最高の芸術とは、人を幸せにするものだ『グレイテスト・ショーマン』のお話。
And the world becomes a fantasy
そこは空想の世界
And you're more than you could ever be
何にでもなれる
'Cause you're dreaming with your eyes wide open
君は目を開けて夢を見たから
『グレイテスト・ショーマン』
原題:The Greatest Showman
監督: マイケル・グレイシー
出演:
ヒュー・ジャックマン(P・T・バーナム)
ザック・エフロン(フィリップ・カーライル)
ミシェル・ウィリアムズ(チャリティ・バーナム)、
レベッカ・ファーガソン(ジェニー・リンド)
アン・ウィーラー( ゼンデイア)
キアラ・セトル(レティ・ルッツ)
先日見たグレイテスト・ショーマン。
私の魂を震わせるのに十分すぎるほどの魅力を秘めていた。
この物語はほとんどノンフィクションだ。
若干の脚色やテコ入れが入って大衆的な作品に仕上がっている。
しかしこの作品には、特別な誰かに向けた希望のメッセージがふんだんに盛り込まれている。
『P.T.バーナム』という男
この映画の主役は「おもしろ人間ショー」を事業として始めたP.T.バーナム。当時の貧困層に分類される、仕立て屋の息子だ。実在の人物だが、経歴は史実から大きく変更されている。(実際は、宿屋兼商店の息子。)
最初はこの「人間ショー」が痛烈に批判されることとなる。
しかし、物語後半になると、バーナムの非倫理的な活動を批判していた記者が、バーナムのショーを「celebration of humanity(人類の祝祭)」とまで評すようになる。
・・・
この映画は
冒頭に夢を叶えた姿
→子供時代まで時系列が戻る
→夢に向かって進む
→物語最終盤で、冒頭のシーンと合流
という構成で描写される。
わたしはよく好きな漫画になぞらえて「シグルイ方式だね!」と例えたりするのだが、あんまり伝わった試しはない。
結果を最初に提示することで、過程に大きな意味を込める構造なのだ。
なぜ彼が、このショーを始めたのか、大きく3つの理由がある。
彼が虐げられる側の人間だった
ある人物に助けられた
いつだって誰かの夢のために働いていた
・・・
まず、バーナムは生まれながらにひどい扱いを受ける。
仕立て屋の息子として、後に妻となる資産家のレイチェル邸で働いている。だが父親の逝去と同時に追い出され、露頭に迷う。
パンの窃盗や捨てられた新聞の転売を繰り返したりでなんとか命を繋いでいくも、世間の風当たりは冷たい。真冬で雪が降り積もる中でも、薄手のシャツ一枚で裏路地に座り込むほど、貧困にあえいだ。
そんな時、彼に何も言わずにリンゴを差し出してくれた人物がいた。
その女性の顔は特徴的で、ノートルダムのカジモドを彷彿させる。歩き方もどこかぎこちなかったから、おそらくは先天性側彎症の類だろう。
リンゴを渡した後に去っていく彼女。だが周りの通行人はそんな優しさを目の当たりにしてなお、彼女の顔を見て怪訝な視線を投げかけ口を覆う。ただただ醜いという理由で迫害されているのだ。
バーナム少年は、その後ろ姿をただただ黙って見つめていた。
このエピソードは、バーナムからありとあらゆる偏見を取り払うのに十分すぎるほどの効果をもたらしたのだろう。彼は大人になって生きづらさを抱える人物たちと会った時も「あなたは魅力的だ」と態度と心で示していた。
・・・
これが出来たのは、彼が偉大な人間だからではない。
彼にとってはそれが「ごくごく当たり前」だからだ。
彼は自分を激烈に批評する人間にだってニコやかに話しかける。
関わる人全員が笑顔になるよう求めた。
卑しいカネ稼ぎ、と批評されることもあるが、彼がカネに執着した描写はほぼない。十分な成功をしているのに、歌姫による各国ツアーを計画した時も多大な金額を気軽に借りてしまっていたし、そもそも妻に生活苦を感じてほしくないから稼いでいたわけだ。(本質的には自分自身の為のお金は、まったく望んでいない)
