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『五輪書』(宮本武蔵)を読んで

自身で書かれた原本は現存していないものの、自己の体験のみで書かれた日本思想史上でも稀有な一冊。読んでみると宮本武蔵の実在を感じる他にありません。「こんな内容は本人にしか書けない」と。

宮本武蔵は「一度も負けず」に実戦から足を洗い、人生の後半はその一切を修業・鍛錬に捧げました。禅も取り入れていました。自身の最期を悟った宮本武蔵は、洞窟に籠り、遺書をしたためるように『五輪書』を完成させます。

『五輪書』は思ってた以上に実践的。目的は剣術で必ず勝つこと、そのための武芸。太刀の寸法を決めず、長いものと短いものどんな武器でも勝ち得る二刀一流の道。

もちろん内容は、刀の握り方などに終始しているわけでもありません。印象として、たとえるなら一流の画家による芸術論・芸談。描いてる画家だから説得力があるし、心がまえもあれば、技巧も説くわけです。

たとえば敵を押し込もうとするときに、敵が打ち返してくるところを、下から敵をつくように刀をあげ、かえす刀で打つ!早い拍子で「喝咄」と打ち、「喝」と突き上げ、「咄」と打つ呼吸であると。技の内容こそちがうけれどネーミングの韻からして「るろ剣」斎藤実の「牙突」を彷彿させます。

彷彿といえば、一対多敵の場合の方法です。「どの敵が先に、どの敵ぐ後にかかってくるか、その気配をよく見抜いて、先にかかってくるものとまず戦い、全体の動きに目を配り」なんてありますが、ぼくなかでこの所作は、H×Hにおけるゼノ&シルバと一戦を交えたクロロそのもの。

また、冒頭には宮本武蔵の言葉に対する意識が見受けられます。『五輪書』を書くにあたって、自らの経験だけをストレートに記すため、仏法、儒教、道教、軍記、軍法の故事を用いないと宣言しています。

言葉へのこだわりは本書の中にもいくつか出てくるので二ヶ所をクリップします。

「打つ」と「あたる」のちがい

打つといふ事、あたるとふ事、二つ也。打つといふ心は、いづれの打にても、思ひうけてたしかに打つ也。あたるはゆきあたるほどの心にて、何と強くあたり、たちまち敵の死ぬるほどにても、これはあたる也

「打つ」とは意識的な所作。「あたる」とはつきあたったという心持ちであって仮に敵を死なせてもそれは「あたった」に過ぎない。

「観る」と「見る」のちがい

観見二つの事、観の目つよく、見の目よわく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。(略)目の玉うごかずして、両わきを見る事肝要也。

「見る」は目もとだけで見ることであり、「観」というのは心で見ること。観れば目玉を動かさずに相手をとらえられる。アプローチは別となるけれど「観」と「見」といえばシャーロック・ホームズの「観察」と「見る」の話を思い出します。

本書のラストには「独行道」という二十一箇条が記されています。とてつもないストイックさであり、死ぬすこし前にしたためたようです。小説の主人公のような人物が室町から江戸時代にかけて実在していたことを噛みしめながら。

というわけで以上です!


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