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檸檬読書日記 短歌のレシピと、針に貫かれし蝶は、魚の骨に刺されて憂鬱。 11月4日-11月10日
11月4日(月)
黒豆と ほうじ茶煮立て 合わされば 不思議とかほる チキンラーメンだ
まさかの発見。わざわざ短歌にすることではないけれど…。
大岡信『新 折々のうた1』を読む。
たまゆらに消えし命か妻の目は我を見つめていまだ開けり
「いまだ」がずしりと響く。消えてしまったけれど、自分を見つめたままで…けれど見つめているのに、見つめてはいない。悲しみを認識する1歩手前のような、なんとも言えない感情に心が動かされた。
国語辞典を一語一語と読みてをりわが知る国語いくらもあらず
わぁ、凄く分かる。言葉が果てしなくある中で、自分が知っているものって本当にひと握りなんだよなあと毎度実感させられる。
11月5日(火)
玉ねぎを植える。
本当は種を買って、種からやろうと思っていたのに、完全に忘れて逃してしまった。来年は忘れず種からやろう。
父親が信玄餅をお土産に買ってきてくれた。
信玄餅と聞いて、パッと赤い見た目を思い浮かべる。信玄餅かぁ、久しぶりだなあと思っていたら
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想像していた信玄餅と違った。赤くない…!知らない信玄餅だった。
信玄餅って他にもあったのかあという驚き。
でも有名なものよりも、変なものが入っていないから寧ろこっちで良かったかもしれない。高級感もある。
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ちょうど寒天が残っていたから、寒天と共に食べる。お供はほうじ茶。
きな粉が少し主張あるボソボソ系だったけれど、もちもちと優しい味わいで美味しかった。模様もなかなかお洒落。
大岡信『新 折々のうた1』を読む。
梅雨に入りて細かに笑ふ鯰(なまづ)かな
なんとも愉快。実際には笑うことはないだろうけれど、易々と想像出来てしまうから面白い。
俵万智『短歌のレシピ』を読む。
短歌をやる上での指南書という感じ。
短歌を募集し、その中から最優秀を決め、尚且つ惜しいと思ったものには、こうしたらもっとよいということが書かれている。
とてもためになった。
例に出してこういう風に変えたらいいという感じで書かれているのが分かりやすい。
特に、作った短歌を2首並べて下半分か上半分を交換してみるというのには、なるほどなと思った。全く違うものを交換することで、意外性が生まれて深みがますらしい。なるほど。
感じたこと、思ったことを、的確に伝えることは大切だ。そのために私たちは、さまざまな言葉を動員し、表現に工夫をこらす。
が、言い過ぎて逆効果になることも、頭の隅においておきたい。(略)
「そこまで言わなくても、じゅうぶんわかるんだけど」
「はいはい、そうだったんですね、そうだったんですね。ごちそうさま」
こんな感想を持ったあとのしらけた気持ち。(略)
つまり、だめ推しは、言葉足らずと同じくらいマイナスの表現だ、ということである。(略)過不足ないのが一番ではあるが、心持ち足りないぐらいでも、歌の言葉としてはじゅうぶんなことが多い。
まさに自分ではないか。説明しすぎてしまうのが悪い癖。気をつけよ。
短歌をやっている人、始めようとしている人にはとても良い本ではないかなと思った。
11月6日(水)
ひえー、池澤夏樹『ぜんぶ本の話』の文庫版が出ている!ほしい。
くぅ、買いたい本が多すぎる。
分かってはいたけれど、やはりそうなったかぁ。本当に強い人が好きだよなあ。でもあれほど圧勝になるとは思わなかった…。流石差別の国。まああちらがなったからといって良くなったかは分からないけど。
前なった時も何故…と思ったけれど、その国に住む下級層や中級層にはあの人が良いのかもなあ。というか選択肢があの人しかいないのかも…。
ただ日本からみたら色々大変だよなあ。値段が爆上がり。
そうなったらいっそ日本も見切りをつけてそろそろ頼るのをやめてほしいなあ。物価高とか、値上がりとか日々酷くなっていくけれど、他国に頼りすぎているのだからそりゃ仕方ないよなあ。自国での生産があまりにも少なすぎる。
