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大浦天主堂|観覧ルート #15~21

大浦天主堂の観覧ルートをイラストと写真でご案内します。案内図の番号は、記事内の見出しの番号に対応しています。
これからご訪問の方は参考にしていただけますし、ご訪問を終えた方には追体験としてたのしんでいただければ嬉しく思います。

番号順に、記事をわけて公開してまいります。


大浦天主堂境内図

15.大祭壇(主祭壇部)

聖書で語られる神の国は、透き通るクリスタル、色とりどりの宝石類で装飾された城壁に囲まれた都、それらが様々に光輝くイメージをもたらします。
多彩色のガラスで構成されたステンドグラスは、地上に天国が創出されたかのような印象を与えることから、ステンドグラスを用いた窓がつくられるようになりました。
大浦天主堂の主祭壇奥にはめ込まれたステンドグラスは、聖堂建立を記念し、フランス・マン市のカルメル修道院から寄贈されたものでした。十字架にかけられたイエス・キリスト、聖母マリア、使徒ヨハネとマグダラのマリアが描かれています。
1945年、原子爆弾の爆風によって大破し、戦後の復旧工事が行われた際にステンドグラスの修復もなされました。当時の文部技官・森政三氏が、残存するガラスの破片や写真を調べ、指示つきでパリのロジェ商会に発注したものです。

大祭壇

16.ステンドグラス(十字架上のキリスト)

聖書で語られる神の国は、透き通るクリスタル、色とりどりの宝石類で装飾された城壁に囲まれた都、それらが様々に光輝くイメージをもたらします。
多彩色のガラスで構成されたステンドグラスは、地上に天国が創出されたかのような印象を与えることから、ステンドグラスを用いた窓がつくられるようになりました。
大浦天主堂の主祭壇奥にはめ込まれたステンドグラスは、聖堂建立を記念し、フランス・マン市のカルメル修道院から寄贈されたものでした。十字架にかけられたイエス・キリスト、聖母マリア、使徒ヨハネとマグダラのマリアが描かれています。
1945年、原子爆弾の爆風によって大破し、戦後の復旧工事が行われた際にステンドグラスの修復もなされました。当時の文部技官・森政三氏が、残存するガラスの破片や写真を調べ、指示つきでパリのロジェ商会に発注したものです。

ステンドグラス(十字架上のキリスト)

17.プティジャン司教墓碑

キリスト教の伝統の一つとして、死者や聖遺物への祈りがあり、そのため祭壇のそばに墓所が設けられることが多かったといいます。また、祭壇を囲む壁は初期キリスト教徒の墓所をあらわすとも考えられていました。
プティジャン神父の墓所(⑬)の上に位置する聖所の壁面には、プティジャン神父の略歴が刻まれた墓碑がはめ込まれています。
石板碑文にはラテン語と漢文でプティジャン神父の略歴が記されています。

【ラテン語碑文】
Hic quiescit,expectans beatam spem et adventum gloriae Salvatoris nostri Jesu-Christi,Corpus Illustrissimi et Reverendissimi Bernard.Thad.Petitjean Episcopi Myriophitensis,Vicarii apostolici Japoniae Meridionalis.
(以下省略)
【漢文碑文】
美利阿斐提主教伯爾納鐸迫弟譲氏以教皇之命監督日本教會十八年干茲以天主降生後千八百八十四稔即明治十七年拾月七日薨年五十四葬在於此以待吾主再来云

18.二十六聖人殉教図(油絵)

1869年、セシル・マリー=トーレル(C.THORE)という女性の画家によって描かれた、P300号(横2910mm、縦1970mm)の大型の油絵です。
同じ画家による作品に『長崎の元和の大殉教図』があり、現在は大浦天主堂 キリシタン博物館に展示されています。
イタリア・フィレンツェの画家であると伝えられてきましたが、2019年にセシル・マリー=トーレルはフランス人であることが判明しています。
1945年に浦上に投下された原子爆弾の爆風で受けた損傷は、戦後の修復工事の際に損傷部・汚損部の修復が行われています。

日本二十六聖人殉教図

19.聖母子像(信徒発見のマリア像)

イエス・キリストの母で、ナザレのヨセフの妻のマリアは、ある日天使ガブリエルから精霊によって身ごもったことを告げられました。新約聖書に書かれているこのエピソードを受胎告知と言います。
この受胎告知の場面を描いた芸術作品の多さは、その崇敬が多大なものであることを物語っています。
多くの場合、聖母マリアは青色の衣をまとい、純潔を表す白百合などと共に描かれます。
大浦天主堂の聖母子像は、創建当時、ジラール神父によってフランスからもたらされました。
献堂式の約1ヶ月後、聖堂で祈るプティジャン神父の元に、浦上地区から潜伏キリシタンたちが訪れ「サンタ・マリアのご像はどこ?」と尋ねました。そして、プティジャン神父はこの聖母子像の前に彼らを案内しました。
このエピソードから、信徒発見のマリア像とも呼ばれています。

聖母子像(信徒発見のマリア像)

20.最後の晩餐を象ったレリーフ

新約聖書に記述されている事跡の一つ、「最後の晩餐」はイエス・キリストが処刑される前夜に12使徒と共にした夕食、またその場での出来事のことを言います。
この最後の晩餐も、芸術作品をはじめ数多く描かれてきました。
大浦天主堂の第2側廊の小祭壇に掲げられたものは石膏製の浮彫作品です。17世紀から18世紀ごろの作品といわれ、作者については記録がありません。
この場所には以前、キリスト苦難図があったと言われ、それは1878、79年頃に、長崎の神学生によって描かれたとされていました。
原子爆弾投下時に屋根が損傷し、それによる雨漏りで損傷を受けたため、戦後の改修工事の際に現在のレリーフに入れ替えられました。

最後の晩餐(レリーフ)

21.聖ベルナルド像

聖ベルナルドは、12世紀のフランス・ブルゴーニュ地方のフォンテーヌ・レ・ディジョン城で生まれたとされる神学者です。1112年にシトー修道院に入り、司祭になったばかりの頃にクレルヴォーに派遣され、修道院長として森の中で生活をしました。ベルナルドの活動によって、消滅しかけていたシトー会は、最初の10年間で3つの修道院を開設し、その後ヨーロッパ中に分院をもつに至りました。
教会に奉仕を求めたとされるベルナルドは、その優れた説教師としての資質によって、当時の教会をめぐる諸問題に関わり、またその影響も大きかったといいます。
1174年に列聖され、1830年8月20日の記念日に教皇ピウス8世により教会博士の称号を与えられました。

聖ベルナルド像

▽#1~7

▽#8~14


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長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
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