「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について
ここでは、総合人間学会の研究会誌『総合人間学』(書籍版17号、本の泉)に掲載された記事について再掲しています。
内容は、「「ポストヒューマン時代」における人間存在の諸問題――〈自己完結社会〉と「世界観=人間観」への問い」の続編で、情報技術、ロボット/人工知能技術、生命操作技術がもたらすポストヒューマン時代について、ヒューマニズム、自己決定の理念、ミクロな権力との関連について取りあげたものです(以下の表紙やリンク先から全文をご覧いただけます)。
本論で言う「ヒューマニズム」とは、人間は、自らを取り巻く世界を作り替えることによってこそ幸福になれる、人類は、理性の力を通じて自分自身を解放し、それによってあるべき本来の形、究極の普遍的な何者かに到達するといった、「普遍的な人間」というものに投影された強力な信念、ある種の「信仰」のことを指しています。
こうした「ヒューマニズム」は、人文科学の主流の考えにおいては、すでに時代遅れなものと考えられてきました。例えばポストモンダンの立場からは、「ヒューマニズム」は「大きな物語」にすぎず、ある種の幻想にすぎなかったと理解されます。あるいはフェミニズムやポスト植民地主義の立場(「反ヒューマニズム」)からは、そうした人間の理念が、男性中心主義やヨーロッパ中心主義の産物にすぎず、そもそも普遍的な人間などというものを想定すること自体が問題であったという形で理解される、といった具合です。
ところが今日、科学技術を通じて現れつつある「ポストヒューマン」的な何ものかは、人間そのものを作り替えることによって、私たち自身をバージョンアップさせていくことになります。さまざまな社会的な要請を意識した上で、より「あるべき人間」に接近していくのです。このことは、実のところ、究極の「ヒューマニズム」を意味するのではないか、別の言い方をすると、実のところ私たちは「ヒューマニズム」の外部に出たことなど一度もなくて、いまなお結局は「普遍的な人間」という夢を追い続けているのではないか、というのが本論の大枠の話です。
実はこの話題は、今日の「自己決定」の問題とも深く結びついています。まず、ポストモダンや「反ヒューマニズム」が人文科学の主流となる時代を迎えて以来、私たちは”絶対的な何ものか”を共有することがきわめて難しくなりました。そうした時代状況において、唯一人々に共有可能だと思われる原則こそが、実は「自己決定」の原則なのであり、そうした意味において「自己決定」は、ポストヒューマニズムの倫理を象徴するものとも言えるからです。
そして今日の「自己決定」の理念の中心にあるのは、一言で言えば、「存在論的抑圧」を最小化し、「存在論的自由」を最大化させること、言い換えると、自身が何ものであるのかを不本意な形で決定されず、自ら定義できること、さらにはそのことによって不利益を被ることなく、またその過程で不本意に加入されることもないこと、と理解することができると思います。
ポストモダンの時代において、特定の絶対的な「正しさ」は主張できないかもしれませんが、こうした意味での「自己決定」が高められ、保障されることについては、誰もが異論はないはずだ、ということに他なりません。
ただし、この原則を推進するのであれば、私たちは必然的に、人々が「ポストヒューマンな存在」になっていくことを肯定しなければならなくなります。なぜなら私たちの「自己決定」を阻む最大の障壁とは、「意のままにならない身体」や「意のままにならない他者」によって生みだされる根源的な不平等や根源的な抑圧であって、「ポストヒューマンな存在」になることは、まさしく私たちがそうしたものから解放されることを意味しているからです。
「ヒューマニズム」の批判からでてきたはずの「自己決定」の原理が、「ポストヒューマン時代」になって、まさしく「自己決定」の原理を尊重するがゆえに、「ポストヒューマン」という形の「普遍的な人間」へと至る――すなわち「ヒューマニズム」批判が「ポストヒューマン」という形のもと究極の「ヒューマニズム」を実現する、というおそるべき転倒があるわけです。
なお、この論文を通じて筆者が表現したかったこととして、もうひとつ、一連の私の議論とフーコー流の権力論(ミクロな権力をめぐる議論)の違いを示すという目的がありました。
周知のようにM・フーコーは、国家権力に代表されるマクロな権力とは区別する形で、人間の関係生にあまねく遍在し、私たちに何が正常であり、何が正常でないのかを悟らせるような何ものか、あたかも自身が望んでいるかのように欲望を喚起させ、人々に自ら進んで自己点検するように仕向けるような何ものかとして、ミクロな権力の概念を提示しました。わかりやすく言えば、人々を抑圧する規範や標準や境界線の問題です。
私の議論では、社会システム(〈社会的装置〉と表現されます)への依存が生みだす人々の生きづらさが問題になりますので、しばしばフーコー流の権力論と同じ枠組みで議論していると誤解されることがあるのです。
