
この夏、感じていた怒り-part 1-
今日(時計の針的にはきのう)、この夏ずっと感じていた、正体のわからない、なぞのイライラの根っこが見えた。
そうして涙がでた。
なのでこんな夜更けにnoteを書きはじめた。
わたしはみんなのこと
わかってあげているのに、
わたしのことを
わかってくれるひとは
だれもいないんだね
わたしの感じていた怒りは、ひとに対するこの"わかってないな"、"わかってもらえない"だった。
アウトサイダー、変人、個性的なひと。
宇宙人として、同じようにわかってもらえないひとのことを、わたしだけはわかろうとした。
わかってあげようとした。
わたしたちは、ひとの視野を広め、小さな枠をとっぱらうのがお役目と思っていた。
わたしはそうやって、理解されないひとの側に立ち、
まわりのひとの視野を広げることをボランティアでしていると感じていた。
だからたまに、"え、おかしい"とか"理解できない"という、
常識やそのひとの"正しい"をふりかざされたとき、
"どうしてそういう見方もあるよねって、可能性のひとつとして受けとめられないんだろう"と苛立ち、悲しくなるときがあった。
それは、わたしはあなたたちのこと、理解して受け入れてあげているのだから、
そのようにわたしのことも理解し、受け入れてほしいという期待があったから。
けれど、だれもわたしのことを、わたしのように、そしてわたしほどには、わからない。
これは、事実だ。
だれもがそう。
さらに言えば、わたしのまりにいるのは、
わたしがわたしを、どれくらい深く理解し、愛しているかと同じ程度に
わたしを理解し、愛するひとだと思う。
"だれもわかってくれるひとがいない"というのは、
じぶんでさえ、じぶんのことをわかっていないということの裏返しだ。
わたしのユニークさを、唯一わかってあげられる存在という希望
それでも、わたしだけが、わたしのユニークさをわかってあげられるのは、希望だと思った。
この一連のイライラすることは、
"わたしがわたしを、ほんとうにわかってあげなさい。
ただしく見て、受け入れなさい。
そうしなければ、わたしもだれのこともわかることはできないし、
わたしの世界は浅く狭いままになってしまうよ"
というメッセージなんだと思った。
怒りって、そんなふうに、まわりからしたら"なんでそんなことにそんなに怒るの?"という、
ひとからは見えないじぶんのこころにひっかかるなにかなんだと思う。
「怒り」“anger”と
「錨」“anchor”。
怒りを感じるのは、わたしたちがそこに錨を下ろしているから。
わたしを引っぱって、進めなくしている、
つまり、そこを手放せたらまた流れに乗って進んでいける"なにか"を教えてくれている。
でもこころのことってそとからは見えなくて、
日々は進んでいくし、
日常のこともふつうにあるし、
心配なこともあって、
ゆっくり休みたいのに
ゆっくりこころを休める場所がなくて、
どうしたら"休める"のかもわからなくなっていた。
じぶんのなかでは、大嵐が吹き荒れているのに、まわりは晴天みたいな感じで、
"生きているだけで辛い"と感じていた。