自分たちの国でなんとかするために、生産者を助ける取り組みをして自給率を増やしてほしいよ。それが1番対策として効果的だと思うのだけれど…。
賃金を上げるのも大切だけれど、結局物価も上がったら意味が…。
11月7日(木)
朝から風が強く吹いていた。風が強いという話になり、テレビで言っていたことを思い出す。
「そろそろあれが来るらしいよ。ほらあれ、あの…確か、とうがらし1号」
「いや、木枯らし1号でしょ」
とうがらしってなんだよと、突っ込まれてしまった…。確かに。とうがらしなんか吹いてしまったら、目も喉も痛くなって外なんか出れなくなるよなあ。
なんとなーくで覚えているから、こういうことになるのです。気をつけよ。
大岡信『新 折々のうた1』を読む。
仏にひまをもらつて洗濯してゐる
なんとも不思議で変わった組み合わせだけれど、それがまた良い。
国木田独歩『牛肉と馬鈴薯・酒中日記』を読む。
「牛肉と馬鈴薯」を読み終わる。
牛肉派か馬鈴薯派かの話。
馬鈴薯とはじゃがいものことらしい。知らなかった。
深くは分からないけれど、というか殆ど理解が出来なかったけれど、通じ合えない切なさみたいなものを感じた。
「(略)僕は人間を二種に区別したい、曰く驚く人、曰く平気な人……」
「僕は何方へ属するのだろう!」と松木は笑いながら問うた。
「勿論、平気な人に属します(略)。イヤ世界十機億万人の中、平気な人でないものが幾人ありましょうか、詩人、哲学者、科学者、宗教家、学者でも、政治家でも、大概は皆な平気で理屈を言ったり、悟り顔をしたり、泣いたりしているのです。(略)」
「災害があった時に勝つのは現金」
とテレビで言っていて、拍手をおくりたくなった。
カードやスマホ決済を否定する気もないけど、同時に現金は持って置いた方がなにかあった時に良いと思うのだけれど…。何かあるが起きないという絶対的自信があるのか…。持つのが邪魔というけれど、お札1枚だけでも、カード1枚持つのと変わらないのだからそんなに頑なにならなくても…とか思ったり。
現金否定していた人を心がないと言っていたけれど、本当にそういう人が多いから悲しい。無駄って…。キャッシュレスを使えない人、使わない人を無駄な人といっているのも同然だよなあ。なんであんなに現金派に冷たいのだろう…。日本に住んでいて、尚且つ新札まで作ったのだから、日本円を使わせておくれよ…。
11月8日(金)
地味な憂鬱に見舞われている。
魚の骨が、昨日から刺さったままでいる。
凄く痛い訳ではないけれど、チクチクと地味な刺激がある。
米を噛まずに飲み込むのが良いと聞いて試したけれど、それでも取れない。ずっといる。もうこうなったら、溶けるのを待つしかないのだろうか。そもそも溶けるのか?でもどうしようもないから、いつの日かなくなるのを待つしかないよなあ。あぁ…。
魚の骨で思い出した。ミス・マープルで、魚の骨が引っかかったと言って犯人をつきとめるやつ。あれ見る度に魚の骨が刺さったらと怖いなあと思っていたけれど、実際に自分の身にも起きるとは…。想像よりも地味だったけれど。
秋山佐和子『原阿佐緒 うつし世に女と生まれて』を読む。
わがために死なむと云ひし男らのみな長らへぬおもしろきかな
(私に言い寄り、私のためなら死のう、と言った男たち。誰も死にはしない。のうのうと生きているではないか。いっときでも信じた自分が今となっては何だかおかしい。)
という短歌を知って、原阿佐緒の短歌をもっと見てみたいと思った。擦れたような短歌を詠う人は、他にどんなものを詠っているのだろうかと気になった。
けれど読みたいと思った『原阿佐緒全歌集』は古書では高く手が出せず、尚且つ図書館にも置いていない。絶望的だあと思ったけれど、図書館に歌集はなかったものの、この本は置いてあった。原阿佐緒の伝記。伝記ならきっと短歌も載っているだろうと思って読んでみた。
そうしたらきっかけとなった短歌や他の短歌も結構載っていて。それだけでなく、原阿佐緒自体の人生がこれまた面白く、夢中になって読んでしまった。
ただ、面白いと素直に言ってしまっていいのか分からないけど…。それくらい波乱万丈というのか、問題というのか、女として生まれたからの、尚且つモテるからの苦難が次々起きてしまって…。
原阿佐緒は、名家の生まれのお嬢様だった。父親を早くに亡くすが、遺言で遺産は全て娘の教育にと書いてあったことから、何不自由なく育ち、生涯お金に困ることはあまりない。尚且つ、阿佐緒は優秀だった。漢学、詩文、書法、絵画に優れていたため期待されていた。
