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『自由の哲学』の1918年の再版への序文について①-第一の問い-

 これから取り扱うのは、シュタイナーの『自由の哲学』1918年の再版への序文の冒頭部分で、「問いの一つ目」までの文です。ドイツ語では本当は何が書かれているのかを読んでみようという試みです。まず、Taschenbuch版、Kindle版その他共通のドイツ語原文を引用しておきます。

Zwei Wurzelfragen des menschlichen Seelenlebens sind es, nach denen hingeordnet ist alles, was durch dieses Buch besprochen werden soll. Die eine ist, ob es eine Möglichkeit gibt, die menschliche Wesenheit so anzuschauen, daß diese Anschauung sich als Stütze erweist für alles andere, was durch Erleben oder Wissenschaft an den Menschen herankommt, wovon er aber die Empfindung hat, es könne sich nicht selber stützen. Es könne von Zweifel und kritischem Urteil in den Bereich des Ungewissen getrieben werden.

Rudolf Steiner ”Die Philosophie der Freiheit”1918年版の序文より

【解説】
 上の文ではDie eine istから始まって、stützenで終わっています。そしてEs könne … werden.という文が間接話法の一文として独立しています。しかしこれは文法的には恐らく、接続法一式の間接話法の連続使用の誤用のケースで、実質は、カンマで連続的につながっているのと同じと思われます。実際、ピエトロ・アルキアーティ版の2022年第8版は、そのように捉えて校正しておりました。

Zwei Wurzelfragen des menschlichen Seelenlebens sind es, nach denen hingeordnet ist alles, was durch dieses Buch besprochen werden soll. Die eine ist, ob es eine Möglichkeit gibt, die menschliche Wesenheit so anzuschauen, dass diese Anschauung sich als Stütze erweist für alles andere, was durch Erleben oder Wissenschaft an den Menschen herankommt, wovon er aber die Empfindung hat, es könne sich nicht selber stützen, es könne von Zweifel und kritischem Urteil in den Bereich des Ungewissen getrieben werden.

ピエトロ・アルキアーティ版(2022年第8版)

 副文の階層にあるはずのことなのに、ピリオドで打っているということで、間接話法の連続使用の無頓着な誤用なのです。ピリオドであろうとなかろうと、人が感じていることの内容であることには変わりがないのですが、本当は上のようなピリオドの打ち方をしてはいけなかったのです。現在ある『自由の哲学』の四つの訳は、本間訳以外は残念ながらどれもこのことが取れていません(しかしその本間訳も、esとEsをAnschauungととるなどというやらかしをしてしまっております)。さて、それでは、これは本来、一体何を言っているのでしょうか。

 was節とwovon節はどちらもalles andereを受けており、それらはaberで「確かに…ではあるが…である」というふうに対比されています。更に二つのesの指示内容も同じです。alles andereは「Anschauung以外の事物全般」であり、「外から近づいてくる(heran-kommen)事物」ですから、「それ以外の」ということに加え、an-schauenとAn-schauungのこのheranとanという対比で、「外」と「内」の対比となっているととり、内的直観ととります(ついでに言うと、この文の前のSeelenlebenは一般的には内的生活・内面生活というニュアンスですから、Anschauungのほうが内的と取る解釈の補強になります)。そして、aberで対比されているwas節とwovon節は、前者が「経験や学問を通じて人間に外から関わってくる」という内容によって「客観」であるととれ、後者はその当の人間がes könne…, es könne….と感じていること(感覚を持っていること)という内容から、「主観」だととれます。aberはこの客観と主観を対比しているのです。ですからalles andere, was…, wovon…, es…, es….の部分だけ抜き書きすれば、次のようになります。

「確かに経験や学問を通じて人間に外から近づいてくるものではあるが、当の人間が「それはそれ自体では基礎づけとはなりえず、懐疑や批判的判断によって不確実なものの領域へと追いやられうる」と感じているようなものであるところの、内的直観以外の事物全般」

そして、Die eine ist, ob es eine Möglichkeit gibt, die menschliche Wesenheit so anzuschauen, dass diese Anschauung sich als Stütze erweist für alles andereの部分は、

