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男は煙草を吸いながら、窓の外に視線をやった。だが、男の目には何も映っていない。そこに映し出されているのは、過去の彼だった。かつて愛した人だった。思い出の日々だけが彼を支えていた。 男は、死ぬつもりでここに来た。この山小屋は、男がかつて愛した人と共に暮らした場所。そして、男の終の場所になる。 そんな彼の目は、白い塊を見つけた。男は外に出て、それに駆け寄る。それは白鳥であった。右の翼に大きな傷を負っていた。白い羽が真っ赤に染まっていた。 こいつも、もうすぐ死ぬのか。 そう思っ
「『障害のある子供を置き去り』ねえ…」 君はニュース画面を見ながら呟いた。昼過ぎの定食屋は人影もまばらで、君の呟きは未だに中空を彷徨っている。 「…ひどいと思う?」 君は僕の問いに「わかんね」と答えた後、窓の外を見た。 「命って、平等なのかな」 「…どうなんだろう」 僕もつられて窓の外を見る。行き交う人たちは早足で、誰もこちらを見ることはない。 「俺さ、置き去りにしたことあるんだ」 え、と訊き返した僕を見ず、君は続ける。 「13年前、震災のとき。俺は、近所の元さんを置き去り
気がつくと、薄暗い森の中にいた。辺りを見回すと、奥に大きな湖があることに気付いた。湖の中央には橋が架かっていて、その向こうには幾つものあたたかな明かりが灯っていた。 吸い寄せられるように、私は足を進めた。橋はぎしぎしと音を立てる。あの明かりまで、あと少し。そのとき、橋の上に小さなコインが落ちているのが目に入った。 しゃがみこみ、それを拾い上げる。見覚えのない名前が刻印されたそれを見て、何故だか私は急に悲しくなった。戻らなければいけない気がした。どこに戻るのかもわからないままに
墓へと向かう上り坂の前で、僕は煙草を吸った。これが生涯で最期の煙草になるだろう。君は煙草が嫌いだった。 金髪の女性が僕の脇を走っていく。鮮やかな桃色の花のイヤリングが、真っ白なこの景色に不釣合いなほどに揺れている。僕は少しだけ見惚れていた。彼女は誰に会いに行くのだろうか。 煙草の火を消して、僕は坂を上り始めた。まだ急ぐほどではないが、時間は限られている。 墓所に着く前に、一度だけ後ろを振り返った。国連が発表したとおり、この世界はもうすぐ停止するのだろう。それをすんなりと受け
君の声に季節を添えるなら、それはきっと春だ。痛みも苦しみも密やかに遠くにやってしまうような、淡いそよ風。 毎年少しずつ咲くのが早くなる桜を見ながら、僕たちは歩いた。 僕らは、春がさよならの季節だと知っている。息をひとつ吸うたびに、歩みをひとつ進めるたびに、君が瞬きをひとつするたびに、君の心が離れていく瞬間は、少しずつ迫ってきている。 「卒業なんて、あっという間だったね」 君が見上げているのは桜だろうか。それとも、ぼんやりと浮かんだ月なのだろうか。君の見ている世界が、最後ま
「君がいないと、寂しいよ」 行き交う雑踏に紛れて、あの日の君の声が聞こえた。冬の町は静かだ、だなんて誰が言ったのか。今日もこの町には『音』がある。賑やかで、活気があって、大嫌いだ。 僕は今日も、君の声だけを探している。 大通りを抜け、静寂へと向かって歩く。賑やかな幸せを置き去りにする感覚が、僕はずっと好きだった。もし僕だけしかいない世界になったなら、きっと僕の希死念慮は消えてなくなるだろう。僕以外の全てが、僕を嫌っている、追い詰めている。そんなことは、とうの昔に知っていた
その旅館で不思議なことが起きるようになった頃、私はこの土地に戻ってきていた。誰もいなくなった実家を放置できなかったため、仕事を辞め、この町に戻ってきたのだ。 家の古い窓を開け放つと、遠くに山が見える。その山の麓に建つ旅館は、遠く昔、安土桃山の時代から続く老舗といわれている。 あの旅館には『桐の間』という部屋がある。かつて参勤交代に向かう大名が休み、窓から見える桐を褒めたといわれている部屋だ。 その部屋の窓が勝手に開くようになったのは、私が戻ってくる少し前だったらしい。 隣近
