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学校の歴史の先生の話 歴オタノート#2

高校の歴史の先生がおもしろい。

しかし、クラスを見ると、明かにつまんなそうな表情の人が多い。確かに、
激寒オヤジギャグは一授業に必ずある
けれども。


考えなければならない授業

この先生を「面白い」と思うところはギャグじゃなくて、授業の前置きとしての
「少し頭をひねる」話。


私たち生徒に問いかけてくるのです。

「この漢字の意味はなんだい?」
「この英単語、何て意味?」


とか。
もちろん他の事柄でも。


「歴史」の授業なのに、違う教科のことが出てくる
ので、予想にない死角からきた感覚。

苦手な人も多い、その授業スタイル。

幸い、答えが不正解でも追求されたり、指摘したりする人ではありませんので、自分も積極的に言うのですが…


問いかけが終わった後、先生は決まってこう言います。


歴史ってのは”分からないこと”が多いから、考えなければならない」


前置きとして「少し頭をひねる問」を出すのは、私たち生徒に”考えさせる”という工程を生むのと、普通に復習になるから。


真意ではやはり、”考えさせる”という工程を生むところにあります。


ここで自分、ある疑問が浮かびます。


歴史は分からないことが多いって
どういうこと?」
なぜ考えさせる”というのをするの?

と。


”分からない”という状態とは

  • 645年に「乙巳の変」が起きた。

  • 794年に平安京が建設された。


これらって、史学的に、考古学的に、もう既に「分かっている」ものですよね。

もう既に「史実」とされるから、その内容が教科書に書かれている。

教科書で「分からない、判明されていない」と言うところは、ほとんど*無いです。

脚注、注釈など、一部において例外。


では先生のいう、「分からないこと」とは
一体何なのか。

つまりは…



”出来事の背景を突き止める”



この一言に尽きます。

先生自身が、この言葉を発言したわけでは無いですが、授業スタイルや、授業の展開からして、こう推測できそうです。

  • どのようにして乙巳の変は起きたのか」

  • なぜ平安京に遷都したのか」


断片的に見るのではく、連続的に見る。
「なぜこの事件が起きたのか」「なぜこれが起きたのか」といった、”背景を突き止める”こと。

一例として日本史古代の内容の時、
こんな問いかけがありました。


『小野妹子ってなんで遣隋使になったん
やろ?
教科書見てみて。[生没年不詳]って書いてある。普通、偉かったり、権力者って、そういうの記録に残すやん?

先「だから、あんまし家柄とか低かったんちゃうかな」

先「このクラスの中から、外国に行く人を決める時は、どうやって決める?くじ引きか、じゃんけんか?」


私「頭の賢さ?」

先「まぁ近いな、でも外国やで?まず
何が必要だと思う?」

私「コミュニケーション?
Aさん「中国語?

先「そやな。外国だから、話せなかったら何もできないな」


先「おそらく、小野妹子が遣隋使になった理由の1つは、当時の中でもかなり中国語に堪能やったからだと、思うな」


先「で、「冠位十二階」や、実力を重視する厩戸王によって、家柄でもなく、中国語が喋れるという[実力]で、妹子は採用されたんちゃうかな」


てな、感じだったはず。


推測と考察

事実性は一旦おいといて、上記のように問いかける。小学生みたいに、「なんで?どうして?」と旺盛に。


当時の史料に

「小野妹子は中国語が喋れるから〜」

とは書いて無いです。


だから、現代に生きる我々は推測*(考察*)
しなければならない。


*推測と考察:推測は主観的に物事を推しはかる。
考察は、吟味して客観的に物事を捉え、考える。
先生の授業での問いかけは「推測」であり、
専門家、研究者の行う「考察」と分けています。