フーコー流の権力論はさまざまな形で応用されていますが、筆者が一番気になるのは、そこでは特定のミクロな権力がもたらす抑圧の構造を明らかにする(可視化する)のみならず、しばしば「あらゆるミクロな権力から解放されることによってこそ人間は真に自由になる」、「人間は、少しずつでも着実にミクロな権力から解放されなければならない」といった暗黙の理念を前提として議論がなされているように見えることがあるということです。
確かに私たちは、古い規範を解体し、規範の形を時代に合うよう作り替えていく必要があります。しかしその目的は、あくまで境界線を引き直すことであって、ミクロな権力それ自体から人々が解放されることではありません。言い換えると、人間社会から何かを定める規範や標準や境界線それ自体が消えることなど決してありません。多様性の時代に問われているのは、こうした人間を規定する何ものかそれ自体と、私たちがどのように折り合いをつけていくのかということだからです。
もしも私たちがミクロな権力それ自体からの解放を目指すとするなら、私たちは決して実現することのない理想を追い求めて、かえって終わりのない苦しみの自縄自縛(「現実を否定する理想」の「無間地獄」)に陥るでしょう。ところが「ヒューマニズム」のみならず、「自己決定」の理想も、「ポストヒューマン時代」の科学技術も、そうした自縄自縛の方向性へとますます私たちを向かわせているのです。ここに「ポストヒューマン時代」と向きあううえで重要な問題がある、というのが筆者の立場に他なりません。
以上、見所について概説させていただきましたが、興味を持ってくださった方はぜひ一度ご覧いただければと思います。
「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について
1.はじめに
筆者は2022年の研究大会において、シンポジウム「ポストヒューマン時代が揺るがす人間らしさ」、およびワークショップ「「ポストヒューマン時代」をめぐる哲学/思想的諸問題について」という二つの報告を行った(1)。
その詳細については、『総合人間学(書籍版、第16号)』(上柿 2022a)において詳しく論じたため、本稿では前稿の内容を振り返ったうえで、そこで十分踏み込めなかった新たな論点について考えてみたい。
(1)前稿までの議論の確認
まず、本論の出発点となる問題意識とは、今日のわれわれがビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などの技術的進展を経て、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となっていく時代を生きており、それはこれまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなる時代であるという意味において、「ポストヒューマン時代」と呼ぶべきものであるということであった。
前稿では、ここから①「ポストヒューマン時代」とは何か、②〈自己完結社会〉という視座、③「世界観=人間観」をめぐる問題、という三つの論点から議論を進めてきた。そしてそこで最大の焦点となったのは、「ポストヒューマン時代」がしばしば「人間疎外」や「管理社会化」の時代として批判される一方で、人々の行う自己決定という側面においては、その機会が量的にも質的にも着実に増大していくという問題であった(2)。
確かに全身をサイボーグ化すること、アンドロイドを伴侶とすること、バーチャル空間(メタバース)に生活の舞台を移すこと、これらは一見「人間性」を破壊する行為にも見える。また「AIに身を委ねる」と聞いて、そこから多くの人々は支配や管理や全体主義を想起してしまうかもしれない。しかし技術を適切に運用することさえできれば、われわれはよりいっそう自身が何ものであるのかを自分自身で選択できるようになる。また、煩わしい日々の雑務からよりいっそう解放され、自らの貴重な時間をますます創造的な活動に割くことができるのである。
農耕、鉄道、自動車、家電製品、電話、ラジオ、PC、インターネット――新たな技術が登場するとき、人々は常にそれらを脅威として受け止めてきた。われわれが感じている戸惑いは、もしかすると狩猟採集民がギザのピラミッドを見て思うこと、農耕民が電車に揺られるサラリーマンを見て思うことと同じものかもしれないのである。
「ポストヒューマンな存在」になることは、明らかに人々の自己決定や自己実現を拡大させる。そしてわれわれが思う人間的理想、例えば自由、平等、多様性、共生といったものを実現するための切り札が、まさしく自己決定や自己実現の拡大にあるとするなら、われわれはむしろ「あるべき人間性」を実現するためにこそ、積極的に自身を改造し、「ポストヒューマンな存在」になった方が良いという論理的な帰結でさえ導出されうるのである。
こうした主張に対して、ある人々は技術のもたらす更なる脅威について説明しようとし、またある人々は、新たな技術が決して真の意味では理想を実現しないと説明するかもしれない。しかし本論が着目したのは、いずれとも異なる点であった。すなわち問題の本質は、むしろわれわれの掲げてきた人間的理想のなかに、とりわけ自己決定が「あるべき人間性」の中心にあるとする「世界観=人間観」そのものにあるのではないかということである。