けれど父親を幼くして亡くしているからか、父親という安心感を求めていた。ただ自分を受け止めてくれる存在。男女の愛よりも、父親のような愛情。
それを満たしてくれそうだったのが、阿佐緒が通っていた学校・日本女子美術学校の英語と美術史の教師・小原要逸という男。しかし阿佐緒にはその気がなくても、男に安らぎだけを求められるはずもなく、何も分からないまま大人にさせられてしまう。当時18歳。そして19歳、男の子を産む。だが小原には、既に妻も子どももいた。それでも結婚をするが、妻も子どももいたことがやはり許すことが出来ず、尚且つ自分の故郷を侮蔑する姿勢などあらゆる面で耐えられず、結婚した同じ年に離婚を決意する。
母親の支えはあるものの、20歳にして1人で子どもを育てる身となった阿佐緒。男に散々な目にあった阿佐緒の支えとたったのが、短歌だった。
一、二首でも自分の気持ちが表現しえたと思うと、この上なく慰めを感じた。だんだん私はひたむきに歌を勉強するやうになつた。子供と歌と、……それが当時の私には、全生命だった。
彼女は、与謝野晶子の助けもあり、歌人としての道を進んでいく。
その後、1度は振ってしまったものの、自分を好いてくれた幼なじみの庄子勇という男を忘れることが出来ず、今でも好いているという彼と結婚する。ようやく安らぎを得た阿佐緒は、庄子勇との間に男の子を産む。
ただそれも長くは続かず、裕福な家の子どもである阿佐緒と違って仕事もままならない庄子勇は、劣等感を抱き始める。そして女は家にいて旦那を支えるものとし、短歌を取り上げようとする。
短歌を諦められない阿佐緒は、2度目の離婚を決意し、また1人で母親の支えもありつつ2人の子どもを育てることになる。
もうこれだけでもドラマのよう。朝ドラにでも出来そう。ただ共感は少なそうだからどうかな…。
尚且つ波乱はまだまだ終わらない。お人形のように可愛らしく美しく、センスもあってお洒落だった阿佐緒は望まないのに良くモテた。
特に既婚者の(その上子どももいる)男性に。
だからこそ余計に苦悩させられてしまう。言い寄られ、承諾してくれなければ死ぬかもしれないと言われ、受け入れる。けれど、妻も子どももいるのにと、罪悪感に苛まれ続けることになる。そして相手・石原純が結構名が知られていた大学教授(尚且つ「アララギ」という雑誌の重鎮)であったため、散々に叩かれる。2児の母(それも両方とも父親が違う)ということもあって、スキャンダラスに報道されてしまう。
それでも、石原純との間に安らぎはあった。だが数年の間共に暮らすものの、短歌に対しての不一致から、離れることになる。
その後も様々なことが起きる。けれどその後は男と共になることはなかった。
ふと思ふうす氷の上を踏むあやうききはにわれあること
振り回されることも多く、罪悪感を抱くようなことも結局はしてしまう。フラフラと定まらない。でも、短歌だけは違う。短歌の時だけ芯を持ち、何処までも追求し、自分の力で突き進んでいく。その強さには惹かれるものがあった。
白百合に似るとはやされ年頃を戀なくて経ぬ寂しくて経ぬ
短歌には、突然大人にされた危うさと、母親という大人な面も持ちつつもそれでも残る夢見る幼さがある。多くの男性から好かれ一緒になったりもするけれど、恋愛の歌というものはない気がした。愛だの恋だのというもではなく、ただただ寂しい。安らぎがほしいという感じ。最初の男からの裏切りが効いているのか、擦れたところがあったり、冷静でいつも距離があるように見えるのもそう感じる要因かもしれない。
ただ自分にとっては、愛だの恋だのしていない恋愛感薄めな感じがとても良かった。
生きながら針に貫(つ)かれし蝶のごと悶えつつなほ飛ばむとぞする
特に衝撃を受けたのがこの歌。
原阿佐緒という人物の全てが詰まっている気がした。著者も原阿佐緒は蝶のようだと書いていたけれど、本当にそうだなと思った。ふわふわふらふらと危うく飛び、針に貫かれて捕まってしまう。それでも、羽ばたきを止めることはない。もがいてもがいて、飛び続けようとする。
もう1首。
硝子戸の外の闇より死ぬばかり身をうつ蛾ともならましものを
蝶ではなくこちらは蛾だけれど、これまた惹かれる歌だった。
