勇気を出して開けた扉の向こうに
「日本語、忘れそう」と夫に話す。
冗談ではあったが事実、昼間は誰とも話さない日が続いていた。直近で夫以外の誰かと会話したのはいつだっただろう?すぐには思い出せない。
あの頃、地元を離れて知り合いのいない土地で私は初めての育児をしていた。
当時の感情を振り返るとき、私の瞼には北陸の冬空が浮かぶ。
約10年前。まだ少し肌寒い3月初旬に私たち夫婦は結婚式を挙げた。互いの地元である東海地方で。
そして式の翌週、なんと夫の転勤が決まった。勤務地は石川県。それからは式の余韻に浸る間も無く新年度に間に合わせるために怒涛の引っ越し作業が始まった。
初めて暮らす石川県は驚きの連続だった。縦向きの信号機、洗濯を干す「サンルーム」という専用部屋、回転寿司のクオリティ。東海と違う点を見つけては夫婦2人で楽しんだ。
しかし、生活は子どもが生まれたことで一変する。
長男は朝晩問わず、よく泣く子だった。当然まとまった時間、寝てはくれない。毎日が寝不足状態。睡眠不足と比例して心の余裕もなくなっていった。
「なんで泣き止んでくれないの?」
泣き続けるわが子を見ると不安になった。初めての育児にとにかく自信がなかったのだ。
今なら分かる。赤ちゃんは特に理由もなく泣くこともあると。そして、ちょっと泣いたくらいで慌てる必要がないことも。
でも当時は不安で仕方なかった。
合わせて孤独だった。家族も友達も近くにいない。昼間一緒にいるのは、まだ言葉を話さない我が子だけ。
そして「今日も昼間、誰とも話さなかった」と夫が帰宅するたびに感じるようになった。
余裕のなさから、腕に抱く小さな小さなわが子を愛おしいと思えない日があった。そんな日は自身の感情を責めた。
ちょうどその頃、赤ちゃん訪問として市の担当保健師が自宅に来てくれた。
「思いつめなくても大丈夫ですよ。赤ちゃんは泣くものですから」担当の女性は優しく私に言った。ボサボサ頭と目の下のクマから心境を察してくれたのかもしれない。
「旦那さんに預けて1人時間を作ったり、支援センターへ行って誰かと話してみるのも良いかもしれませんね」と、彼女は玄関で話して帰って行った。
翌週。
私は早速支援センターへ足を運んだ。
そこには子どもが喜ぶオモチャが沢山あった。乳児エリアが分けられていて安心して遊べそうだ。同じ月齢の子を連れたママ達もいる。
【来て良かった】
そう思った。しかしそう感じたのは最初の数分だけ。息子が大声で泣き始めたのだ。目新しいオモチャや、慣れた抱っこ紐であやすも一向に泣きやむ気配はない。結局、私はグッタリしてしまって30分もしないうちに家に帰ることにした。
ニコニコ遊ぶ周りの赤ちゃん、整った髪型や服装をしている綺麗なママたちが眩しく見えた。羨ましかった。
そして北陸は冬本番を迎える。灰色の分厚い雲から連日雪が舞い落ちるようになり私は慣れない雪道運転が怖くて、ますます外出しなくなっていった。
冬は終わり春がきた。
3月、またも夫の転勤が決まる。地元である東海地方に戻ることになったのだ。
引っ越し作業中、この半年を振り返りながら私は強く思った。春が来たから今度こそ子どもを連れて沢山外に出るぞと。
転入先の市役所で子育てカレンダーなるものをもらった。市で開催される子育て関連イベントの内容や日程がまとめられたものだ。家に帰り、早速卓上カレンダーに赤ペンで予定を書き込む。
そして4月はじめ。新年度最初の「子育てサロン」(子育て中の保護者と子どもが交流できる場)に足を運ぶことにした。
息子を抱っこして会場に着く。
しかし、部屋の目の前まで来ているのになかなか扉を開ける勇気が出ない。
初めて行った支援センターでのことを思い出していた。眩しく見えた他のママたちの横で大泣きする息子を抱き、呆然と立ち尽くす自分の姿を。
でも! このままでは何も変わらない。
変わりたい。抜け出したい。今の孤独な育児から。
エイヤッと、勢いで扉を開けた。
扉の向こうには既にたくさんの親子の姿があった。「こんにちは。初めて来て下さったかたですか?」名札を付けたスタッフの女性が、こちらに声をかけてくれる。