そのことを理解するために、本論では〈自己完結社会〉、あるいは思考実験としての「脳人間」世界といった概念を導入してきた。〈自己完結社会〉とは、人々が主として市場経済、官僚機構、インターネットを媒介する形で統合され、直接的な関係性を取り結ばなくとも生きることそれ自体は実現できてしまう社会のことである。また「脳人間」世界とは、そこからさらに進んで、身体を捨てて脳だけになった人々が、生活の舞台を完全にバーチャル空間(メタバース)へと移行させ、主たる人間関係もまた、自分好みのバーチャル人格が演出してくれる物語のなかへと移行させた世界のことである。
もしも自己決定や自己実現が人間にとって至上のものだとするならば、「脳人間」世界は、「意のままにならない他者」からも、「意のままにならない身体」からも解放されたユートピアとならなければならない。そこには個人を抑圧するものは何もなく、その人が望めばいかなる関係性を結ぶことも、またいかなる自己になることも可能だからである。しかしそうした世界に、人は“生きる意味”を感じることはできない。ここにある逆説とは、人々が切望してならない「意のままにならない生」からの解放が、究極的には無意味な世界を出現させるということなのである。
われわれは「ポストヒューマンな存在」になることによって、その分「自由」と「平等」を実現させることができる。しかしその先に待っているのは、自己満足のなかで孤立した“自己完結人間”たちの群れとともに、無色透明の虚無でしかない。したがってわれわれに求められているのは、「ポストヒューマン時代」に相応しい、新たな「世界観=人間観」そのものを構築していくことである。それが、前稿で導き出された結論であった。
(2)本稿の目的と課題
以上の議論を踏まえたうえで、本稿が試みたいのは、こうした逆説を孕んだ「自己決定」をめぐる人間的理想に再び焦点をあわせ、それがいかなる思想的な経緯のもとで成立してきたのかを探ってみることである。そして本稿では、その分析をもとに、「ポストヒューマン時代」が問いかけている問題について別の角度から迫ってみることにしたい。
手がかりとなるのは、「ヒューマニズム」から「反ヒューマニズム」への移行という思想史上のパラダイムシフトである。もともと「自己決定」の概念は、「自律した主体」や〈自立した個人〉の概念と深く結びついており、それらを下から支えていたのが「ヒューマニズム」であった。
「自律した主体」とは、人々が無知や迷信、権威や権力といった外力から解放され、自ら思考し、自ら判断できる存在になるということを意味している。またそのためには、人々が一定の経済的な独立性と、外力に抗う精神性を求められるため、そうした主体は〈自立した個人〉とも呼ばれてきた。そして人間とは、理性を用いてさまざまな桎梏からおのれ自身を解放し、「あるべき人間(社会)」に向かって絶えず進歩し続ける存在であること、その確信こそが「ヒューマニズム」であり、「自己決定」の概念は、こうした枠組みによって支えられてきたのである。
ところが、今日われわれが用いている「自己決定」の概念には、こうした枠組みからはいくつかの点で隔たりがある。ひとつは、その主体像が徹底して価値中立的かつ個人主義的なものとなっていること、もうひとつは、その力点が“意志のあり方”というよりも、“存在のあり方”をめぐって語られるようになっていることである。端的に言えば、自身が何ものであるのかを自ら定義できること、それによって不利益を被ることなく、その過程で不本意に介入されることもない、それが現代的な意味での「自己決定」の特徴なのである。
こうした「自己決定」概念が形作られてきた背景には、おそらく「ポストモダン」の到来と、「ヒューマニズム」への批判として登場した「反ヒューマニズム」の存在が深く関わっている。そこでの問題提起とは、第一に、人類の進歩は普遍的な真理などではなく、ひとつの「大きな物語」にすぎなかったということ、第二に、われわれが「主体」と呼んできたものは、関係性に張りめぐらされた「ミクロな権力」による訓練の結果、換言すれば、不可視化された強制や排除の産物にすぎなかったかもしれないということ、第三に、そこでの「人間」とは、実のところ五体満足で健康なヨーロッパの白人男性でしかなく、そもそも普遍的な「人間」などというものを想定すること自体が間違っていた、といったことである。
しかし「ポストモダン」や「反ヒューマニズム」の方法論には、大きな問題が含まれていた。それは、この新しい潮流が「ヒューマニズム」を打ち倒した代わりに、われわれが向かうべき指針までをも解体させてしまったことである。
ただし、ここにはひとつだけ“出口”が存在していた。それは、問題の核心部分を「存在論的な抑圧」――諸個人の存在のあり方を“かくあるべき”と抑圧、強制するもの――の存在に定め、「存在論的な自由」――諸個人が自身のあるべき姿を自ら定義することができる――の拡大こそがわれわれのなすべきことであると理解することである。そうすれば、「反ヒューマニズム」の問題提起と矛盾することなく、われわれは万人にとって受け入れ可能なビジョンを手にすることができるからである。