悲しきかな、男のいざこざが終わっても原阿佐緒の波乱は終わらない。命のようだった短歌で絶望的とも言える事件が起きる。最後まで波乱に満ちている。ドラマよりドラマ的だった。それでも原阿佐緒は生き続けた。寿命を全うした。つまりは歌以外のものを見つけられたのではないかなと。そうだと良いなあと思った。
今まで伝記をあまり読んでいなかったけれど、原阿佐緒の人生を読んで、伝記ってやはり面白いなあと改めて思った。カフカや村山槐多も良かったからなあ。
でも結局その3冊しか読んでいないかもしれない…。少ない。広めたいなあ。特に詩人や歌人の伝記は良いかもしれない。作品も読めて尚且つ歌の解説までついているから、その人の作品を読む前に読むの、深みが増すから良いかもしれぬ。
そういえば、六章いちか『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』は伝記になるのかな。あれも良かったなあ。森鴎外をあまり知らなくても『舞姫』の内容をフワッと知っている程度で楽しめる。舞姫エリスの真実も興味深いけれど、著者の奇跡的な偶然の連続がまた良い。とはいえ順調に事が進むということはなく、少しずつ謎を解いていく。まるで推理小説のようでわくわくする。そうするとやはり伝記ではないか。
11月9日(土)
喉に刺さった骨がずっと痛い。
調べたら自然には溶けず、ほっておくのも危ないらしい…。病院で取ってもらうしかないのだとか。しかも早めに。でも病院はやっていない。月曜日まで我慢せねば…。くぅ…。
そもそも病院にだけは行きたくなかった…。骨があることよりも病院に行く方が憂鬱比重が重し。
そういえば、骨が刺さった時、米を飲み込むのは絶対にやってはいけない行為なのだとか。より刺さってしまう可能性があるらしい。最悪だ…。
でももうやってしまったのだから、仕方ない。月曜日まで無心で待とう。
大岡信『新 折々のうた1』を読む。
夏帽のへこみやすきを膝にのせてわが放浪はバスになじみき
俵万智の「思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ」を思い出した。帽子のへこみ、ってなんだかいい表現(?)だな。何かがありそうな感じがするのがなんとも心惹かれる。
それにしても寺山修司は夏が似合うなあ。
五臓六腑はづし涼しき人体模型
自ら五臓六腑を外して涼む人体模型。涼しいを通り越してひやりとする。でも怖いというよりも好奇心がくすぐられる感じがする。
11月10日(日)
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父親の友達からお土産をもらった。『香梅』のお菓子詰め合わせ!やったー!
自分も少しずつもらう。それでも結構な量。しばらく楽しめるぞ。餡子には困らぬ。むふふ。
「五十四万石」と「あかねさす」(むらさきのやつ)と「本丸」は食べるの初めてだ。
「五十四万石」食べたら、餡子が求肥で包まれていて、その周りにザラメ、そして白くて薄い最中(?)のようなもので挟んであった。結構甘めではあるけれど、小ぶりだからペロッと食べれてしまう。求肥もモチモチで、餡子との相性抜群。ザラメは好みがありそうだけれど…。
「あかねさす」は、かりんとう饅頭みたいな感じ。黒糖がきいているけれど、かりんとう饅頭よりも皮がしっかりとして、甘さも控えめで食べやすかった。
「本丸」は食べてないけど、求肥に餡子を包んだものを胡麻煎餅みたいなので挟んでいるらしい。絶対美味しそう。
「陣太鼓」も嬉しいけれど、「ザビエル」(右下のやつ)と「武者がえし」も嬉しい。「武者がえし」はパイ生地の中に滑らかにした餡子が入っているお菓子で、これまた。和と洋の最高の組み合わせよ。マーガリンではなくきちんとバターを使っているから、バターの匂いが香ばしくて良いんだよなあ。
「ザビエル」はひよ子のお菓子みたいなのに似ている。白餡が包まれているやつ。
全体的に変なものがあまり入っていないのも良いところ。
消えゆく本屋さん…。
辛すぎる文面。
消えないでほしい。本屋で本を買う人が増えてほしいなあ。増えてくれー。
井上ひさし『ふかいことをおもしろく』を読む。自らを語った言葉たちを集めた1冊。
基本的にポジティブだったのだなあと。前向きに、ひたすらに進んで行った人だったようで、やはり好きだなあと思った。
ほかの子とは違うというふうに言われて
傷つくようなことはありませんでした
