『暇と退屈の倫理学』を読んで
「人間は、退屈に耐えられないところからすべてがはじまる」。立川談志がそう言ったと、たしかにメモしています。本書によればパスカルをはじめ、先人たちもどうやら同じことを考えていたようです。
「ハイデガーの退屈論をユクスキュルの環世界の概念に当てはめてみると」であるとか「ラッセルの退屈論はここが甘い」などといった、いわゆる論文的なアプローチ。
「暇」と「退屈」といった抽象的な対象に対して、巨人の肩に乗りつつ、ときに指摘したり、理論を合わせながら紐解いていきます。とってもおもしろい。
Amazonの記録では2017年に本書を購入してましたが、ずっと寝かせていて、このご時世なので引っ張り出しました。人類学、歴史、経済学、倫理、そして哲学がやはり多め。語り口は柔らかいですが、正直3年前だったら読めていたかわかりません。
要約をするとものすごく長くなるので、響いたり象徴的と感じたりしたところを順番にクリップし、かんたんにメモをしていきます。
パスカルの出発点
人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。
パスカル『パンセ』ってこんな語り口なんですね。ほんと談志のようです。いや、立川談志はパスカルを読んでいた?冒頭の言葉は自分のメモ帳に書き込んだものでして、確信はないのですが、ひとまずご紹介しました。
ちなみにパスカルによれば、人間は「欲望の対象」と「欲望の原因」を取り違えています。ウサギ狩りをしようとする人に「はいどうぞ!」とウサギを渡するとおそらくムッとする。そう、欲望の対象=ウサギだけれど、実際は「欲望の原因=気晴らし」を求めているのです。
退屈の反対
ひと言で言えば、退屈の反対は快楽ではなく、興奮である。(略)退屈している人間がもとめているのは楽しいことではなくて、興奮できることなのである。(略)だから今日を昨日から区別してくれる事件の内容は、不幸であっても構わないのである。
ニーチェも「人は退屈に苦しむのだったら、むしろ、苦しさを与えてくれる何かを求める」と言っている。人の本質であり、さまざまな現象を説明できそう。ここをはき違えると大きな間違いが起こりうる、そう感じました。
定住革命
定住革命は暇という客観的条件を人間に与えた。それによって人間は、退屈という主観的状態に陥った。このように説明できるだろう。
まず、暇と退屈のそれぞれの定義は上記に基づいてとらえます。暇=客観的。退屈=主観的。
で、本題です。遊動生活から定住生活への移行。これが革命的だった。
定住生活は暇を与えるどころか、その生活以降に生まれた変化(たとえば食料事情やゴミ出し、墓の概念など)が多大な影響を与えているという説。『若い読者に贈る美しい生物学講義 感動する生命のはなし』における「一夫一妻仮説」とも通ずるような。おもしろい。
ハイデガーの発見
ハイデガーが退屈の第二形式(暇がないのに退屈している)を発見したことの意義は本当に大きい。これはどれだけ強調しても強調しすぎることはない。
具体例として出たのは退屈なパーティー。パーティーは退屈だが、同時にそのパーティーは気晴らしでもある。つまり、退屈と気晴らしは独特の仕方で絡み合っている!
ボードリヤール的にいえば、いくら消費を続けても満足はもたらせないが、消費には限界がないから、それは延々と繰り返される。この文脈にのせると、気晴らしをすればするほど退屈になるということ。で、ハイデガーのいう恐ろしいもう一種類の退屈は、「なんか退屈だ」という感覚的なもの。説明すると長くなるので省略します。
結論は、本書の通読行為そのもの
いや、そうだと思います。暇や退屈について何も考えずに生きることはできるし、もしかしたらそれが幸せかもしれない。すこしでもそういった対象に思いをはせてしまっならその感覚は不可逆、元には戻れない。
だったらそういった人がとらえてきた悩みや考えてきプロセス、ロジックを知るだけでも意義はあるだろう、著者はそう主張しているように感じます。
客観的な暇への向き合いとしては、相対的ではなく内側から楽しみを見出すこと。原始的で本能的に。そして退屈という主観の感覚をメタ的に把握すること。このあたりが大事だろうと思ったところです。
というわけで以上です!