彼が見たかったのは、どこまでも人々の笑顔と感動だ。
そこにマイノリティもマジョリティもない。
すべての人がそれぞれに「魅力的」な世界を実現したかったのだ。
我々視聴者目線だと、かならずどちらかに自意識が傾く。
マジョリティか、マイノリティか。
だがバーナムの視点で物語を見ると、世界はどこまでも均一。
この物語を紐解く上で、バーナムの役割を理解することが特に重要なのだ。
多様性全盛期時代において、もしかしたらこの視点は我々が今最も必要なものなのかもしれない。
(※唯一、レイチェルの両親にだけはアタリが強い。ある意味殺されかけた被害者でもあるからね…多少はね…)
『差別』に立ち向かった戦士たちの物語
私は、この作品は死ぬほど愛している。
この前提をしっかりと理解した上で、聞いてほしい。
・・・
批評家の間では、この作品は非常に残念な評価を得ている。
彼らは異口同音に述べる。
「結局、この映画はマイノリティのことを何も考えていない」
”事実”として、そういった声は多数あがっている。
だが、同時にそれはまったくもって”真実”ではない。
批評家は、嫌いな映画は大体一度しかみない。
だからひどく短絡的な観測になる。
記憶が定まらないまま、脳内で都合よく構成を補完する。
そういった状態での批評は、ほとんど見当違いや記憶違いである事が多い。
皮肉にも「酷評を書いたライター本人が、映画のことを何も考えていない」という状況に陥りやすい。
これは面白い入れ子構造だ。
「何も考えてない映画」と酷評することで、廻り巡って自分自身の「何も考えていない」ことが露わになる。結果「木を見て森を見ず」なレビューが世に流れだす。
批評家の中には障害者支援に関わっている方も居た。
当事者だからこそ、マイノリティをただの大衆向けなコンテンツとして落とし込まれたことにハラワタが煮えくり返ったのだろう。その気持ちは大いに共感ができる。しかしだからこそ、単なるヘイトスピーチではなく、しっかり意味を見出して欲しかったとも思う。
・・・
ここで一つ、作中からの言葉を借りよう。
And you're more than you could ever be.
日本語字幕では『何にでもなれる』と翻訳されている。
しかし厳密なニュアンス的には「あなたはもっと素敵になれる」が正しい。
主体はあくまで「彼ら」なのだ。
彼ら自身が彼ら自身のまま、突き抜けていく。
「誰にもそうあってほしい」と、本作主人公である「P.T.バーナム」は望んだのだ。
しかし、人は弱い生き物。時に光に目がくらみ、道を踏み外す。
自分の理解できないものには、激しく恐怖心を抱き、やがてそれは攻撃に転じる。それは人として当然の業だ。
だからこそ、人は許すのではないだろうか。
現代で課題とされている「多様性の受容」とは、人を許すことから始まる。
もちろん「人を許さない」という多様性も担保しなければならない。
口酸っぱく話していることだが、私の理想とする社会は「無数の小さなコミュニティの点在」だ。その在り方を認めてくれる、つまりは自分自身をありのままで愛してくれるコミュニティを誰でも知ることができ、かつ誰でも所属することができること。それが理想だと思っている。
映画という媒体は、それこそ「超大衆的コンテンツ」だ。
消費されてなんぼの世界。
そんなコンテンツに「マイノリティをひっさげること」がそもそもの間違い、という主張にもある程度理解は示せる。
だが、そうして意固地になっていては、新しく触れられたはずの世界をみすみす見逃すハメになるのではないか。それは多様的機会の損失だ。
小さな世界への扉を閉じるのは構わない。
外の世界からの刺激からは守れるし、中の人の世界は保証されるかもしれない。
だがそれは、誰かの幸せや平穏を心から願っての行動だったと、胸を張って言えるだろうか?
苗木を護ることに必死になって、外の世界の新芽や若葉が枯れていく様を見てみぬふりをする事が正しい。果たして心に誓って言えるのだろうか?