こうして、前述した価値中立的かつ個人主義的な「自己決定」の概念が成立してきた。ところがこの新しい人間的理想こそが、まさしく「ポストヒューマン時代」の到来によって、新たな矛盾を顕在化させつつあるのである。
実は「自己決定する主体」のビジョンには、別の問題が含まれていた。それはいったん「存在論的自由」の獲得という目標が定位してしまうと、その理想は徐々に拡大解釈されていき、最終的には「意のままにならない他者」そのもの、「意のままにならない身体」そのものに由来する根源的な不可能性や根源的な不平等に行きついてしまうことである。
ここで改めて注目すべきは、「ポストヒューマン時代」の技術の潜在力とは、まさしく「意のままにならない他者」から、そして「意のままにならない身体」からわれわれを解放するという点にあったことである。つまり「ポストヒューマンな存在」になることは、「自己決定する主体」のビジョンと完全な整合性を持っている。ならばその人間的理想を実現するためにこそ、われわれは「ポストヒューマンな存在」になるべきではないだろうか――。こうしたわけで、われわれは前稿で導かれた主張にまたもや直面することになるのである。
しかし以上の分析を経てきたわれわれには、前稿では踏み込めなかった新たな逆接の存在に光をあてることができるだろう。それは、いまや技術を通じて出現しつつある何ものかが、あらゆる存在から浮遊し、純化された精神体のごときものに収斂していくということ、その意味において、それはある種の普遍的な人間に向かっていくという逆説である。このことは何を物語っているのだろうか。本論では、その意味について明らかにしていくことにしよう。
2.「自律した主体」と「ヒューマニズム」
それでは以上の議論を詳しく見ていこう。最初の焦点となるのは、「自己決定」の最初の形態ともいえる「自律した主体」をめぐる問題である。
(1)「自律した主体」の成立
前述したように、「自律した主体」とは、人々が無知や迷信、権威や権力といった外力から解放されること、それによって自ら思考し、自ら判断していく存在になるということを意味していた。この概念は近代的な自由の概念と結びついており、その起原はJ・ロック(J. Locke)やJ・J・ルソー(J. J. Rousseau)を含む、17-18世紀の政治哲学にまで遡ることができる(3)。
ただし、この理想の形成に最も影響を与えたのは、「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである」と述べたI・カント(I. Kant)だろう(4)。なぜならカントこそ、他者や外力に依拠することのない意志、あらゆる普遍性に開かれ、独立した意志であるところの「意志の自律性」(Autonomie des Willens)を何より重視した人物だったからである(5)。
19世紀になると、「意志の自律性」はG・W・F・ヘーゲル(G. W. F. Hegel)によって、自由を実現していく人類の歴史と結びつけられ、さらにK・マルクス(K. Marx)によって、そうした人類史を前進させていく変革思想と結びつけられた(6)。こうして「自律した主体」は、人間存在が理性に照らして自身の置かれた時代局面を認識すること、そして人類史の担い手として、「あるべき人間(社会)」に向けて現実を突き動かしてく使命を帯びたものとなったのである。
また「自律的な主体」は、しばしば〈自立した個人〉とも呼ばれてきた。というのも人々が自ら考え自ら判断できる存在になるためには、人々が一定の経済的独立性を備えていること、そして国家権力や共同体、世間といった同調圧力に屈服することのない強固な精神性を身につけている必要があると考えられたからである。この呼称が、とりわけ戦後日本の人文科学において好まれたのは偶然ではない。この国の知的風土においては、日本文化の特徴を“個の埋没”と規定し、それに伴う前近代性、無責任性こそが先の戦争を引き起こしたとする、丸山眞男以来の伝統があったらからである(7)。
そしてこうした人間的理想は、「ヒューマニズム」(humanism)とも呼ばれてきた。もちろん「ヒューマニズム」自体は、ルネッサンス期の人文主義にまで遡ることができる。ここではそれ以来の人間存在への希望の伝統が、一連の進歩史観や変革思想と重ねて理解されてきたからである。
「実存主義はヒューマニズムである」と述べたのはJ=P・サルトル(J.-P. Sartre)であったが、サルトルは、人間が状況に投げ込まれた存在でありながら、自らを世界に投げ返すことによって、自身が何ものであるのかを構想できる唯一の存在であるとした(8)。J・グレイ(J. Gray)は、「ヒューマニズム」に体現された概念体系が、イエス=キリストによる救済の理念に由来しており、それを人類の解放という祈願に置き換えたものこそ「ヒューマニズム」であったと指摘している(9)。
