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『陰翳礼讃』(谷崎潤一郎)を読んで
谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読みました。
日本家屋が持つ構造や薄暗さについて、西洋や機械と比較しながら褒めていく内容です。
二項対立が徹底しているので、難解な内容ではありません。なかでも「間」と「芸」についての言及は、自分のなかでは上岡龍太郎を彷彿させました。
“元来われわれの音楽は、控え目なものであり、気分本位のものであるから、レコードにしたり、拡声器で大きくしたりしたのでは、大半の魅力が失われる。”
明るいよりも暗い方がいい。機械よりもナチュラルの方がいい。五感であり、五官であり、“そのまま”を大切にしようと。
大きいものよりは小さい方がいい。多いよりは少ない。間や余白を重んじる日本の美意識への言及です。
話は続きます。
“話術にしてもわれわれの方のは声が小さく、言葉数が少く、そうして何よりも「間」が大切なのであるが、機械にかけたら「間」は完全に死んでしまう。”
「間」とは何か。ぼくは間を空気と言い換えられるのではないかと考えています。
上岡龍太郎は、笑いとは「空気」であり、演者のはいた空気を観客が吸い、その一体感が笑いであったと言います。そこにテレビという媒体が出現し、空気を寸断してしまった。
テレビは画面として演者を映すことはできても、空気を送り出すことはできない。これが定点カメラの芸がどこかおもしろく感じられない原因だと思います。
もちろんいまのテレビはカット割りやカメラワークでなんとか臨場感を伝えるための工夫を凝らしています。
谷崎潤一郎は「機械にかけると間は死んでしまう」と言い切っていますが、テレビを含んでいるかはわかりません。ただ直観としてそういう危機感を持っていたのだろうと推測します。
芸とは、間とは何か。そしてその価値ある芸能を、最大公約数として多くの方に“伝える”ことの意義はどこにあるのか。
音楽であればたとえばドーム公演のように5万人に“届きます”。ただし、笑いといった芸はそもそも大きい箱では“届かない”という性質を持っています。
だからこそ、リアルで届かなかった人に“伝えたく”なる。
やっぱり生がいちばんだよね。このように言い切ってしまえばおしまいなのですが、届ける仕事をしている手前、もうすこし自分自身、考えてみたいテーマであります。
というわけで以上です!
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