SNSがんばってますか?
SNSがなかった時代、わたしたちは同じ趣味のひとをどうやって探していただろう。好きなものをどうやって見つけていただろう。自分の好きなことをどうやって伝えていただろう。
どこでも、誰とでも繋がれる世界がある。
街の風景を切り取って見せることができる。感じたことをそのまま世界中に向けて呟くことができる。高い機材がなくても、遠く離れた誰かと簡単にお互いの顔をみて話すことができる。
見知ったようなことは、インターネットで検索すれば簡単に知ることができる。知っているフリが簡単にできる。足を使わなくてもいい。
なんでも開かれている世界で、なんでも知れるようになると、今度は閉じた世界が価値を持ち始める。検索されない情報、特定のひとだけがアクセスできる場所。お金を払わないと、入れないコミュニティ。
たぶん、昔は情報も少なくて、それを共有するにも、コミュニケーションをするコストがとても高かった。足を使っていろんな場所に行かなければ得られないものがたくさんあった。今よりも、ずっとそういう場所が当たり前に価値を持っていたかもしれない。好きなもの、好きなことが共有できる人が集まる場所。
こんなに、いつも誰かとつながっているはずなのに、それでもそういう場所を今もずっと探している気がするのはどうしてだろう。
一つ一つのつながりが弱まっているのかもしれないし、つながりが広がりすぎて薄まっているのかもしれない。どこかに所属しているようで、どこにもいないようなふわっとした孤独がある。本当に大切なものをいつも探しているような感覚になる。
時代は後戻りできないし、いまのわたしたちは、いまの生き方をするしかない。いろんな新しいものが生まれる、世界は変わっていく。
「本屋さん」という場所は、少しだけ変わらない世界を見せてくれる。古いものも新しいものも同じように並んでいて、そこだけ時がとまった世界がある。本のなかに書かれている言葉は、色あせても深く残る。
本屋さんは、何も押し付けない。ただ、店を開いて待っている。呼び込みもしないし、お探しのものはなんですか?とも尋ねない。ただ世界を見せるだけで、本を手に取るわたしたちを見守ってくれる。とてもあたたかい場所だ。
いまを生きているわたしたちは、やっぱりSNSをがんばっているけれど、流れていくみんなの日常を眺めながら、ときどき時が止まったような場所に行きたくなる。それは、本屋さんだったり、喫茶店だったり、立ち飲み屋だったり、するのかもしれない。
そんな場所は、いまもかけがえのないもので、いまも誰かの忙しい日常をなぐさめてくれる。
ちょっと立ち止まって、ゆっくりしていきませんか?