人間は、自らを取り巻く世界を作り替えることで幸福になる。とりわけ理性を行使した知の蓄積を原動力として、動物的な限界を超え、世俗的にも精神的にも自分自身を解放する。いずれにしても、そうしたことへの確信こそが「ヒューマニズム」なのであって、この時代の「自己決定」の概念は、こうした長大な物語のなかに埋め込まれていたのである。
(2)「自律した主体」をめぐる挫折と葛藤
ところがこうした人間的理想は、早くも20世紀初頭の段階からさまざまな矛盾に直面するようになっていた。
例えば最も「啓蒙」が進んだはずのヨーロッパにおいて、なぜ二度の大戦が勃発し、ホロコーストという恐るべき「野蛮」が試みられたのか。あるいは人間を解放するはずの理性が、なぜ人類そのものを破滅させる兵器を生みだしてしまったのか。こうした経験は、確かにその人間的理想を揺さぶるものであった。
しかし一連の理想は、こうした困難をその都度克服してきた。例えば破壊的な兵器は、あくまで理性の行使が未熟であるために用いられたのであって、「全体主義」は――E・フロム(E. Fromm)が鮮やかに描いたように――自由がもたらす不安や怖れのために、人々が自ら自由な個性を放棄してしまった結果であるといったようにである(10)。つまり一連の出来事は、進歩を続ける人類史の一時的な“逸脱”であって、処方箋となるのは、挫折を乗り越え、よりいっそう「自律した主体」=〈自立した個人〉になるべく努力すること、そのための社会的条件を整えていくことであると理解されてきたのである。
矛盾は他にも存在した。例えば前述したように、人々が「自律した主体」となるためには、その前提として一定の経済的独立性と、国家権力などからの解放が必要であると考えられてきた。ところがどれほどそうした基盤が整えられても、人々は身勝手な「私人」になるばかりで、一向に想定されたような理性的で、公共的な道徳を備えた存在になっているようには見えなかったこともそうである。
しかしここでも、一連の理想は踏みとどまってきた。例えば人々が「自律した主体」として現前しないのは、解放のためのシナリオが誤っていたからではなく、資本がもたらす格差や貧困、あるいは国家権力を含んだあらゆる抑圧が人々を分断し、それによって主体の成熟が妨げられているからであると考えるのである。つまりここでも処方箋は、よりいっそう「自律した主体」=〈自立した個人〉になるべく努力すること、そのための社会的条件を整えていくことであると理解されてきたのである。
3.「自己決定する主体」と「反ヒューマニズム」
(1)「大きな物語」の終焉と、「人間」の終焉
しかしこうした理想の枠組みは、次第にその体裁を保つことが難しくなっていった。とりわけ70年代以降になると、社会運動の敗北、環境問題の出現、東側世界の没落、資本のもたらす過剰、消費社会の出現といった経験のなかで、「ヒューマニズム」の本格的な解体が始まるからである。
まず、そうした時代の空気を「ポストモダン」(postmoderne)と表現したのはJ=F・リオタール(J.-F. Lyotard)であった。リオタールによれば、われわれが生きているのは、これまであらゆる知をその背後で正当化してきたもの、例えば理性と啓蒙、歴史と解放、進歩と豊かさをめぐって語られてきた「大きな物語」(grands récits)が不審の目にさらされる時代である(11)。それらはこれまでいずれも普遍的な真理だと見なされてきたものであったが、いまやその信頼は失われ、数あるひとつの物語に過ぎなくなったというわけである。
ただしここで、最も大きな影響力を発揮したのはM・フーコー(M. Foucault)だろう。フーコーによれば、あらゆる知はそれぞれの時代固有の知の体系(épistémè)に根ざしており、このことは「ヒューマニズム」であっても例外ではない(12)。そこで想定された「人間」や「主体」に普遍的な実体などなく、事実それらは精神分析、言語学、文化人類学などを通じていままさに突き崩されようとしているのであった。
またフーコーは、新たな権力論を構想することによって、「自律した主体」の物語を根底から解体していった(13)。一般的に権力とは、国家権力に代表され、逸脱者を罰し、権威を盾に人々に何かを強いる抑圧的なものとして理解されてきた。しかし現代において注視すべき権力とは、われわれを取り巻く無数の関係性のなかに点在し、われわれに何が正常であり、何が正常でないのかを悟らせるような何ものか、あたかも自身が望んでいるかのように欲望を喚起させ、人々に自ら進んで自己点検するように仕向けるような何ものか――殺生与奪を管理するのではなく、生かすことによって管理するという意味において「生権力」(bio-pouvoir)とも呼ばれる――として潜在しているものなのである。
ここから見えてくるのは、われわれが学校、病院、家庭をはじめとして、生のあらゆる局面において、知らず知らずのうちに特定の"あるべき人間”となるべく、不可視化された権力によって訓練されているかもしれないということ、われわれが解放や進歩を掲げて礼賛してきた「自律した主体」こそが、実はそうした権力装置そのものだったのかもしれないということなのである。