根が楽天的なんでしょう
何でもいい方へ、いい方へ
考えて暮らしていたように思います
日本が1番という考え方が支配する中、井上ひさしさんやその家族は違う考え方を持っていたらしい。そのため、他の子どもたちから非国民と言われていた。かといって傷つくことはなく、いい方へ良い方へ考えて暮らしていたようで。
流石ですとしか言いようがない。暗く捉えてしまったら、落ちる一方だもんなあ。
他にも、自分が育った町に本があまりなかったからと、自分の所蔵本を寄付して図書館を作って恩返ししたり、そういうの良いなあと思った。行ってみたいな「遅筆堂文庫」。
それにしても、井上ひさしの読書量には驚いた。1日30~40冊読むらしい。す、凄い…。遅い身としては羨ましい。
本の中では、ハッとさせられる言葉も多かった。
笑いとは、人間が作るしかないもの
それは、一人ではできない
人と関わって、お互いに共有しないと
意味がないものである
自分が使いこなせる言葉で
ものを考えることが大切
後、パソコン等で文字を書くよりも、手書きの方が残る、手が記憶するから、手書きにしているとか、なるほどなあと思った。確かに書いた方が、記憶に残るもんなあ。
最後のメッセージも、グッとくるものだった。短くサラッと読めてしまう本だったけれど、中身は深く詰まっているとても良い本だった。
僕は、太平洋戦争のおしまいの頃には物心がついていたので、戦争のことは理解しています。それで育ってきたという経験もあって、はたから見るとちょっと入りこみすぎと言われるかもしれませんが、やはり僕は、憲法が変わるのを見て死にたくないと思います。
芝居、小説、エッセイ、これから書けるだけ書いていきたいとと思いますが、常に「あの戦争って何だったのか?いったい誰が得をしたのだろう?」ということを書き続けるしかないと思っています。
経験してはいないけれど、自分もめげずに書き続けようと思った。
『対談 日本の文学 素顔の文豪たち』を読む。
「室生朝子と萩原葉子」編を読み終わる。
お互いの父親の話。
ただ萩原朔太郎は父親らしさは薄かったようで、殆どが室生犀星の話。葉子さんも室生犀星にはお世話になった模様。
室生犀星は幼い頃、喧嘩が上手かったらしい。また太鼓も上手かったようで、それでも子どもには叩かせてもらえず、桴の代わりに木の枝を取って桴を作り、こっそりたたいていたのだとか。他にも川の方にある杏を取るために竹馬を作り、それに乗って川へ入り実を取ったりもしたようで、知恵と行動力が凄まじい。でもなければ作ってしまう精神、昔ならではだよなあ。素晴らしい。自分も見習わねば。
室生 (略)萩原さんと父はほとんど毎晩会っていたようだわ。どっちが誘うともなく、それぞれ家で晩酌を一本か一本半飲んで、何となく、動き出すのね。道で会えないようなときには、大森駅近くの馴染みのおでん屋とか小料理屋へ行けば必ずぶつかる。(略)
仲良しだなあ。ほぼ毎日とは…凄い。
後は、室生犀星は女の人の足と、夏の日に出る腕が好きだったらしい。そのせいか、結構ファンションについても関心があったようで、写真を撮る際にも娘にああした方がいいとか言っていたらしい。娘思いであり妻思いだったようで、ほっこり。
萩原 それから、集会の人なんかが来ると、ご自分(室生犀星は)で廊下へ出て行って、ちゃんとお金を払うのね。(略)驚いてしまったわ。
室生 そうなの。(略)お勝手だけは母に渡してあるの。だけど、ガスとか、電気とか、ほかのいろんな費用はそのなかに入っていないわけよ。母は長い間病気していたから、そういった細かい計算をすると、頭を使うからいけないでしょう。しかし、台所のお金の出し入れまで、病気だからって取り上げてしまうと、女房として何の楽しみもないという父の考えからなのよ。
『杏っ子』もそうだったけれど、室生犀星の家族に対しての温かさは本当に沁みる。
昔母親に(室生犀星の妻)、結婚する前に結婚の申し込みで緑のショールを贈った人がいて、そのせいで緑のものは敵のようで嫌いだったというのも、少し微笑ましくなった。
今回の対談、好きな2人の話なだけに興味深いのが多くて、最初から最後まで良かった。全部書き写したいくらい。書かないけど。書けないけど。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様に不運が起きませんよう、祈っております。
ではでは。