第349話 『賠償金交渉とロシア、フランス』

 慶応元年一月二十日(1865/2/15)

 賠償金交渉は遅々として進んでいなかった。




 ■ロシア領事館

「やはり、イギリスと日本の交渉は一筋縄ではいかないようですね」

 後任の箱館領事のエヴゲーニイ・ビュツォフはゴシケーヴィチに言った。

「そうだな。すでに文書は送っているが、君に後事を託して、私は本国で説得するとしよう」

「シベリア鉄道と……ウラジオストクですか」

「うむ」

 シベリア鉄道は、その構想自体は1850年代に生まれていた。

 しかし史実では紆余うよ曲折をへて、ようやく1891年に起工するのだ。それをゴシケーヴィチは早めて、ただちに設計し速やかに起工するよう要請するつもりである。

 ゴシケーヴィチは机の上の地図を広げ、指でシベリアを横断する線をなぞった。

「ビュツォフ君、この鉄道が完成すれば、わが国の極東進出は飛躍的に加速する。この後の様々な日本との交渉も有利に進められるだろう」

 ビュツォフは地図をのぞき込み、うなずいて質問する。

「確かに物資や兵員の輸送が容易になれば、極東での我々の立場は強化されます。しかし、工事はかなり困難ではないでしょうか」

「3年前にココレフ会社が提案したボルガ川・オビ川間の路線案がある。これを基に、さらに東への延伸を提案するつもりだ。確かに困難かもしれんが、完成すればわが国は飛躍的に発展することは間違いない」

 ゴシケーヴィチは立ち上がり、書棚から分厚い報告書を取り出した。

「資金調達はどうするのですか? 帝国の財政は潤沢とは言えません」

 ビュツォフは報告書に目を通しながら質問した。

「だからこそだ。借財してでも完成させれば、後から利益はついてくる。それに資金の心配はしておらんよ」

「どうするのですか?」

「大きな臨時歳入の予定があるではないか」

「……ま、まさか日本へのアラスカ売却の代金を資金に充てると?」

「そうだ」

「しかしあれは、打診があっただけでまだ本格的に交渉は始まってませんし、売却額も決まっていません。シベリア鉄道は国家的事業になることは間違いありませんから、ほかにも資金の調達のあてがないことには、厳しいのではありませんか」

 ゴシケーヴィチは窓の外を眺め、続けた。

「不足分はプロイセン、もしくはフランス……可能ならば両国からの借款を検討している。同盟とはならずとも一考の余地はあるはずだ」

 ビュツォフは驚きの表情を浮かべ、ゴシケーヴィチの大胆な提案に戸惑いを隠せなかった。

「プロイセンとフランスですか? しかし、両国は互いに警戒し合っているはずです。我々がその両方から借款を得るのは難しいのではないでしょうか」

 ゴシケーヴィチは冷静に説明を続けた。

「確かに両国の関係は複雑だ。だが、我々にとってはそれが利点となる可能性もある。プロイセンは東方への影響力拡大を望んでいる。一方、フランスは極東での立場を強化したい。我々の計画は、両国の利害と一致する部分がある」

 ビュツォフは懐疑的な表情を崩さず、さらに質問を投げかける。

「しかしフランスとの関係は微妙です。クリミア戦争以来、どう考えても良好ではありません。プロイセンとの関係も、常に安定しているわけではありません」

 ゴシケーヴィチは机の上の地図を指さしながら答えた。

「その通りだ。しかし外交とは常に変化する生き物のようなもの。利害が一致すれば、昨日の敵は今日の友になり得るのだよ。それに利害が両方あわなくても、利の一致が害を上回れば、またその逆もあるが、十分に『友』となれるのだ」

「なるほど。両国の利害を巧みに利用し、我々の計画を実現させるということですね」

 ビュツォフは徐々に理解を示し始め、ゴシケーヴィチは満足げにうなずいた。

「そのとおりだ。我々は、プロイセンとフランスの競争心を刺激しつつ、両国からの支援を引き出す。これは外交戦略であると同時に、経済戦略でもある」




 これがビアリッツの密約につながったかどうかは別問題だが、ロシアにしてみれば黒海・バルカン半島を含めた南下政策にもメリットがある。オーストリアを敵とみなすプロイセンとは利害が一致したのだ。

 ゴシケーヴィチはシベリア鉄道とあわせてウラジオストクの早期軍港化、セヴァストーポリ級装甲艦他6隻を配備するなど、既存のものとあわせて増強する事を提案している。




 ■フランス公使館

「公使はどうお考えですか? 日本とイギリスの交渉は、どう決着すると思いますか?」

 レオン・ロッシュはメルメ・カションの質問に答える。この時のフランスは幕府との借款と横須賀製鉄所の建設の約定書、そしてそのためのフランス語学校の開設と多岐に及んでいた。

「簡単には決着しないだろうね。イギリスはなんとか支払う賠償金を値切ろうとするだろうし、日本も妥協する理由がない。停戦協定でイギリス軍艦の侵入を禁止しているから、正当な理由なく違反すれば、イギリスの立場が悪くなるのを知っている。フィクサージロウ、ただ者ではないよ」

 幕府との対応はこれまで通りとして、と前置きした上で、レオン・ロッシュは机の上の地図を指差した。

 新たな戦略を説明し始めたのだ。

「わが国としては極東におけるイギリスの影響力低下を受け、従来の戦略を早め、かつ拡大する必要がある。まず、インドシナでの支配を強化するように本国には進言しようと思う」




 1.軍事的プレゼンスの強化
 コーチシナ地域への軍事力の集中
 ベトナム北部(トンキン)への進出拡大
 カンボジアでの軍事的影響力の強化
 
 2.経済的浸透
 サイゴンを中心とした貿易拠点の確立
 メコンデルタでの米作プランテーション開発
 鉱山開発権の獲得(特にホンゲイ炭鉱など)
 
 3.外交的圧力
 現地政権(阮朝)との条約締結を通じた権益獲得
 カンボジア・ラオスの保護国化
 
 4.インフラ整備
 鉄道や道路網建設による経済圏の確立
 港湾施設の整備によるフランス船舶の優位性確保
 
 5.文化的影響力の拡大
 キリスト教(カトリック)布教の自由獲得
 フランス語教育の普及




 史実より仏領インドシナの拡大が進みそうである。




「ああそうだ。この機会に仏日安保条約を結ぶのもいいかもしれないね」

 ロッシュはにこやかに笑いながらコーヒーを飲んだ。




 次回予告 第350話 『賠償金交渉とオランダ・アメリカ。そして英国議会』

 この小説の第1話と他の作品はこちらから(全話無料)

いいなと思ったら応援しよう!