(2)「反ヒューマニズム」がもたらした「理念の間隙」
こうしたフーコーの試みは、「反ヒューマニズム」(anti-humanism)とも呼べる地平を切り拓くものであった(14)。
注目すべきはこの時代、こうした流れに呼応する形で「ヒューマニズム」を批判するさまざまな試みが展開されていたことである。例えばフェミニズムが強調したのは、セクシャリティの虚構性、とりわけ「人間」=“男性”の概念が、劣位のものとして価値づけられた女性という他者性を踏み台にして形作られているということであった(15)。またポスト植民地主義が批判したのは、「人間」=“ヨーロッパ人”のアイデンティティが、やはり非西洋世界という他者性のうえに築かれていること、それにもかかわらずヨーロッパ世界は普遍性を盾に自文化の強要を図ってきたことであった(16)。
こうした動向に共通していたのは、「ヒューマニズム」において「人間」とされてきたものが、実際のところ五体満足で健康なヨーロッパの白人男性でしかなったこと、踏み込んで言うなら、そもそも普遍的な「人間」などというものを想定すること自体が間違いであったという認識である。
ところが「反ヒューマニズム」のアプローチには、ひとつの重大な問題が含まれていた。それはこのアプローチと密接に関わる社会構築主義、そしてそのアプローチに起因する相対主義をめぐる問題である。
例えばフーコーの継承者たちは、彼の「系譜学」(généalogie)を応用して、特定の知につきまとう“あるべき何ものか”をめぐる言説が、いかにして社会的に構築され、またわれわれ自身を拘束するのかを徹底して暴露しようと努めてきた(17)。しかしどれほど暴露を試みようと、「それが唯一可能なあり方ではない」と示唆することはできても、それ以上のことは何も語れないというジレンマに直面するのである。
社会構築主義においては、われわれを取り巻くあらゆる知見が、社会的な相互作用を通じて構想されたものだと理解される(18)。それによってわれわれは、排除や抑圧をもたらす特定の規範や基準や境界線に対して、「それは恣意的なものに過ぎない」と批判することが可能となる。ところがまったく同じ理由から、何かを新たに提言するが否や、「それも結局恣意的な基準や境界線に過ぎない」との指摘を避けられなくなるのである(19)。要するにここでは、多文化主義があらゆる価値や文化の相対化に陥るのと似て、多くの人々に共有可能なビジョンや指針が見いだせなくなるのである。
こうした問題から、「系譜学」的な方法論ではなく、むしろ従来のアプローチに回帰していく動向も見られるようになった。例えば、われわれが「ミクロな権力」を通じて訓練されている様子は、ある種の全体主義や管理社会を彷彿とさせることはないだろうか。つまりわれわれが自らの意思や欲望だと信じていることは、実は国家にとって都合の良い論理の内面化に過ぎないかもしれない。あるいはそれは、グローバル企業や財界が望んでいること、より根源的には資本の自己増殖そのものからくる圧力かもしれないといったようにである。
だが、こうした解釈は別の問題を生じさせる。というのもこれらは、いずれも「モダン」=「ヒューマニズム」の全盛期においてなされてきた議論の焼き直しでしかなかったからである。
例えば前者は、本質的にはナチス・ドイツやG・オーウェル的な「ビッグ・ブラザー」を想起させる、伝統的な全体主義批判と変わらない。そのためそこから導かれる結論は、結局のところ外力に惑わされない「自律した主体」になるということにしかならないだろう。後者もまた、本質的には、資本と結びついたイデオロギーが人々の社会諸関係を固定化させるという伝統的なマルクス主義と大差はない。そのためそこから導かれる結論は、資本に抗い社会変革を断行するための、やはり「自律した主体」になるということでしかなくなるのである。
こうしたわけで、相対主義の袋小路に陥った「反ヒューマニズム」は、再び「モダン」と「ヒューマニズム」によって突き上げられることになる。しかしそれらは、すでに終焉したはずの「大きな物語」だったのではなかったか。こうしてここに、「理念の間隙」とも呼べるような空白地帯が生まれることになるのである。
(3)「反ヒューマニズム」の出口戦略としての「自己決定する主体」
ただし「反ヒューマニズム」の提起を放棄することなく、また「モダン」や「ヒューマニズム」に先祖帰りすることもない形で、新たな地平に目を向ける方法論がひとつだけ存在していた。
確かにわれわれは、いまなお多くの「ミクロな権力」に取り囲まれ、何ものかを普遍的なものであると主張できない現状がある。例えばわれわれが、しばしばあえて「私は、そのように思います」、「個人的には、そのように考えます」と口にするのは、自身がそこで普遍性を持ちだし、何かを強制しているわけではないことを暗に弁明しているからである(20)。