P.T.バーナムは闘った。マイノリティと共に。
フリークス(いてはいけない者たち)と罵られようが、下劣やら下賤やらカネの亡者だの、新聞でどんなにコテンパンに叩かれようとも、いつだって不敵に笑ってみせた。
暴力だって振るわない。
拳の代わりに振り上げたのは「ショーのチケット」。
それと亡き父親から受け継いだ「シルクハット」だ。
物語の終盤、バーナムサーカス団員たちが厄介な市民に拳を振り上げるシーンがある。
しかしその理由は、なんらマジョリティと変わらない。
「自分たちを護るため」に抵抗したのだ。
「フリークス!」「フリークス!」
と罵られた。
「私達はここにいる!」
当たり前の権利を、当たり前に主張した。
その決意表明が、作中屈指の名曲である
「This is Me」に込められている。
『This is ME』 勇ましき戦士たち
こちらの映像を置いておく。
この映像は構想段階でのデモワークショップの様子だ。
レティ役のキアラ・セトルが「This is me」を人前ではじめて披露したシーン。
舞台も日程も、というかそもそも映画の撮影自体も確定してはいない。
しかし、とんでもない化学変化を起こすことになる。
魂の共鳴、というものを私は身近に感じたことがあまりない。
あるには、ある。だけどそれはほんの一瞬の出来事。
繋がったと、思った次の瞬間は立ち消えてしまう。
このワークショップでカメラを回してくれていたキャストに感謝しなければならない。もしも、デジタル広辞苑に『魂の共鳴』という項目があったなら、私はこのアーカイブのURLを引用しているところだ。
レティ役のキアラ・セトルが、自らの殻を打ち破り”覚醒”する瞬間をぜひ見届けてほしい。
特に私は、「We are the warriors(私達は戦士だ)」と全員が合唱するところが大好きだ。
魂が震えるし、毎回私も釣られて口ずさんでしまう。
皆の心の中にも存在している「小さなマイノリティ」が背筋を伸ばし堂々とした姿で、私達の眼前に現れるのだ。
そして可能であれば、そのまま映画を見てくれることを願う。
国民に愛された『親指トム将軍』
もう一度、この映画について世間の声を書いておく。
批評家からの評価は著しく低い。
『この作品はバーナムという人間を持ち上げすぎている。
彼は「見世物」という非人道的な行為をしていた』と
だが、大事なことは、サーカスの団員は望んで彼に協力をしている点にある。「This is me」と自覚した上で、自分の意志で、自分の誇りを賭けた。
作中にチャールズ・シャーウッド・ストラットン(芸名:親指トム将軍)という小人症の人物が登場する。
チャールズは母親に隠されたように過ごしていた。しかし、バーナムは彼に希望を見出したのだ。暗闇から彼を連れ出し、堂々と胸を張らせた。
「親指トム将軍」と名付けたのはバーナム自身。チャールズは喜んでその名前を受け入れた。
もちろん、チャールズがナポレオンファンであることを知った上でだ。
バーナムとともに過ごす中で、彼は様々な才能に目覚めた。
いろいろと省くが、チャールズは後にヴィクトリア女王の名誉ある謁見に呼ばれたし、彼の葬儀には2万人以上の人が参列した。
ここで「this is me」の冒頭の歌詞を引用する。
I'm not a stranger to the dark
Hide away, they say
『私は暗闇には慣れている。隠れてろ、と人々は言う。』
人生を虐げられてきたサーカス団員達のトラウマが語られる一節だ。
「this is me」はシンとした寒々しさから始まり、段々と自分の殻を破っていく心情の移り変わりを華々しく描写する。
魂が共鳴するのだ。
記録に残る限り、実在のサーカス団員たちも才能を開花させ、輝かしい人生を歩んでいる。彼らが映った写真に負のオーラは一切ない。誇り高き戦士たちの姿がそこにある。
果たして、バーナムは非人道的な行いをしたのだろうか。
むしろ批評家たちのほうが「チャールズたちを消耗品のように扱っている」と感じてしまうのは、果たして私の「偏見」だろうか。
怖れずに所感を言わせてもらえば『「非人道的だ」と訴える批評家のほうが、よっぽど非人道的』ではないだろうか。
世の批評価達には、今一度自分の発言を振り返ってほしい。
無意識に、チャールズや団員達に対して『Hide away(隠れてろ)』と言ってはいないだろうか?
彼らは、誇りを胸に生きていたはずだ。
居場所があることが大切? 実はもっと深いテーマだ。
もしこの映画を見て『居場所があることの大切さ』を改めて感じたのなら、その感性は素晴らしい。ぜひとも、その気持ちも教訓も大切にしてほしい。
だが、世間にはそれだけでは納得しない人も存在する。
こんな陳腐なメッセージに今更感動するやつがいるのだろうか?と、浅い記憶を頼りに勝手にメッセージ性を決めつける批評家もいる。残念ながら陳腐なのはその思考の浅さなのだが、今は置いておく。
物語の後半、バーナムは全てを失う。富も名声も家族も。
しかし、酒場でしょぼくれたまま酒をあおるバーナムの元に、彼の創ったサーカスの団員達は集まり、彼を激励する。
いや、正確には激励じゃない。
「グダグダ言うな」「私たちを見捨てるな」というのだ。
見捨てるというのはどういうことだろうか。
まずバーナムという男について今一度振り返ろう。
彼は、どんな人間も平等に見ている。
マイノリティとか、そういう意識はないのだ。ただただ人間の中の『オンリーワン』に魅力を見出し、対等に接するのがバーナムという唯一の存在だ。
しかし、上流階級での生活に浸かる内に他人の夢にあてられ、いつの間にか目標が『ナンバーワン』にすり替えられてしまった。
彼もまた弱い人間の一人なのだ。
バーナムはいつだって、マイノリティたちにとって神様だった。だれにだって平等の愛を捧げて接していた。だが、意識的にではない。
何度もいうが彼にとって「それは当たり前」なのだ。
だが、その当たり前が社会によって歪められてしまった。
サーカス団員は、その彼の目を覚まさせてやる。というか覚ましてもらわないと困るのだ。虐げられる痛みを知っている彼らだからこそ出来たことだ。むしろ世間は、バーナムを社会的に殺そうとした。彼らの胸の内にある圧倒的な怒りが、ただ光に向かってひた走る唯一の希望なのだ。
この描写はよく「マイノリティの優しさを都合よく使っている」なんて評価されたりする。実に面白い冗談だ。この機会にその発言を良く振り返ってみるといい。
・・・
再びオンリーワンの素晴らしさを取り戻したバーナム。
陽気な劇中歌「From Now on」と共に次の一節が合唱される。
And we will come back home
Home, again!
