コロナ禍に読む「アンダーカレント」豊田徹也
コロナによる外出自粛要請のせいで、家で過ごさなくてはいけない時間が増えることがストレスだ、と先日友人が話していた。彼女は健康のためにヨガマットを購入したらしく、意識的に運動を心がけていてえらいな、と感心する。わたしはヨガだとベッドでゴロゴロ屍のポーズが得意である。
私はもともと、ひとりの時間が好きで、家でじっとしていることがあまり苦にはならないタイプなので、外出自粛要請が出ていようがいまいが通常通りである。休日はたいてい不要不急の外出は避けている。特に予定の入っていない日は、家に食料が無くなって飢えそうだ、というときにしぶしぶ夕方スーパーに買い出しにいく程度である。
最近はSNSのタイムラインに #おうち時間 #stayhome といったタグつきで各々工夫を凝らした素敵なおうち時間を過ごしている様子がながれてくるのをみると、家からほとんど出ずに過ごすことってこんなに「特別なこと」だったのか!と普段の私がいかに出不精でだらしのない「おうち時間」をすごしてきたかということに気づかされる。
「おうち時間」を楽しく過ごそう、というキャンペーンが盛んな一方、コロナによる外出自粛は、慎重にならなければならない問題が多く孕んでいることは言うまでもない。先日コロナ関連で、とある記事を目にしてとてもやりきれない気持ちになった。都内のとんかつ店で火災があり、開催延期になった東京オリンピックの聖火リレーのランナーに選ばれていた店主が「火災で死亡」したと書かれていた。しかし記事を読むと自ら命を絶ったのでは、と思わずにいられない内容だった。コロナの感染拡大防止のために、はじめは営業を縮小しながらも店を続けていたようだが、命が第一だ、と言われると店も開きにくい。消毒のアルコールも手に入らない。補償は出ないのに、店を閉めてどうやって暮らしていけばよいのか。浅はかな推測しかできないが、そんな葛藤があっただろうか。こういうニュースを知るとどうにも心がざわついてしまう。あの夜の店主はどんな思いだったろうか。私に、本人以外に、今となっては知りえるはずがない。
そんなやや波立つ心持ちのなか、何気なく『アンダーカレント』という漫画を読み返していた。高校生くらいの時だろうか、大型本屋の漫画コーナーで表紙の雰囲気が気に入り買って読んでみたのが始まりだが、あれ以来ずっと手元にある。大学入学時や卒業後の上京の引っ越しのたびに本・マンガの数を減らしていった(多くは実家送り)が、この漫画は新しい場所にももっていかなければ、とつい選んでしまう。
深い藍色のカバーには、女性が目を閉じて仰向けに横たわっていて、
表紙をめくると、タイトルである「アンダーカレント」を英和辞典で引いた意味が載っている。
――undercurrent
1.下層の水流,底流.
2.((表面の思想や感情と矛盾する))暗流
2は、人間の意識の底にあるつかみきれない暗がりの部分といった意味だろうか。物語の内容とよくリンクした秀逸なタイトルだなあと思う。読者は、ふと誰の内にも生まれうる暗流を静かにのぞき込むことになる。
ある日、突然夫に失踪されてしまい家業の銭湯をしばらく休業していた「かなえ」のもとに、物静かでワケありそうな「堀内」が銭湯を手伝いにやってくるところから物語がゆっくり動きだす。
夫はなぜ急に姿を消してしまったのか?夫のことをどれくらい「わかって」いたのだろうか?わたしは、夫にどれくらい私のことを「わかって」もらっていたのだろうか?そもそもひとをわかるってどういうことなのか――
そういう主人公かなえの混沌とした心の渦の中に、昔からよくみる夢のような記憶が、ある出来事をきっかけに浮かび上がってくる。
こうしてストーリーをかいてみるとやや重たい雰囲気の漫画かな?と思うかもしれないがところどころ和やかなシーンもあって読みやすい。かといってお気楽で安易な解答をおしつけられることもない。
私は小説でも映画でも、すっきりした答えや結末を与えられる晴れやかな物語よりも少し困惑するくらいの作品のほうが、好みである。
「アンダーカレント」を読むと、ふと覗き込む物語の水面に自分の顔が映し出されたようではっとするような部分もある。それは、この「わからない」ことだらけの現実を生きていくなかで、誰もがどこか心に引っかかるような罪の意識(大きい小さいに拘わらず)を抱えざるをえないからかも知れない。そのことを、この漫画は静かに水面を潜っていくように描き出せている。読みながらわたしは、そういう意識の底に埋もれてしまいそうな罪とどう向き合ってきただろうか、と考えてみたりする。
先日アンダーカレントを再読して、以前読んだ時にはそれほど気にかけていなかった主人公かなえと堀の会話がどこかひっかかった。かなえが朝食をとりながら新聞記事をめくって、人身事故の記事をぼうっと眺めているシーンである。
かなえ「ニュースや新聞の記事になる自殺とならない自殺の差って何なんでしょうね」
堀「は?」
か「自殺する人のほとんどは報道されないわけでしょう」