上記の例だと
「小野妹子は何で生没年不詳なのか」
「小野妹子は何で遣隋使として行くことになったのか」

など。


史料、それを基にした教科書に、100%理由や背景が書かれていないからこそ、歴史を解明、扱う際は、仮説や問いをまず立てなければいけない。

これこそ、先生のいう「歴史は分からないことが多い」の真意。


「あくまで考察の域を出ない」状態が歴史科目であると。



また、「あくまで考察の域」を「史実です!」と、言ってもいけない。

なので、かつての聖徳太子(厩戸王)に関する文は

聖徳太子は冠位十二階・憲法十七条・遣隋使により王権を強化し〜」

山川出版社* 日本史用語集 [改訂版]
p.25より引用

だったのが、

「推古天皇の甥の厩戸王が補佐し、蘇我馬子と協力して国政の改革を始め〜」

東京書籍* 日本史探究 p.31より引用

と、なり、
「聖徳太子」という称号が、後世の人によっていわれたもので、当時の人から、または
自ら名乗ってはいない。

[冠位十二階]や[憲法十七条]は、厩戸王1人で作成し、任官のできたわけでなく、蘇我馬子も関わっていた。


など、当時の真実(厩戸王)と、後世に創られた解釈(聖徳太子)の中で、齟齬が起きること。


最近の歴史学会では、「当時の真実」に注目するのと、後世の史料との齟齬を見直す風潮が起きている。


後世の人々は、神の視点で見れるが故に、過大または、過小評価ができ、発生した事ですね。

*文の内容は、「出版社が違うこと」「用語集と
教科書」という違いがあることに注意。

史料が書かれた時代背景

日本書紀 巻第一の写本 画像出典:Wikipedia

この記事では、一例として「日本史古代」での例を挙げていますが、
世界各国、古代から、現代に至るまで、「真実を隠す」ことが多くあります。

何で、隠すようなことを、執筆者はするのか。何で、ある人、出来事を過大に評価し、記録するのか。


言論の自由」や「報道の権利」が生まれ、誰にでも平等な「真実」を伝えるのは、歴史の中で最近のこと

かつての価値観となれば、「勝者が正義」であり、勝った者がその権力で、自分や国にとって都合の悪い人物や出来事を「悪人」
「最悪の時代」と、仕立て上げれたのです。



一例として、645年の大化の改新ですね。
厳密にいうと、乙巳の変が起きた。


先「蘇我蝦夷えみしってどう思う?
蝦夷”って文字」

先「文化を知らない[野蛮人]って意味」

先「天智天皇って”天”に”智”やって。
”蝦夷”と比べる必要もないくらいやな」

先「日本の古代史は”日本書紀”が正史だけども、日本書紀は、この事件の約80年後、奈良時代に成立したんや」

先「奈良時代の制度って、大化の改新によって成立したから、そりゃ乙巳の変を称賛するわな」

先「つまり、後世の人が過大に蘇我氏を陥れ、反して、中大兄皇子や中臣鎌足を上げるわけやな」

先「ご先祖様がやってるのは、事実としては”人殺し”。人殺して賞賛されるんやで?」

先「”蘇我氏はめっちゃすごくて、国に貢献した”って書いたら、皇子と鎌足は、逆に”何で蘇我氏滅ぼしたんや”ってなるわな」

先「本当に蘇我氏は悪者で、王を蔑ろにしてたかもしれんが、”後世に書かれた史料は脚色されているのがある”

先「これは事件当時の史料が見つかってないから仕方ない」

先「出来事より後世に記された史料ってのは、批判しながら解明していかないといけない」



乙巳の変の”真実”というのは、奈良時代に記された「日本書紀」「藤氏家伝」による影響が大きい。


蘇我父子のことを悪逆非道とし、それを懲らしめるという経緯は、事件を起こす真の理由にしては少し弱いし、現在ではその説は批判されています。


中大兄皇子と中臣鎌足によって、以後日本が繁栄したのは確かなのですが、しかし、当時の権力者を”暗殺”してまで滅ぼしたのも、また確か。


真に、背景を突き止めるには、後世に脚色されている可能性がある。それを考慮に入れながら、推測をしていかなければならない。

と、先生は”推測の落とし穴”について話していました。


センシティブな科目 歴史

以上のように、「歴史」って教える側もそうですが、学ぶ側も、慎重にしていかなくてはならない。

歴史って、取り扱う内容がゆえに「センシティブ」な科目であると言えるでしょう。


前の「歴オタノート#1」はその「センシティブ」さを極力抑えながら、好きになっていく過程を書きましたが、「歴史」を扱う以上、いずれ、そういった場面にぶつかります。


これをどう解釈し、乗り越えていくか


”歴史のことを詳しい”と、自負していましたが、その先生の授業を受け、考えが変わりましたね。

「この人こそ、真に歴史に詳しい」と、多角的に物事を見ていかなくちゃいけないと思い、アウトプット形式でこの記事を長々と書いてきました。



賢くなりたい!

話は少し変わりますが、
大学の偏差値=賢さっていうのもまぁ理解できますが、それだけで判断するのもよくないですね。

実際の振る舞い、態度、話し方とかの「気品」のある感じ。
自分の中では、上のような所に「賢さ」を感じます。

その先生は話し方もさるものながら、機転が利いたり、すでに教師歴40年以上にも関わらず、驕らず謙虚な人。

そして、一貫して「歴史が好き」という情熱もあるお方。

「気品」のある人間になるのは難しいですが、いつしかそんな人になりたいですね。




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