【途中-5】各ベイトソンについて
ダブルバインド理論
二重拘束という名前は日本語における誤訳のようなもので、純粋に原語のまま【ダブルバインド】と呼ぶことが錯誤を生まない。
二重拘束とは訳されるものの、この言葉は理論そのもののイメージを縛り、結果「二重拘束」に縛られた理解になる。
本質は、ダブルバインドそのものではなく動けない状態になることで、拘束より纏まることにある。
縛りや束ねより、がんじがらめやまとわりつく、などの意味合いを本質とする。その為二重拘束という日本語だと「二つしかない」かの印象を与える。二重拘束というの日本語で理解すべきではない。
ダブルバインド、と原語そのまま理解すると自然だ。この『ダブルバインド』というネーミングも本質を表したものではない。より一般(通常以下ではない)にわかりやすい部分をネーミングしたに過ぎない。
一般に対してより平易にしたネーミングが『ダブルバインド理論』となる。
※一般よりわかりやすくすることは、子供相手に伝わるように(子供として登場するものの本の中の子供は世間の成人を表してる。あんな大人びた子供を期待すべきではない。大人として。)することで、より平易な話し言葉となる。問いかけだ。そして相互性でやり取り、対話となる。
しかし必ずしも会話ではない。
ダブルバインドでは、キーワード【非言語的コミュニケーション】【(論理)フレームワーク】【家族療法(機能不全家庭)】【ロジカルタイプ(論理階型理論)】【非反抗性】【アンビバレント】である。
ダブルバインドは、社会のダブルスタンダードを子供のうちにすることだ。家族療法に繋がったように精神的虐待を子供にしている時は大体このダブルバインドを子供がされている。
社会ではダブルスタンダードは良くあることでも、家庭内でのダブルスタンダードは子供に対する精神的虐待であり機能不全家庭の基になる。
離婚や別居や両親の不仲自体は精神的虐待にならない。
そこに子供がダブルスタンダードを押し付けられる状態が加わることによる(実際には時間的経過も関わる)負荷で精神的虐待様相になる。
これが子供ではなく、大人や成人の社会においてダブルスタンダードはよくあってそれはダブルバインドとは呼ばない。
呼ぶ場合には、言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションの組み合わせに総意(現実的)が加わりという三つ巴になる。
言語的コミュニケーションのみにてダブルバインドのようになるのは自覚能力がないか弄び(遊び、プレー、拘束)によるものでダブルバインドはそこにない。
これはsadismとmasochismをイメージするといい。これはダブルバインドではない。
非言語的コミュニケーションのみだとダブルバインドは起こらない。
違うと合ってる(合ってる気がする含む)しかなく、そこに逃走か闘争か?がある。
但し違うけど合わせるもある。これは違うことだ。しかし合わせるというスタンダードにすると決めて合ってるにする。
変容とは違うアンニュイ相互性がある。
これは言語的コミュニケーションだと論理学と現実に分かれて重なることは難しく、アンニュイ相互性があまりない。重なるように表現しても実際重なってはいない。
総意(現実的)のみだと、賢いと愚かを省いた意見ときもちになる。
だから賢さは総意に含まれることはない。総意は通常思うほど重要ではない。
一般的なものの見方とは総意ではなく、標準偏差から負を除きそこに標準偏差の外れ値で負ではないものを含めたもの、からの見方でいる。
一般のものの見方は上記から標準偏差を除外した、ものの見方でいる。
詰まるところ通常のものの見方は標準偏差のものの見方であり、賢さはないと云って差し支えない。
★ダブルバインドはおおよそ起こらない
①言語的コミュニケーションのみにおいては、Ⅰ.自覚能力に疎いⅡ.弄び(遊び、プレー、拘束)のみで、ダブルバインドはないとみると分かりやすく本質を捉える。
軽微ダブルバインドと見ることは可能だ。しかし、論理学パラドックスにはまる。言葉遊びにすぎなくなる。
②非言語的コミュニケーションのみでは、ダブルバインドは起こらない。
Ⅰ.違うと違うと理解する。Ⅱ.合うと合うと理解する。Ⅲ.違うと理解すると合わせる(アンニュイ相互性、同調意識)。Ⅳ.合うときに故意に合わせなくする(シンコペーション、独特のリズム感、社交ダンスにおけるリード)。
ダブルバインドのようながんじがらめや、まとわりつくような能動性を失わせることはなく、ダブルバインドは起こらない。
詰まるところ、ダブルバインドは受動的にどれだけなるかというところがみそであって、対応してる、対応出来てるとダブルバインドとはならない。
③総意(現実的)のみだと、Ⅰ.賢さと愚かさを除いたコミュニケーション(majorityの為に理解できる範囲が標準偏差内のみに限られる)。Ⅱ.正当性妥当性は計られない。数量押しになるためだ。
ダブルバインドは起こらない。数で圧して単純に覚え書きのように一つに愚直するから。
