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『ハックルベリー・フィンの冒険』(マーク・トウェイン)を読み始めて
『ハックルベリー・フィンの冒険』を読み始めました。
上巻を終えた時点なので「読み始め」。上下巻の構成であるのを知らずに読み進めており、「ページが足りないぞ!」状態。まだ先を読めるのはちょっぴり得した気分。それほどにも、おもしろいのであります。
まず驚くのが読みやすさ。作家の筆力はもちろん、翻訳(読んだのは光文社ver)の妙を感じます。
セリフを入れ込むのに、地の文とカギカッコの使い分けがすばらしく、とにかく読ませる文章。一人称の語りで進んでいく構成というのもあって、スラスラいける。
家出が冒険となるロジック
小さい頃、冒険には憧れました。なかにはプチ家出のような非日常的な体験をした方もいるかもしれません。
ただ現代において良い意味でセーフティネットが働くので、純度の高い冒険は、そうかんたんではない。
本作は、マーク・トウェインの原体験あっての物語のようですが、現代だからこそ、非日常のなかにあるリアルをより味わえるのではないかと思いました。
物語の舞台は、18-19世紀頃のアメリカ。荒くれ者の父親とひとり暮らしていたフィン。父親は行方不明、そこで別の家に預けられ学校にも通うようになります。
ただ、フィンは居心地が悪かった。そんなとき父親が戻ってきてしまいます。
父親の暴力、預かり先へ逃げたとしても締め付けの生活。どれもイヤなフィンは、自分が殺されたように見せかけて、自由を求めて脱出します。
ふつうなら家出ですが、舞台は広大なアメリカ、しかも通信の発達もまだない。村から出たらかんたんには見つからない。冒険せざるを得ない動機がそこにあります。
さらに冒険へ出発するタイミング(殺されたと見せかける)から、主人公のフィンが地頭がよく、生きる術を心得ているのは読者に伝わっています。
冒険を通じてフィンはさまざまな人に出会しますが、あまりにも上手な嘘エピソードでその場を凌いでいきます。そんなに違和感がないのも、おもしろく読みました。
もっと知りたくなったのは、マーク・トウェインがこの小説に込めた想いです。
たとえば前作では大金を手に入れたはずのフィンはお金には無頓着、執着するのはむしろ父親。
あるいはキリスト教的な抑圧への反発、欺瞞の指摘。大人たち、しいてはアメリカ社会に対する思想があったのか。
こういうアナーキーというファンキーなかんじ、好きでございます。
というわけで以上です!
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