「いじめ」とか そんなもの じゃ なくて
「私、はぶられたかもしれない。」
そう感じた時の恐怖感というのは、本当に経験しないとわからないのかもしれない。
これは本当に、自分がはぶる側の時にはわからないこと。
だから、はぶる側はそれだけでは足りないような気がする。もっとえげつない位に罰を与えてしまいたい。そう思ってしまう。
この時点で、はぶられた側はものすごい心理的負担、なんて言葉じゃ表せないくらいの恐怖を感じているのに。
「友達に無視されたり、嫌なことを言われてるって、そのくらいよくあることよ。どうしてそんなに気にするかねぇ」「そんなやつら、無視すればいいやん」
そんなこと、絶対に違う。
当事者の気持ちは、そんなもんじゃない。
もしもこれが起きたのが、多感な中学生、そして高校生だったとしたら。
学校がほとんどの生活空間のなかで起こったことだったとしたら。
とてつもない恐怖。
明日から生きていけるかもわからない、不安。心細さだろう。
それは絶対におかしい。
そんなことが起こる社会も、学校のシステムも、全部なくなっちまえばいいのに。
そんなことを私は言ってみるけれど、きっとこのつらさは当事者それぞれにしかわからないことだから。
私が叫ぶのはおかしなことかもしれない。余計なお世話かもしれない。
それでも
おかしい。目をそむけることはできないはずなのに。
もっと、違う方法があるはずなのに。
そんなことを思わずにはいられないのだ。
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