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ドーパミン・カルチャーが生む現代の奴隷制度

この令和の世の中におきまして、「奴隷」という存在はいません。
また、その言葉が人間に対して使われることもなくなりました。
表向き上はというはなしです。
しかし、現在の世界において、また日本においてその働いているシステムを見てみると、もはや奴隷そのものではないかと思うことさえあるのです。
いえ、むしろ奴隷のほうがまだいいのではないかとさえ思ってしまうのです。

奴隷というのは所有者のものでしたし、それなりに安くはない買い物であるため殺さないようにしっかりと管理されて生かされ使われます。
しかし、現在の労働者というものはその対象者が死んでも別に他の人にとってかわるようなもので奴隷のような「大切」な扱いはされることがありません。
リプレースされる可能性のある人間として扱われるのです。

これはその仕組みが悪いのか、それとも雇っている人間が悪いのか、奴隷以下のリプレース可能な労働者が悪いのか
それは一方的に断定することはできませんが、その事実が存在することはたしかです。
ここに今の世の中において輪をかけて危ない仕組みが「ドーパミン・カルテル」、「ドーパミン・カルチャー」です。
この奴隷以下に留めておくための仕組みが完成しているのです。
仕事をする。不満がでて反抗する、勉強をしてその場を抜け出してよりよい人生にするんだという気概を持つことができないのです。

仕事をする。TickTokでスワイプして刺激を求めて、エナジードリンクで刺激を求めてドーパミンを出す、スマホのゲームでと単純刺激を継続的に受け続けることで時間などを消費していきます。
また、そこではドーパミンによる閾値上限の幸福感を常に得ることができるのです。
これに慣れてきたかと思えば、AIやマーケティングによって築かれる大量の消費コンテンツが刺激し続けるようになっています。

つまりは奴隷以下に固定され続けて、使えなくなるとリプレースされるという仕組みが現在なのですが、それに気づいていない人たちが「えぇじゃないか」と生きているのです。
それはこの不況下もあり、生きることで精一杯であるという理由はあるものの、前述のコンテンツでそれなりの幸福感を得られると結婚もしませんし、自分の人生を生きるということを中心において考えて生きようとは思わないのです。
消費コンテンツを常にこなしていくことが生きがいとなり、このこなしているのは自分の人生には何も役に立たないものであることに気づけないシステム。

では、この人生においてはどのように生きるのがよいかというと、「百姓」になればいいのです。もちろん、これは比喩ですが。
自立と自律をしたひとりの人間として自らの労働で生計を立てていき、自分で選択してその消費コンテンツで余暇を楽しめばいいのです。
これができていない人が多いのでこの文章を書いているのであります。
自由主義や民主主義というものがかたちだけのものになり、「楽」という負担免除は『僕』たちの生活に何を提供してくれたでしょうか?

奴隷以下を脱却する心理的な抵抗はドーパミン・カルチャーによってコントロールされいつまでたっても家畜の域をでない人間(一応呼称できる程度のもの)はどれだけいるでしょうか
2024年においてはこれ以降、人々の課題としては

「この現代の社会においての百姓になる難しさの克服」
「個人という在り方と共同体という社会の在り方のバランス」
「奴隷以下の家畜からの脱却するための心理的抵抗の脱却とそのプロセス」

以上があると考えています。

自分たちの立場がどこにあるのか
何をするべきなのか
そういうことを立ち止まって考えてみるのもいいのかもしれません

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