これは小さい子供を力士で押し潰すのと同じことだ。しかし社会では稀におおよそ起こる。
★ダブルバインドが起こる
①非言語的コミュニケーションと言語的コミュニケーションの組み合わせ。
「暴力はいけない」と体罰(非言語的コミュニケーション)をする。
ロジカルタイプ(論理階型理論)
《ケルト人は嘘つきだ、とケルト人が言った。》
というかの有名なパラドックスを例にこの理論は読み解ける。これはダブルバインド理論についても読み解ける。
この理論はダブルバインドという状況状態をまとめたダブルバインド理論を、ではその状況状態をどう理解するか?をいとも簡単に明白明確にした理論である。
それがロジカルタイプ、論理階型理論であるのです。
こちらに関してのキーワードは【(メタ論理)フレームワーク】ただ一点のみ。
ただ一点のみにてパラドックスを解決して、このパラドックスをほどいた。
論理学は論理階型理論により解読される。
《ケルト人は嘘つきだ、とケルト人が言った。》
を
《男性は嘘つきだ、と女性が言った。》
という文章があるとする。仮定である。
この男性と女性はどちらも人である。
ということは
《人は嘘つきだ、と人が言った。》
ということでもある。
これは現実的にあり得ます。
しかしこれはパラドックスです。論理学は言葉遊びとしての機能になります。
《人が人は嘘つきだ。》と言ってるからです。
しかし現実にある。
論理学と現実は似て非なるものです。エモーショナルインテリジェンスと常識のように似て非なるものです。
その為、この文章が現実にあります。
文章がパラドックスでも現実にパラドックスは起きません。同じ状況を作ってもです。
文章になくて現実にあるのが【フレームワーク】で、文章が【フレームワーク】が作られてないが現実と文章の違い、差異となります。
大体のパラドックスは論理学なので、現実にすると存在できるアンビバレントな状態になります。
これがダブルバインドと関係し、文章のロジックのまま現実としようとする(俗にいうマニュアル人間のように)から、がんじがらめ、まとわりつくようになります。
配線の絡まりです。ほどけない時はほどけないアレです。
このようなことも精神医学上起きる。
だから精神医学が存在します。
ここから一般化すると
《ケルト人は嘘つきだ、とケルト人が言った。》
は句読点を境に主語にすると論理学でできた文章を現実に出来ます。
《男性は嘘つきだ、と女性が言った。》
も同様です 。
《人は嘘つきだ、と人が言った。》
も同様です。
では、ここからがロジカルタイプの内容になります。
理解の感覚は以上で掴めてるはずです。
さぁ、句読点の前と後でどう言いましょう?
ここで登場するのが【(論理)フレームワーク】になります。
ここで、句読点の前後で違うフレームアウトがあると思うことが出来れば、
《ケルト人は嘘つきだ、》《とケルト人が言った。》
と
《男性は嘘つきだ、》《と女性が言った。》
と
《人は嘘つきだ、》《と人が言った。》
が出来上がります。
《ケルト人は嘘つきだ、とケルト人が言った。》が
《《ケルト人は嘘つきだ、》《とケルト人が言った。》》
になり、
《男性は嘘つきだ、と女性が言った。》が
《《男性は嘘つきだ、》《と女性が言った。》》
になる。
《人は嘘つきだ、と人が言った。》が
《《人は嘘つきだ、》《と人が言った。》》
になる。
外側ほど包括的になっています。
ダブルバインドのような嘘つきのパラドックスが段々と緩んでいきます。
そして、句読点前のフレームワーク、句読点後のフレームワークでロジカルタイプを分けたらパラドックスは論理学が引き起こしたズレであることが理解できます。
《ケルト人が言った。ケルト人は嘘つきだと。》
においても同じです。
フレームワークで分けてより重要を決めてそこからロジカルタイプの濃さを決めていく。
《女性が言った。男性は嘘つきだと。》
《人が言った。人は嘘つきだと。》
上記は同じことを言ってるのですが、主体の部分が「人(1種類の言葉)で二種類ある」のが後者、「人を2種類の言葉で二種類ある」のが前者です。
【(論理)フレームワーク】に分けて、濃さで差異を出し、並べてアンビバレントを薄くしていく。
このように論理階型理論(ロジカルタイプ)が理解の方法論としてとても大切だと思います。
闘争と逃走理論
こちらは文化人類学でのフィールドワークにおいて明白にしたヒトが困難に立ち向かうときの行動様式の理論、モデルである。
これは後のダブルバインド理論に繋がり、ロジカルタイプ(論理階型理論)に繋がったフィールドワーク成果である。
詰まるところ、ヒトは逃げるか戦うか選択するというはなしである。それは問題であったり課題であったり困難であったり解決不可能なことだったりする。
そしてそれが根元的に原始的な行動である、としたから理論となった。原始的ではなく現代だけなら理論となっても社会学であるけど、原始的である行動様式が現代に至るまで不変で普遍であることから理論として成立したのだった。