堀「そうですね 今は一日100人近く亡くなってますから報道しきれないでしょうね」
か「有名な人とか特殊な死に方だけってわけじゃなくて普通の……普通ってこともないけど飛び込みとか首吊り自殺なんかも記事になるでしょう」「そうすると報道される人とされない人の違いがわからない……」
堀「死ぬ状況だけじゃなくてその理由が特殊だったり悲惨だったりすることが考慮されているのかもしれないですね」
か「理由……でも人が死のうとする理由に特殊とか普通とかあるのかな……」
堀が朝食を食べ終え後片付けをしている間も、かなえはじっと記事に目をおとしている。
死にたいと思ってみることと実際に行動に移すまでの間に一体どのくらい高い隔たりがあるだろう、どんな思いでその塀を上るのだろう。わからない、本人にしか、越えようと思っている人にしかきっとわかりっこない。彼らには、心の底にどうしてそういう暗流が生まれなければいけなかったのか。私たちの内には絶対に生まれえないものだろうか。
ふと、4月1日にyoutubeにアップされた折坂悠太の「トーチ」という、この頃よく聴いていた曲が頭をよぎる。今のコロナ禍の状況とややリンクするような歌詞でちょっと驚くが、作られたのはコロナが深刻化する以前とのこと。ぜひ聞いてみてほしい。
【折坂さんが作詞、butajiさんが作曲した楽曲で、台風などの自然災害を題材に制作された。MVは山本啓太(台風クラブ)さん】
これを書きながら、偶然この曲が思い浮かんでやや驚いたが、この曲のMVが、ちょうど「アンダーカレント」の表紙やジャズアルバムundercurrent(※1)のジャケットとイメージが被っていたからだろうか。
この「トーチ」のMVでは、スーツを着た男の人が水中に飛び込み、目を閉じたまま水中の暗流のほうへゆっくりと沈んでゆく。
――――――――
街はもう変わり果てて/光も暮らしもない夜に
お前だけだ その夜に/あんなに笑っていた奴は
壊されたドア 流れ込む空気に/肺が満たされてく 今何も言わないで
お前だけだ あの夜に/あんなに笑っていた奴は
私だけだ この街で/こんな思いをしてる奴は
絞り出した 一言は/遠くの国の言葉だった
いませんか この中に/あの子の言うこと わかる者は
倒された標識示す彼方へ/急ごう 終わりの向こう
ここからは二人きり
―――――――――
この曲を聴いているとき、私は「お前」にも「わたし」にも「あの子」にもなりうる、という気がしてくる。
自分たちの力ではどうしようもない大きな力に巻き込まれて、被害にあってやりきれない思いをしたり、思いがけず自分が加害者になって罪を負ったり。混沌としたわからないことだらけの今、何が正しいことなのか焦るあまり誰かを傷つけてしまったり。誰とも分かり合えないという気持ちに襲われたり。
「みんなつらい時なんだ」とか「わかる」という言葉は、簡単である。
わからなくてもいい。それでも、誰かに寄り添いたい、寄り添ってもらいたいという時に何ができるだろう。トーチを灯して、暗流のほうに光をかざし、じっと暗がりに目を凝らすことができるだろうか。それは、明々と燃えたぎる立派で大げさなものでなくてもいいのかもしれない。
「アンダーカレント」のラストシーンの向こう側で、堀とかなえが互いに与え合えるであろうのも、そういうささやかな灯りだろう。
互いのすべてが照らし出せなくても、暗闇のなかに浮かび上がる微かな光のほうへ進んでゆけるかもしれない。
ややポエムっぽくなってしまったが、「絆」が大事とかそういうことを言いたいのでは全くなくて、互いの個を認め合ってじっと理解しあおうと耳を傾けあうことが必要なのではないかなと。
「みんなで前を向いて頑張れば」だとか「人と人との絆があれば、目に見えないウイルスへの恐怖や不安な気持ちに必ずや打ち勝つことができる」だとか、そういう表面的な想像力のないことばは虚しい。「みんな」の圧力との葛藤のなかで生まれる苦しい思いに気づかないふりを、一体いつまでできるだろうか。
――――――――
※1 アンダーカレントを英語undercurrentで検索すると、1962年に発表されたビル・エヴァンスとジム・ホールのジャズのアルバムがでてくる。ビル・エヴァンスがジャズベーシストのスコット・ラファロを交通事故で亡くしてしまった翌年に世に出た「傑作」。このアルバムのジャケットにも似たようなイメージ(ワンピースを着た女の人が水中に浮かんでいる)が使われてることからも、おそらく作者はこのアルバムから少なからず着想を得ているのかな。↓
余談:「アンダーカレント」は2004年から1年程かけて月刊アフタヌーンで連載され、2005年11月には講談社から単行本が発売されている。著者の豊田徹也さんは非常に寡作らしく、世に出ている単行本はこの「アンダーカレント」のほかに、「珈琲時間」(2009)「ゴーグル」(2012)の計3冊のみである。豊田徹也さんの中編漫画をもっとよみたい、という欲が募るのだけれど、う~ん、量より質だね。
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