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「わかりやすい言葉と難しい言葉、どちらが良い?」

「なんかきどった言葉を使わないで、難しい言葉を使わないでわかりやすく説明してよ、書いてよ、話してよ。誰でも理解できるように話せることが頭がいいということだよ」

こういう風潮を時折、見かけますがどのように皆さんは考えますでしょうか?

この主張を是とする意見と、否定的に考える人といるかと思います。
これを書いているあなたは当然、後者ですよね?こんな読みにくい文章を書いているのだからとこの文章を読んでいる方々がツッコミをいれるかもしれませんがそれには問題の分解が必要であるという体を話しておきたいと思います。

 「簡潔に短くわかりやすく理解されやすくという文章は、マニュファクチュア的な何かを学ぶ、操作をするなどの目的に則するものでしたらと考えています。しかし、人の考えの思考や概念などの哲学的なもの形而上学的な概念においては、その人が同じ音の言葉に関してもどのような意味を持って使っているのか、またはその前提条件、背景としてなどあり、それらの説明を要するのであれば"難しい言葉、冗長的な文章"は在るべきである」

と考えています。

これに基づきますと、このnoteの文章というものは後者になりますから、こんなにわかりづらいのですよという自虐を綴っておこうと思います。

では、最近蔓延るネットニュースやブログ、SNSの文章というものはどうかというとこれはいささかいただけないものであると考えています。
その理由としましては、いかに人に読まれ易くするための技術を使うための文章として成立していて人に刺激のみ、それをどう誘発するかという惹起の部分に文章の構造が引っ張られていると考えるためであります。
上記のものに当てはめれば前者に近い性質を持っているからこその文章。
それでいいのではないかと思われるかもしれませんが、ここでは人に伝えるという目的の前に人のアテンション、つまりは注意をどれだけ向けるかという何とも安易な性質に力の重きを置いているということが問題なのです。

これらの刺激という面での情報、文章の触れ方では感性を育てることができない。
これがさっこんの問題でもあると考えているのです。
何が言いたいかといいますと、物事の事実を多面的に見るという機会を感情の側面で失っているということです。

たとえば、写真やある言葉をみる。これは少し想像がし難いですね、やめましょう。
戦争の人の死体がたくさんある写真を見るとします。
これを見て、はじめに人はどのように思うでしょうか?
いまの人たちの感情の吐露は、キモっです。つまりはその写真への写っているものへの自己回避が先にくるのです。
そして、この写真は本物?などの映像の事実確認へと移るのです。
また、その写真の残虐な内容は人がなかなか日常的に触れるものではありませんから、変な興味を惹きつけられてはそれを好奇心というかたちで見ようとしてしまうのです。

さて、これらの反応において何かおかしいことがあるのか?と申される方々がいるかもしれません。何が足りない、おかしいでしょうか?
それはその写真の人達へのまなざしです。
または気持ちの寄り添いといってもいいでしょう。
かわいそう、この人たちは家族なのか、辛いよねなどの感想が出てくることは少ないのです。
哀れみ、寄り添い、まなざしがないのです。

本来はこの哀愁、同情というものの感情とさきほど書きました刺激的な好奇心とふたつが人間には出てくるはずなのです。
しかし、日常の簡易的な言葉やその慣れから感情への至る心の在り方まで"簡易的"なものになっているのです。
この部分はSNSや時事ニュースでの人のいざこざの根本的な部分を占めているのではないでしょうか?

さて、安易に言葉を制限する危険性の有無は御理解いただけたでしょうか?
何もこれはひとつの視座からの話でありますから、また別の側面からみればその簡易的な言葉の良い側面というものももちろんあります。
すべてを否定するわけではありませんがその順機能、逆機能の部分をわけて考え、その機会があってもいいのではないかと思い、それがこの文章を読んだときのキッカケになればそれはそれで幸いです。
後半の"まなざし"についてはまた次の機会に書いてみようと思います。

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