「はい」と小さな声で返事する私。
案の定、近づいて来てくれた女性の顔を見て息子はすぐに泣きだした。
やっぱり。
でも、その女性は全く気にする素振りもなく「初めての場所だから緊張しちゃうよね」と言って受付に誘導してくれたのだ。
「県外から転入されてきたんですか?」
「お子さん連れの引っ越し大変でしたね」と声をかけてくれる。
女性の対応と言葉に、今までピンっと張っていたものが緩んでいくのを感じた。
「良ければ息子さん抱っこしてもいいですか?」泣き続けている息子を見て、女性は続けて言った。
「このサロンにいる時間は、スタッフや他のママにも頼りながら力を抜いてゆっくりして行って下さいね」と。
ここでは1人じゃない。
誰かに頼って良いんだ。
また、フッと肩の力が抜ける。
女性は「今日初めて来てくれた〇〇君だよ」と私に代わって抱っこした息子を別のスタッフにも紹介した。初めて会ったとは思えないほどの安心感に包まれていった。
女性が息子をあやしてくれたおかげで私は他のママと、ゆったり話をすることができた。
【夫以外の人とゆっくり向き合って話すのは本当に久しぶりだ】
夜なかなか寝れずに寝不足なこと
転入前の石川県でのこと
間もなく始まる離乳食のこと
子育て中のママたちと、育児の不安を順番に話した。「わかるわかる!」と互いに同じようなことに悩んでいるのが分かって心からホッとする。
スタッフの女性は息子を抱っこしながら私たちの様子を近くで見守っていてくれて、会話が一段落する頃に息子を連れてきてくれた。「久しぶりに赤ちゃん抱っこできた〜。ありがとう」と言って。
「こちらこそ、ありがとうございます」
返事する自分の声が思ったより大きくなって驚いた。
その後は、円になっての自己紹介や絵本の読み聞かせ、手遊びの時間があり、最後はおやつタイムまであった。
時間はあっという間に過ぎ、「また来て下さいね」とスタッフの女性に声をかけられて部屋を後にした。
【来て良かった】
心からそう思えた。
それ以降、月に2回の子育てサロンに私たちは毎回参加するようになった。
最初は大泣きだった息子も何度か訪れるうちに場所や人に慣れてきたようで、少しずつ楽しめるようになってきた。
何度か話すうちに仲良くなったママと連絡先を交換し、子育てサロン以外の日に公園へ一緒に遊びにいくようにもなった。
気づけば、孤独と不安でどうしようもなかった日々からは少しずつ抜け出せていたように思う。
サロンに通い始めて2年が過ぎようとしていたある日、初めて私に声をかけてくれたスタッフの女性が「3月いっぱいでスタッフを卒業するの」と話してくれた。「4月から働き始めるから」と。
「えっ!?」少しショックで、直ぐに続く言葉がでない。
【これからはサロンで会えなくなるのか】と、寂しさがこみあげる。
そんな私に「ちくわさん、ここのスタッフになってみない?」と女性は言った。予想外の一言だった。私が子育てサロンのスタッフ……。
他にも数名、声をかけていることや、その中には私の友達もいると、女性は教えてくれた。
今まで女性がしてくれた温かな関わりや、子育てサロンに来てからの出会いを思い出す。
「やってみたいです」
気づけば私は力強く返事をしていた。
いよいよ、子育てサロンスタッフとしての活動が始まった。サロンの日には仲間のスタッフと協力し合って絵本の読み聞かせや手遊び、おやつの準備をする。
準備に動いている時には、みんなで互いの子どもの様子を見合う。みんなで見守っている、そんな優しい空気が心地良かった。
新年度。
今年も県外からたくさんの転入者がやってきた。緊張した面持ちでサロンにやってくる親子を目にすれば、あの日の自分を思い出す。
サロンに初めて訪れたあの日。スタッフの女性がしてくれたように、ほっとできる時間や空間を作りたい。
きっと、勇気を出して来てくれただろうから。緊張して明けた扉の先に優しい世界が広がっていると良い。そう願わずにはいられない。
「こんにちは。初めての方ですか?」
今度は私が笑顔で声をかける番だ。