いつからか、君は学校というところに通うようになった。 ランドセルとやらを背負い、君は毎日学校に行った。 背が伸びて、髪が長くなって、君は僕たちとは遊ばなくなった。 部屋の隅っこ、棚の上に飾られた僕たちを手に取ることは、減っていった。 それでも、毎日必ず言葉をくれた。頭を撫でてくれた。 つらそうな日、悲しそうな日。 どんな日々も君は乗り越えてきた。 君が3歳の頃、僕はサンタクロースに連れられてこの家に来た。 それから毎年、サンタは僕の友達を連れてきた。 僕よりモフモフのテデ
俺は昔から、女運が悪い。 初恋の人には二股をかけられたし、社会に出て初めて付き合ったのはマルチ商法の勧誘員だった。後悔はしてるが、みんな可愛かったのは認めざるを得ない。 それにしても、だ。 俺の正面には、後輩の莉奈がいる。いつもと変わらず悪戯っぽく笑っている。大好きなパンケーキを食べて、ご満悦の表情。 幸せな風景だろう。 ただひとつ、莉奈の左手に俺の心臓が握られていることを除けば。 「先輩、死神とか信じます?」 今日の昼、映画を観た帰りに莉奈は言った。 「うーん、場合によ
馴染みの青果店に『閉店』の張り紙を見つけて、私はため息をついた。そういえば最近はあんまり来ていなかったな、と自分の行動を反省し、来た道を引き返した。 アーケードの上の空は雨模様で、商店街の人影はまばら。流行のアイドルソングが何処かの店のラジオから聞こえてくる。 商店街の入り口に、青果店のおじさんが立ち尽くしているのが見えた。私は声をかけようとしたが、おじさんの様子がおかしいことに気付いてやめた。 おじさんの目は、商店街にいる誰のことも見ていなかった。濁ったその目はまばたき一
「僕ね、故郷の惑星に帰らなきゃいけないんだ」 二人で夕ご飯を食べているときに、君は申し訳なさそうにそう言った。 今日のメニューは君の好きなとんかつで、私は今日の出来に自信があった。いつもより上手く揚げられたんだ、と言うつもりだった。 君が私の家に来たのは、10年前だった。当時話題になった流星群に紛れて、君は宇宙からやって来た。 犬とも猫ともつかない奇妙な姿の生き物。その上、空から降りてきて間もなく、たどたどしい日本語を話し出した。 間違いなく、宇宙人だ。私はその生き物を抱え
見上げた空は白く濁っている。雪が瞼に触れた。 あまりにも冷えた冬の空気に、少しだけ笑いがこみ上げた。残酷だ。世界はいつだって残酷だった。 私の名前を呼ぶ声がする。今は聞こえるはずもない、あの澄んだ声が。 同じ名前が、私たちを繋いだ。そうして出来た絆を、私は今も探している。 海を見下ろしながらあの場所へと歩く。はしゃいでいた君を思い出す。 あのときは桜が綺麗に咲いていた。花びらが舞っていたあの場所にも今はきっと、真っ白な雪が降り積もっている。 もうすぐ世界は、その活動を停止
曇天を見上げた君の睫毛に、今年初めての雪が触れた。体温で溶かされた白い結晶は僅かばかりの雫になり、君の頬を流れていった。 「…ごめんね」 呟くようにして君が言った謝罪が僕に向けられたものだと気付くまで、静寂が僕らの間を流れていった。 「謝るようなことじゃ、ないよ」 つらいのは間違いなく君の方だと言うべきなのに、僕の口は機能不全を起こしている。もし僕がAIだったなら、もっと上手く君に寄り添えたのだろうか。何を言えば、君の瞳は僕を映すのだろう。何を言えば、あの日々が戻って
枕元の照明を消して、私はようやく私に戻った。 生きづらいと言うほどでもないが、窮屈な日々。ほんの少しだけ噛み合わないことばかりの日々に、心が疲れているのを感じていた。 目を閉じても、眠りに就けない。また照明を点けて立ち上がり、睡眠薬を服用した。 15分ほどして、ようやく効果が出てきたようだ。目を瞑ると、意識は次第に遠のいていく。 「夏菜実、そろそろ起きなさい」 眠い目をこすりながら、私は身体を起こした。珈琲の香りがする。辺りを見回す。眠る前と景色が一変していた。ログハウス