『みんなで家にかえろう。もう一度!』
『家』とは文字通りの意味ではないだろう。
『家』を『居場所』と捉えて受け取る人もいる。
バーナムの創ったサーカス会場はある事件で燃え尽きる。その瞬間、団員の心も灰になったような消失感に包まれたことだろう。だけど、サーカス団は常に結集した。
『家』を取り戻したい、と語った。
サーカスは『誇り』と『尊厳』なのだ。
では『家』とは?『居場所』とはどこなのか。
実はもう「this is me」の中で語ったし、なんなら叫んでいる。
『家』『居場所』とは自分の中にある魂。meだ。
『家』とは物質的な意味ではない。
魂同士の共鳴こそが、彼らの確かな生の実感であり帰るべき『家』なのだ。
多分この生の実感は、キャラクターを演じるキャスト自身にすら響いた感情だと思う。
「this is me」のデモがそうだ。過去の実在人物と、今の映画を演じるキャストが、時間も空間も越えて共鳴した瞬間だろう。それこそイデア界的な「home」という概念に触れたのかもしれない。
きわめて精神的な抽象表現である「home」のはずなのだが、物質的にとらえてしまうのは、なんというかあまりに惜しい。それではテーマ性を薄めてしまう。
映画は演出の世界だ。どうしても虚構は入り交じる。
しかし歌詞という一点においては何一つ嘘偽りはない。
劇中の歌詞は独立しているわけではない。すべてが密接に結びついている。
どの歌が誰に向けられているのか。もっともっと俯瞰してみてほしい。
ちなみにだが私もまだこの作品の真髄は理解しきっていない。完全に理解するためには、この150年近くの多様性についてバーナムが与えた社会影響について勉強しなければならないからだ。
もしかしたらこういった時代背景をしっかりと頭に叩き込んだ上で批判している人もいるかもしれない。
だが今のところそれほどの「優秀な批評家」を目にしていない。喜ばしいことかもしれない。
(むしろ、そこまでいったら逆にファンだろうとも思う。笑)
最終章『The Greatest Show』
作品の冒頭と、終幕を飾った曲が『The Greatest Show』だ。
もうここまできたら全文載せる。
劇中の日本語訳と若干の相違点があるが、私が特に心に響いた節がある。
(Woah) colossal we come these renegades in the ring
大いなる僕たちはリングの中の裏切り者となる
劇中では『巨大なテントの反逆者たち』と役されている。
自分たちの逆境について語っている一節。
これはバーナムにしては珍しい表現だ。
あきらかに「マジョリティ」と「マイノリティ」の格差を意識したワードチョイス。
これまで平等で平均だったバーナムは、サーカス団員であるレティから「見捨てるな」と言われて初めて、社会的な座視を持たなければならなくなった。
だが次の一節はこう続く。
Don't fight it, it's coming for you, running at ya
争わないで、あなたのためにやってくるから
It's only this moment,
それは今この瞬間だけだから、
don't care what comes after
この先何が起ころうと気にするな
それでも、バーナムは平等な社会の実現を夢見た。
いや実現は既にしている。
『グレイテスト・ショー』の中で、出演者も観客も、バーナム自身でさえ、とびきりの笑顔なのだ。
It's blinding outside and I think that you know
外を輝かせるものを、きみは知っているだろう
Just surrender
ただ身を任せて
'cause you're calling and you wanna go
だって君が望んで、行きたいんだろ
どこまでバーナムは、誰しもに宿る己自身の魂を大切にしていたのだ。
マイノリティの味方でも、マジョリティの味方でもない。
魂が共鳴する場所。
彼が人々に届けたのは、そういう場所なのだ。
It's everything you ever want
すべて君が求めていたもの
It's everything you ever need
すべて君が必要としてきたもの
And it's here right in front of you
今まさに君の目の前にあるんだ
終幕の『言葉』。
何度か、人の魂が繋がったと実感した経験がある。
大勢が集まる会場はそういった共鳴が起こりやすい。
しかし、何もフェスとかショーに限ったことではない。
たとえば、閉鎖的な病棟のリビングであったり。
親しい友人と立ち寄った居酒屋の席であったり。
屋上で同僚とたばこをふかす時の一瞬でもいい。
感じたことはないだろうか。
それとも、とっくに忘れてしまっただろうか。
自然の中に回帰する機会を私達はすっかり失い、感情も劣化していきやすい環境に私達は生きている。
日々を追う毎に鈍感になっていく。
そんなときこそ、この物語を思い出してほしい。
『グレイテスト・ショーマン』は、私達の魂にもう一度「居場所」を与えてくれる、そんな力強い映画なのだ。
余談
ここからは筆者が特に気になった点をピックアップ。
これから見るよ!って方、もしかしたら楽しさがちょっぴり増すかもよ!
