でできている。

 本来、古典本曲(江戸時代の尺八音楽)を吹禅する時、暗譜をして奏します。私は暗譜までに譜面や多くの音源、師匠との録音などを聴いて、身体に入れていきます。そうして稽古に打ち込んでいると、口伝について思いを馳せる事があります。おそらく、現代の演奏家は曲の譜読みを先にして、分析し、演奏する事が多いのではないでしょうか。それは最も合理的である意味、譜面が完成されているからとも言えます。私も古典本曲以外の練習方法はそうしています。が、そうともいかないのが、この古典本曲です。

 もともと口伝として伝わった古典本曲は、流派という問題だけでなく、曲に対する師匠のフレーズセンスであったり、テクニック、また教え方の良し悪しで、とても変化するものであったと思います。

①師匠のフレーズセンス=息継ぎの場所であったり、次のフレーズのつなぎ方が変わる。

②テクニック=指の運指だけでなく、メロディーラインも変わる

③教え方=全体性、繊細性、技術、呼吸法、身体性、哲学性、あらゆるものに影響を与える。

 ですので、沢山の音源を聴くと、同音の指を使って叩く連複が、ユリで表現されていたり、息で行われていたり。フレーズ感を出すのにある人はオリ(息を尺八の中に入れて低音に落とす)などを活用したり、本当に同じ曲かとは全く思えない表現になります。

 最初はそんな事も勿論分かりませんから、師匠の演奏を熱心に学びます。そのうち他の人の演奏などを聴いたり話を聞くと、多くの表現が見つかります。そうしているうちに、自分の音とはなんだろうと考えて、自分なりの演奏法であったり表現を学ぶために、それ以外の文化などに触れたくなる。それを守破離といいますが、どうも守破離が大事という日本のわりには、それを嫌う方が多くてどうもかないません。ただ誤解している人も多くいますが、自由を求めるそれと守破離の「離」は全く別物という事でしょう。古典本曲で言えば、全く違う音楽に聴こえても軸の部分で守られているものがあります。それを壊す事はナンセンスで(時には壊してみるものいいですが。)、その枠組の中で自分らしさをどう見つけるかが重要です。また何も分からず自由に奏すると、どうしてそういうフレーズで作ったか先代の知恵が見えなくなります。好き勝手では、技術も表現の多彩性も手に入れる事はできません。だから壊す時は勇気が要りますし、責任が要りますし、離れる時は孤独に思います。

 実は私はこうした作業はとても苦手でした。音を聴けば、その人の形や生き方、どういう練習方法か見えますし、求める音もわかってしまう。それはもちろん自分もわかられてしまいますし、人の評価などを気にしてしまう節もあるので、とても怖いです。そこで今年から「禅の響 - ZEN no OTO -」というコンサートを企画し自分に課せました。自分というものに向き合わない限り、音楽だけでなく、自分の事すらわからず死んでしまいます。今では自然体でそれを行えるようになってきました。そもそも、それができなければ、誰かの真似事でしかありませんし、真似をしても技術的な事でしかありませんから、とても詰まらないです。詰まらないと思うから自然に守破離をするようになります。

 だから、最近は詰まらない事は捨てて、自分探しの楽しい事だけするようにしています。

 私が好きな画家で葛飾北斎という方がいます。彼の生き方を見ていると、すごく共感できます。年4回のイベント「禅の響 - ZEN no OTO -」をあと50年くらい続ければ、同じ世界観が見えるかなと、今からうきうきしています。

 それにしても、自分らしく生きるというのは、なんとも難しいものですね。

禅の響 - ZEN no OTO -」チケット情報はこちら (虚空が聴けます)

https://t.livepocket.jp/e/zennooto20201022

 


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