しかしこのことは、われわれが不可視化された権力を注視することによって、そうした強制力を意識的に縮減させることが可能であるということをも示唆している。つまり“その人が何ものであるのか”という存在論的な次元に着目するとき、そこで何かを強いる抑圧を最小化させること、逆い言えば“私が何ものであるのか”という問題に対して、個人が自ら選択できる余地を最大化させること、これらの点に限って言えば、多くの人々は賛同するはずである。要するに「ポストモダン」や「反ヒューマニズム」は確かに「理念の間隙」をもたらしたものの、われわれが「存在論的抑圧」を最小化させ「存在論的自由」を最大化させるという原則に立つことができれば、それは万人に共有可能な指針となりうるのである(21)。
こうして今日的な意味での「自己決定」の概念が導出された。そしてその指針は、新たな「主体」概念、「自己決定する主体」と呼ぶべきものさえ創出したと言えるだろう。
かつての「主体」は、社会全体を変革し、人類史を前進させる旗振り役として期待された。これに対して新たな「主体」は、あらゆる価値に中立的な立場を取り、徹底して個人を基準とする。諸個人が自らの運命の主人公となり、自己を決定し、自己を実現していくという意味において「主体」となるのである。またそれは、〈自立した個人〉の新しい形態でもあった。かつての「主体」は、経済的な独立性と、国家という「マクロな権力」からの独立性を必要とした。これに対して新たな「主体」は、「自己決定」のために、「存在論的抑圧」の原因となる「ミクロな権力」からの独立性を必要とするからである。
こうして「自己決定する主体」=「反ヒューマニズム」=〈自立した個人〉からなる、新たな三位一体の人間的理想が誕生した。ただし、これですべてが解決したわけではなかったのである。
(4)根源的不平等と「存在論的自由」の不可能性
われわれはここで、いったん「自己決定」とは何かについて考えてみよう。
よく知られているのは、医療や研究の現場で語られるインフォームド・コンセントだろう(22)。そこでの「自己決定」とは、状況や選択肢に関わるあらゆる情報が提供されたうえで、最終的な判断を当事者に委ねることを意味している。
しかし現代的な意味での「自己決定」には、それ以上の含意があるのである。例えばわれわれが“多様性(diversity)の尊重”を主張するとき、そこに価値観の多様性が含まれていることは示唆的だろう(23)。そこで尊重されるべきものとは、単に人種や性別といった属性に関わるものだけを意味しない。例えば装いや髪型などの外観にはじまり、その人が何を好み、何を大切にしたいと願うのか、そして特定の問題についていかなる正しさ、いかなる思考を持つのかといったことなどが含まれるようになっている。
それは突き詰めれば、“この私”とはいかなる存在なのかという問題そのものだろう。ここで問われているのは、“意志のあり方”以上に“存在のあり方”であって、前者を「消極的自己決定」と呼ぶとするなら、「積極的自己決定」とでも呼べるものだと言える。端的に述べれば、自身が何ものであるのかを自ら定義し、その自己表現によって不利益を被ることなく、その過程で不本意に介入されることもない、これこそが今日的な「自己決定」概念の中心にあるものなのである。
ところが「自己決定する主体」は、こうした理想の形を掲げるがゆえに、かえって新たな矛盾に直面してしまう。例えばわれわれは、保守的な制度を改革し、差別や偏見を意識することによって、確かに「存在論的抑圧」を縮減させることができるだろう。あるいは住むべき場所、携わるべき仕事、外観や振る舞いに至るまで、確かにわれわれは過去に比べてより多くの「存在論的自由」を獲得してきたと言える。
しかし社会的現実においては、絶えず集団や属性を説明するための言説が生みだされ、物事の“標準”となるものが形作られてしまう。われわれは「意のままにならない他者」と関わるなかで、結局は「ミクロな権力」がもたらす抑圧に耐えることが求められるのである。また、どれほど「存在論的自由」の条件が整えられても、われわれには結局選択できないことがある。例えばいかなる容姿、性別、才能を持って生まれてくるのか、あるいはどのような親族を身内として与えられるのか、これらはわれわれが「意のままにならない身体」を持って生まれてくることに由来する“根源的な不平等”と呼ぶべきものだからである。
このことは、われわれがどれほど「自己決定」の理想に尽力しようと――そこには当然、経済的な格差の縮小なども含まれる――われわれが「意のままにならない他者」と関わり、「意のままにならない身体」を持つ存在である限り、そこには根源的な不可能性があるということを示唆している。
ところが「自己決定」の理想は、一度それが「あるべき人間」として内面化されるが否や、ますます拡大解釈されていくことになる。「自己決定」できることこそが「正常」であるという感覚を制御できなくなる。そうしてわれわれは、かえって目の前にある“自己決定できない”現実に不条理を覚え、その現実に苦しめられるようになるのである。
4.「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の再来