・魂の共鳴は、時に人を孤独にさせる。
例えばさ、すごい盛り上がってるカラオケ大会があるとするじゃん。
流行の曲バンバン流して、みたいな。
でも、いまいちノリキレないってことあるよね。
一人だけ真顔、って感じで。
わたしもわりと真顔側の人間なんだけど、そういう時の虚しさといったらないね。
オペラ歌手のジェニー・リンドが『Never Enough』を歌い上げるシーンがあるんだけど、それを聞いてる時の色んな人の表情に注目してほしい。
そこから垣間見れる『孤独』が、ある意味カラオケ大会のそれに似てるかも。
・三本足の男。
わかりにくいんだけどサーカス団員に多肢症の男性がいる。
といってもあくまでキャストは健常者だから、作り物の足を衣装にくっつけてる。
凝視しちゃうと分かるんだけど、それがすっごいプランプランしてるんだ。
でも、ちゃんとその脚を活かした振り付けをしている。その人専用のプラグラムなのよ。
で、こういう「その人だけ」の振り付けが、この映画には無数に存在してる。誰一人として同じ振り付けはいない。
まさに、多様性そのものを重視していることが分かるんだ。
同じシーンを何度も見返すのも楽しいよ!
またエンディング中に『枠』みたいのがあるんだけど、これがなんと全部違うデザインだったり。細かいところオシャレ。
・有能すぎるバーテンダー。
バーナムと、演出家のフィリップが手を組むシーンがあるんだけどね。
そこのバーテンダーがまじで面白い。
いやもう主役食っちゃってるくらい動くのよ。
これはもう見てみてほしい。一生仕事してる。
彼のために2周する価値ある。必見です。
ちなみにだが、このバーテンダーについて死ぬほど言語化してる方がnoteにいらっしゃったので引用させて頂きます!わかりみが深い。
・ベタ褒めしてたけど。実際のところ、この映画ってどう?
えっとね~~~、実のところ『人を選ぶ』ってのが最終的な結論…。
わたしは大好きな映画に「レ・ミゼラブル」や「ヘア・スプレー」が挙がるんだけど、周りにはあんまり話さないようにしてる。
ってのも理由があって。
そもそも、日本人ってあんまりミュージカル合わないのよね。
その証拠に国産のミュージカル映画がほとんどない。そこそこ話題になったのって「嫌われマツコの一生」くらい?
2.5次元やアイドルアニメは流行っているけれど、ちょっとこう、哲学的な意味は誰も求めてない気がする。なんというか、オリジナリティよりも、リアリティや原作再現が好きな国民性なんだなぁとは思う。
ミュージカル嫌いの友人も「何踊り始めてんだ。まじめにやれよ」って
よく発言したりするし、ソレに対して(まぁ確かになぁ)と思えてしまうのもあるから、なんにも言えん…。笑
こんな記事を書いちゃう私の感性はマイノリティ寄りだって自覚もある。
でもまぁ、好きなことを好きって言っとかないと、どっかで腐っちゃうぞ、その感情、って考えもなくはない。しっかり発信はしていきたいな。
それこそ『This is me』だよね。
大事にしていきたい🐈
🐈気に入りましたら、ぜひサイトマップも覗いていってくださいな🐈
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