「第一の問いは、人間の本性を、その内的直観がその内的直観以外の事物全般に対する基礎づけであることが実証されるように、内的直観する方法はあるか」

ということになります。最終的にこの二つを日本語として成り立たせるために次のように訳しました。

人間の内的生活には二つの根本的な問いがあり、本書で論じられることになるすべての事柄は、それらに向けて整理されている。一つ目の問いは、確かに経験や学問を通じて人間に外から近づいてくるものではあるが、当の人間が「それはそれ自体では基礎づけられず、懐疑や批判的判断によって不確実なものの領域へと追いやられる可能性がある」と感じているような事物全般の基礎づけの方法に関する問いである。つまり、上記のような事物全般以外であるところの人間的本性の内的直観の実現が、その内的直観の実現自体でこれらの事物全般の基礎づけとなることを実証するような方法は存在するだろうか?という問いである。

ルドルフ・シュタイナー『自由の哲学』私訳

「人間的本性の内的直観以外の事物全般」という表現を逆手に取り、「人間的本性の内的直観」のほうに「上記のような事物全般以外の」としました。そして、「それがそれ自体で、事物全般の基礎づけとなることを実証するような方法が存在するか」としたのです。「上記のような事物全般以外の、人間的本性の内的直観」という表現にすることで、die menschliche Wesenheit so anzuschauen, daß diese Anschauung sich als Stütze erweist für alles andereの中の表現が、第三章になってから登場する、Nur unterscheidet sich das Denken als Beobachtungsobjekt doch wesentlich von allen anderen Dingen.(ただし、観察の対象としての思考だけは、本質的にそれ以外のすべての事物から区別される)といった表現や、Während das Beobachten der Gegenstände und Vorgänge und das Denken darüber ganz alltägliche, mein fortlaufendes Leben aufüllende Zustände sind, ist die Beobachtung des Denkens eine Art Ausnahmezutand.(対象や過程の観察とそれについての思考が、私の継続的な生活を満たす日常的な状態であるのに対して、思考の観察は一種の例外状態(特異状態)である)などといった「思考の観察」(Die Beobachtung des Denkens)にまつわることの表現の一つであることがはっきりわかるようになるのではないでしょうか。

 なお、「経験や学問を通じて人間に外から近づいてくるものは、それ自体では基礎づけられず、懐疑や批判的判断によって不確実なものの領域へと追いやられうる」とする立場を、一切の知を「自我」に基づくもの、即ち「感性界(「物」)」に関するものとと考える「広義の批判主義(Kritizisumus)」の立場ととり、逆に「経験や学問を通じて人間に外から近づいてくるものはそれ自体で基礎づけられ、懐疑や批判的判断など寄せ付けず、不確実なものの領域になど追いやられはしない」とする立場を、一切の知を端的に「物自体」に関するものと考える「独断主義(Dogmatismus)」の立場と取ると、シュタイナーは、「人間的本性の内的直観」=「思考の観察」という、認識論の新たな基礎付けの方法を確立することによって、批判主義か独断主義かという単純な対立を超えた第三の道を模索するという示唆を、この一文の中にまとめて出したというふうに取ることも可能だと思われます。実際、『真理と学問』では、これに近い議論を、フィヒテを取り上げつつ行っていました。この場合、フィヒテの『知識学』の立場は、独断主義か批判主義かという大雑把な区別に分けられる場合、後者に属するものと思われます。以下をご覧ください。

 我々は全ての人間知の意味についての学問として認識論を基礎付けた。この認識論を通じて初めて、我々は個々の学問の内容と世界との関係についての説明を手に入れる。この認識論は諸学の助けを借りて世界観に至ることを可能にする。我々は実証的な知を個々の認識によって獲得する。認識論を通じて我々は現実にとっての知の価値を経験するのである。我々は厳密にこの根本原則に固執したし、我々の取り組みにおいてどんな個々の知も利用しなかった。そのことによって我々は、一切の一面的な世界観を超克した。一面性は通常、認識プロセスそのものに取り掛かる代わりに、ただちにこのプロセスの何らかの客観に近づくという研究に起因する。我々の議論に従えば、独断主義はその「物自体」 を、主観的観念論はその「自我」を、根本原理としては放棄しなければならない。というのも、「物自体」と「自我」は、その相互関係に関して言えば、思考において初めて本質的に規定されたからである。「物自体」と「自我」は、その一方を他方から演繹するようには規定できず、そのどちらとも、その特徴と関係に関して言えば、思考によって規定されなければならないのである。

(ルドルフ・シュタイナー『真理と学問』7章より私訳)

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