日帰り弾丸高野山詣―1250年の祈りの都をたずねて
6/16早朝、前日交流戦オリックス-ヤクルトの4時間を越えるヤクルトとしては本当にひどい試合に参戦して、本当にへとへとに疲れ果てていた私は、朝7時から特急こうやに乗り込んで、一路高野山へ出かけた。
性分として、疲れた翌日ほどリフレッシュのために寺に行きたくなるのかもしれない。
しかし、re-freshとは高野山を表すのにとても相応しい英語だ。語源である「refreschier」は「ふたたび新鮮な状態にする」といった意味だが、朝の高野山の静謐な空気は人や動物、植物までをあまねく生き返らせてくれるし、1200年前にこの地に寺を開いた空海としても、「refreschier」とまったく同じ境地にあったのだろうと感じさせる。
ご宝号「南無大師遍照金剛」。遍照金剛は恵果から授かった空海の灌頂名であり、大日如来の意でもある。
31歳で唐に渡った空海は、真言第七祖の恵果と対面し灌頂の儀式を受ける。
曼荼羅に花を投じ、みずからと縁のある仏を見定める「投花得仏」の儀式において、空海の花は二度大日如来のもとに落ちたという。
空海はわずか半年で恵果から密教の教えを吸収し、師の遺戒に従い帰国する。当初20年唐に滞在する予定だったのを大幅に切り上げて帰国したことで京に入ることを許されず、二年半九州に滞在することになる。
奥の院墓地には、「大師のお膝元で眠れば浄土に往ける」という伝承から無数の墓が並ぶ。
奥の院の先には御廟があり、入定から1200年近く経った今も空海がこの地に生きて修行を続けていると信じられている。撮影等一切禁止の聖地であるが、参拝客は地下3mの岩窟に眠る御廟のそばに近づくことができる。
奥の院を出て祈りの中心である総本山金剛峯寺に向かう。
この寺院はかつては青巌寺と呼ばれており、金剛峯寺は高野山そのものを指す呼称であった。豊臣秀吉が母の菩提を弔うために建立した寺で、まさに太閤好みの絢爛たる襖絵が出迎えてくれる。
主殿は檜皮葺の屋根で(日本史の授業で名前は聞いたことがあるだろう檜皮葺だが、費用と修繕の手間が莫大なため、よほど古く格の高い尾寺社以外では用いられない。個人的には檜皮葺を見るとテンションが上がる)、屋根の上に見える二つの構造物は貯水のための天水桶だ。紫の幕がかかる大玄関は座主のための出入口である。
蟠龍庭は国内最大級の石庭で、造園されたのは昭和後期。高野山を守る一対の龍を表す。
金剛峯寺の本堂にあたる大伽藍。「壇場」は曼荼羅道場を意味する言葉で、もとはこの伽藍が胎蔵界曼荼羅、奥の院が金剛界曼荼羅の壇場とされてきたが、表記としては「壇上」の方がよく知られている。
金堂の本尊は阿閦如来。東方の仏ということで薬師如来とする例も多くある。平清盛が自らの血を大日如来の宝冠に塗ったとされる血曼荼羅もここに納められていた。
金剛峯寺において最も重視されているのが大塔である。二重の塔を指す多宝塔のなかでは最も古いもののひとつ。胎蔵の大日如来とともに金剛界の阿閦・宝生・無量寿・釈迦をまつる。
金剛界の十六菩薩と真言八祖が壁に描かれ、密教の世界を存分に描き出す。
時計回りに一周させると一切経を音読したのと同じ功徳を授かる経蔵。いわゆるマニ車。
和歌山と言えば柑橘。ということで大門前ではっさくジュースを飲んでいたらバスの時間が迫っていた。急いで大阪に帰ることに。
上り列車の道中もところどころに蜜柑の樹がみられて大変美しかった。
大阪ではかすうどんやお好み焼き、いてまえドッグ、串焼きなど食べ歩きを存分に楽しんだ。どれも本当においしい。
純喫茶の居心地もたいへんよく、なんとくつろぎすぎて新幹線を逃してしまった。結局こだまで22時過ぎに帰ることに……。
スワローズ、次に大阪で戦う時は是非三タテしてほしい。
高野山を知るには高野山で生まれ育った元金剛峯寺座主にして密教研究の第一人者、松永有慶師の書籍が特におすすめである。
手に取りやすいところはこちら。