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老害や餓鬼を税金を支払って飼育する日本の若者たち
すべての人間が公平に、平等に
「そうだったらいいなぁ」という幻想におそらくみんながみんな、それはいい事だ!!と賛美してくれるはずです。
しかし、それが叶わないことを知っていて、心の奥底ではしっかりと無理という2文字を心に刻みこみ、そして願わくばそれより下にはならないように、願わくばその他大勢より自分だけがいい思いをしたい
これがみんなの心の中
世の中には話せば分かる人がいて、それはみんながいう、人という種族全員であると
世の中には少し悪いことをして、全員が悔いあらためて反省しよりよく生きる、それが人である
こう云ったものが幻想であるということを知り、モラルだの倫理、道徳の間に挟まれるのはいつの頃からだろうか
正義という病はみんなが罹患し、その病は自分さえ良ければを基本として成立することを大人になるということにする
世の中には自分と同じ考えというより思考力の人間がいて当たり前ではない
一歩外に出ると、境界知能という人間が普通に生きることができるので、健常者として存在するがやはりその知能は劣っているからこそのしんどさを伴い、それが他人への負担へとなる。または他人への不快となる。
似たような人間は例を挙げたらキリがなく、また境界知能ではなく知能はあってもそれを他人を利用することにしか頭を使う方向を向けずに自分の功利を最大化に勤む人間もいる。これも不快だ。
平気で嘘をつく人間、平気で人に危害を加える人間。
それをなんの躊躇いもなくできる人間。
病院でいろいろな患者を見る。診る。看る。
もはや、歳を重ねて元々の性格なのか認知症などによる易怒性の問題なのか
それはわからないし、わからなくてもいい。
いま、自分に向けられて大声を出され、汚い言葉をかけられて、手が出て怪我をすることも。
これが人間なのか。もはや、人という形をした動物であり、家畜畜生と家族以外から見たらそれにしか見えない。
昔、みた海外の自我をなくしたゾンビ。そうだ、それだ。
金曜ロードショーだったか、土曜日に白髪のメガネをかけた映画評論家が映画の解説を話しはじめるあれで、それで観た映画かは思い出せないが……。
これを自分たちが働いて納めているお金で飼育されているのだ。
そして、この国では一番の支出の大きいものである。
年金、医療費……、自分たちが宝くじで当たらないかなどと妄想する金額よりもはるかに大きい金額がそこには投入されている。
誰もが思う本音はこれだ。
「自分の家族ならいいのだけど」
次点は「まだイキイキと健康寿命をまっとうしようとしているなら、まだしも……」とまぁこの辺だろう。
生きているという定義を常に頭によぎりながらも、隣で聞こえるのは粗い咳と痰のからむ咳の音だ。管、管、管。
鼻からマーゲンチューブ。胃瘻。尿管から。鎖骨からのCV。
これで“生きている”のだ。
飼育しているかぎり生き延びられる命だ。
しかし、いざ必要なことをと、飼育しているものに手にかければこれだ。
噛み付いてくる。殴ってくる。つねる。引っ掻く。
嫌になる。
家族はもちろん知っている、これが嫌だから病院や施設に置いておくのだ。
この手の飼育対象を
「もう飼えないんだったら外に逃してきなさい」
昔、母に買っていた亀の餌やりを忘れたときに言われた言葉だ。
そんな事ができないのだ。きっとそれは愛というものから生まれる感情からではなく、法と他人の目に縛られているに過ぎない感情からである。
人間だから、誰もが同じように扱われるものではない。
人間だから、だからなんだ。
そもそも人間なのか?
そういう劣化した人間や飼育にしか見えない家畜という老人
この散文に石を投げる人たちはきっと素晴らしい聖人君主か倫理という壁にわからぬ畏怖をもつ人だ。
そして、正義という、倫理という病に罹っている人だ。
羨ましい。そういう思考停止というのは素晴らしいものだと思う。