『光あるうち光の中を歩め』(トルストイ)を読んで
トルストイの思想を示した短編小説『光あるうち光の中を歩め』。ある人の「人生の一冊」ということを聞き、読んでみた。
トルストイと幸福
トルストイ自身のキリスト教観がもろなので宗教色は強い。けれど、そこに普遍性であるとか共感できるところも、きっと人それぞれ見出せると思います。
『だが、俺は浮世の生活をつぶさに経験したけれど、何一つ発見しなかった』
豪商ユリウスの嘆きの言葉です。彼の幸福の基準は外にあった。欲望や野心、名誉。
で、それらを手に入れたけどユリウスは何一つ発見できなかったといいます。それはなぜか?
ここに現代にも通ずる話があります。
もしユリウスに、お前はここ数年間幸福だったか、不幸だったか訊ねたとしたら、彼は返答に窮したにちがいない。要するに、彼は非常に多忙だったのだ!彼は一つの仕事一つの快楽から、他の仕事、他の快楽に移っていった。(中略) 飽満の倦怠が混入し、何かに中毒されないような快楽も一つもなかった。
怪我をして入院したら、議員になり損ねるわ、その間に愛人に逃げられるわ、奴隷に家の宝石をパクられるわ。もう、さんざん。一生懸命、忙しいなか仕事して手に入れたのに。
外側にある幸福が逃げていったときに、ふと気がつくわけです。
「俺ってぜんぜん幸福じゃねえ!」
最終的にユリウスは、原始キリスト教の信者であるパンフィリウスのもとへ駆け込み、その道に入ります。
仕事リタイアした方が蕎麦打ちに目覚めるのとはすこしちがいますが、そこには普遍性があるし、ユリウスに感情移入するのは難くはありません。
当時は古代ローマ時代、キリスト教は弾圧されていました。その道に入るとは、出家するように生活を捨てることを意味します。
読んだイメージとしては、社会主義的です。隣人愛が際立っていて、私有財産や私欲のいっさいを捨て、そのコミュニティのなかで支え合って生きていく。
要するに、ユリウスは幸福の基準を“原始キリスト教”に見出すんですね。
ある種、極端なユートピア的な世界観はトルストイ運動そのものであり、平和主義アナキズムともつながってきます。ここにトルストイの思想が色濃く出ている。
ユリウスの行動や、トルストイの思想に対してよいもわるいもない。こういうスタンスです。
ひとついえることは幸福の基準は外ではなく、内に持っておきたいということ。偉人の教えもあくまで内の基準を支える枝葉。
ちなみにこの小説は基本、対話形式で成り立っています。キリスト教徒となったパンフィウスと、はじめはまったく信じないユリウスの間で交わされるやりとり。
対話の後、ユリウスは2度ほどその世界に走りそうになるが、謎の医師によって止められる。最終的には自らの意志でパンフィリウスのもとへ、という着地。
終盤まではまったくもってフラット。それぞれの主張が飛び交うのだけど、考えのちがいだから違和感もないし、ロジックの組み方が上手いなあと。
というわけで『人生論』など小説以外でのトルストイの考えも知りたくなりました。
以上です!