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変化しない日本人の甘えという本質

現代における人との距離感の崩壊も人々の自分の人生の代理現象も、ものが異なるだけでいつの時代においても認められるものであるということが最近、わかってきた。
人は昔から何も変わっていないし、その本質というものは変化していない。
今で言うと、やれSNSがあるから人間の欲望は最大化されてきたとか言われてきたり、『僕』も自分の人生を代理しているなど云っていた節があった。

しかし、これは「今だから」ではなく昔からで、その時代は近代の始まりである昭和、大正時代でもみられる。
そのはじまりは、「血縁、地縁」からの喪失に過ぎないということであり、これがこんにちまで続いているだけだったのである。

そして、一番の上流にある理由としては日本人特有の“甘え”の美学である。

かつて、深く地縁、血縁に寄りかかっていた日本人がその煩わしさからの解放と引き換えに流民化することで本来の在り方を失っていった。
家族、隣近所との関係性を失っていく代わりに、ラジオ、映画、テレビの中に親しい友人、隣人を見出したのであった。

これらの隣人の代用は自分が見る事以上に人に見られているという快楽を擬似的にそれらで補うようになるのである。
自尊心、自己肯定感、道徳的感情の保存においてはその誰かに見られている、注視されているというものが源泉となり精神の安定へとなっていくのである。

これがひと昔前の慣習であり、流民化した人たちは映画やテレビを見ることで自分たちがその映像の世界の住人のような幻想を抱き、錯覚をもたらす。
これは自分が見ているのではなく、そのような幻想の悦に入ることで映像の行動様式、自分の生活スタイルに合わせようとしていくのであります。

この自分と映像の世界の重なりは自分の経験の代理として働き、自己満足をしていく。しかし、もちろんその代理であるという現実に気づいたときに押しつぶされそうな不安や焦燥感を持ち、本当の孤独へと顛落していくのです。

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