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【短編】白鳥

男は煙草を吸いながら、窓の外に視線をやった。だが、男の目には何も映っていない。そこに映し出されているのは、過去の彼だった。かつて愛した人だった。思い出の日々だけが彼を支えていた。
男は、死ぬつもりでここに来た。この山小屋は、男がかつて愛した人と共に暮らした場所。そして、男の終の場所になる。

そんな彼の目は、白い塊を見つけた。男は外に出て、それに駆け寄る。それは白鳥であった。右の翼に大きな傷を負っていた。白い羽が真っ赤に染まっていた。

こいつも、もうすぐ死ぬのか。
そう思ったとき、白鳥の瞳が男を捉えた。
こいつは僕とは違う――。男はすぐにそう思った。その白鳥は生きることを諦めてはいなかった。傷を負い、血を流しながら、それでもその目には光を宿していた。明日を見つめていた。

死なせてはいけない。

男は白鳥を抱え、小屋に戻った。傷口を酒で洗い流すと、痛みに耐えかねたのか白鳥は暴れだした。幾度か、痛めていない方の羽で男の顔を叩いた。それでも、男は何も言わなかった。たった一つの使命感だけが、男を突き動かしてた。

傷口の消毒を終え、男は羽に包帯を巻いた。すぐさまそれは血に染まった。出血は止まらなかった。それでも、男は諦めなかった。
数年ぶりに小屋の暖炉に火を入れた。白鳥のための寝床を作り、男は神に祈った。かつて愛した女性のために祈ったときと同じように、白鳥の快復を祈った。

祈りの合間で、男は傷を消毒し、包帯を取り替えた。最初は抵抗していた白鳥も、次第におとなしくなった。男をじっと見据え、一度だけ男の右手に顎を乗せた。



夜が深くなっても、男の祈りは続いた。神に祈っても叶わないのではないか。そんな不安が彼の脳裏に宿った。彼は、書物で読んだ仏教の神を思い出した。そうして、それに祈った。明け方に差し掛かろうとしたとき、妻が話していたイスラムの神を思い出した。彼女の言葉を丁寧に思い出しながら、今はもういない彼女の声を頼りに、その神に祈った。
日が昇る頃、彼はゾロアスターの神にも祈った。ヒンドゥーの神にも祈った。ありとあらゆる神に祈った。悪魔にさえ祈った。死神にさえ祈った。

こいつを生かしてくれるなら、もう何だっていい。

男の祈りは、どこにも届かなかった。
二度目の太陽が昇る頃には、白鳥の呼吸は絶え絶えになっていた。男は窓を開け、白鳥に空を見せた。首を持ち上げてやると、一度だけ彼を見た。

男は、神が祈りを叶えてくれないことに落胆した。あのときもそうだった。医療が見放した妻は、神にさえ見放されたのだと。
だが、男はそれでも諦めなかった。自分の心の中にいるはずの神に問うた。聖典には名を残すことのない、彼の心の中にだけ住まう神がこの白鳥を助けてくれることを信じていた。今は亡き妻が、この清らかな命を守ってくれることを信じていた。
深い心の奥底で、男は自分を捨てることを決意した。

自分の名を忘れた。
愛した妻の名を忘れた。
人であることを忘れた。
生きていることを忘れた。

ただ、目の前で消えかけている命を救いたかった。

白鳥に触れていた男の指先は、ぽろぽろと崩れ落ちていった。崩れ落ちた肉片は、花になった。桜、蓮華、蘭、百合…数え切れないほどの花々になった。男はそれを見て、綺麗だなと思った。もうその花々の名を思い出すことはできなかった。
男の体が花へと変わるのを、白鳥は少しだけ悲しそうに見ていた。いつの間にかその傷は癒えていた。

白鳥は、開け放たれた窓から飛び立っていった。男は何かしら声をかけようと思った。意識が薄れていき、言葉さえ忘れていってしまう。それでも、ようやく言葉を搾り出した。

「もう、自由だよ」

そうして、男の体はすべて花になった。

それから暫くして、その山小屋に人が訪れるようになった。手入れをする者などいないのに、毎年綺麗な花が咲いたからであった。
冬になると、そこに一羽だけ白鳥が来た。開け放たれたままの窓から入り、小屋の中で数度鳴く。そのあとで一晩だけそこで眠って、去っていくのだった。


了(1632字)


あとがき
まあ、まず皆さんが言いたいことはこれだろうな。

普段の作風はどこにいった!!!


今、色々と悩んでいる。簡単に言うと「作風迷子」である。保護してほしい。あたたかなご飯とハイボールを用意してほしい。ビールはさよならすることにした。ていうか、酒やめないといけないよな。
まあ何にせよ、ご飯があるなら、すぐ行く。走っていく。あの映画の名台詞である。

最近「送り出す」人間に注目している。娘を送り出す親、死者を送り出す葬儀屋…なぜだかわからないが、そういった人々に関心がある。ドキュメンタリーでも見ようかな。
というわけで、これは僕なりの「送り出す」小説であり、これを見てくださった皆様へのエールだ。
「もう自由だよ」というフレーズは大好きな歌からお借りしたものだ。僕は、僕の恋心にこの言葉をかけた。自由だよ、もう全部。
というわけで、日曜の朝っぱらからセンチメンタルにしてみた。
感傷的な日曜日をお過ごしください。ごめんね。

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ナル
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