(1)「トランスヒューマニズム」と「ポストヒューマニズム」
さて、以上の議論を通じてわれわれは、「自律する主体」=「ヒューマニズム」=〈自立した個人〉から、「自己決定する主体」=「反ヒューマニズム」=〈自立した個人〉へと至る人間的理想の変遷について見てきた。ここからは、いよいよ議論を「ポストヒューマン時代」の問題に接続させていくことにしたい。
冒頭で触れたように、本論では、今日のわれわれがビッグデータ、AI、ロボット、生命操作などの技術的進展を経て、身体と機械、脳とAI、治療と人体改造の境界が曖昧となっていく時代を生きていること、そしてそれは、これまで自明とされてきた「人間」の概念が通用しなくなるという意味において「ポストヒューマン時代」と呼ぶべきものであると述べてきた。改めて注目したいのは、ここで言う自明とされてきた「人間」とはいったい何を指しているのかということである。
ひとつめの解釈は、それが“生物存在としての人間”を指すという考え方である。特にその際、R・カーツワイル(R. Kurzweil)のように、科学技術が身体や脳といった人間の生物学的限界を突破させ、人間性をこれまでなかった水準にまで強化(エンハンスメント)させるという点を強調するなら、われわれはそれを「トランスヒューマニズム」(transhumanism)と呼ぶのが適切だろう(24)。
ただしここにはもうひとつの解釈がある。それは、ここでの「人間」が「ヒューマニズム」を指すという考え方である。そしてその代表は、R・ブライドッティ(R. Braidotti)の提唱する「ポストヒューマニズム」(posthumanism)である。ブライドッティの想定によれば、新たな技術的状況が生みだす“ハイブリッドな存在”は、これまで「ヒューマニズム」によって引かれてきた境界線をよりいっそう曖昧なものにする。そしてそこから文化と自然、生命と物質、生命と機械、人間と動物、人間と地球といった二項対立が克服された新たな「主体」の概念、「ポストヒューマン的主体性」(posthuman subjectivity)を構想できるようになるというのである(25)。
以上の議論を経てきたわれわれには、ブライドッティの意図が分かるはずである。ブライドッティは、排除や抑圧の元凶となる境界線を解体していく「反ヒューマニズム」の方法論を受け継ぎ、今度はそれを人間という枠を超える形で、つまり脱人間中心主義という形で試みようとしているのである。
本論にとってこの議論は、二つの意味において示唆的である。そのひとつは、ここでの試みが境界の解体という“理念”を先行させた結果、「ポストヒューマン的主体性」という名の、あらゆるものが包摂された正体不明の何ものかに行き着いてしまうということである(26)。そしてもうひとつは、そうした理念としての「あるべき何ものか」への到達が、まさしく科学技術を契機にして実現されると考えられているところである。
とりわけ重要なのは後者だろう。例えば「世界トランスヒューマニスト協会」(World Transhumanist Association)の後継団体と思われる「ヒューマニティ+」(humanity+)のウェブサイトには、「トランスヒューマニズム」が次のように説明されている。
こうした主張を耳にするとき、しばしばわれわれは暴走した科学者や大衆の欲望を見いだすことで満足してしまっているかもしれない。しかし「老化の排除」も「能力強化」も、ここではそれほど重要ではない。むしろ注目すべきは、その試みの射程内に、教育では実現できない水準における人間性の改善という問題意識が含まれていることである(28)。
つまり人々を「ポストヒューマンな存在」へと駆り立てているのは、単なる個人的な欲望であるとは限らない。重要なことは、人々が「ポストヒューマンな存在」になる目的とは「あるべき人間(社会)」の理念を現実化させるためであるとの主張が、ここから読み取れることなのである。
「ポストヒューマニズム」と「トンランスヒューマニズム」は、異なるもののように見えて共通点がある。それは「あるべき何ものか」という理念に対する多大な信頼であるとともに、科学技術を含んだ人間の潜在能力によって、その理念を具現化できると信じているところに他ならない。
(2)「思念体」としての「ポストヒューマン」と、「ヒューマニズム」の再来
冒頭で触れたように、本論では、「ポストヒューマン時代」の到来を「人間疎外」や「管理社会」という文脈から批判することには限界があると述べてきた。繰り返すように、われわれが掲げてきた人間的理想を実現していくためには、われわれはむしろ「ポストヒューマンな存在」になったほうが良いとの結論が導出されうるからである。
多くの議論を経てきたわれわれには、このことが意味する内容をより深く理解することができるはずである。かつて「自律した主体」という人間的理想が「反ヒューマニズム」によって批判された際、そこで「理念の間隙」を埋める突破口となったのは「自己決定する主体」の概念であった。しかしこの人間的理想は、それが高度に実現されていけばいくほどに、かえって人々を苦しめるようになっていった。というのもわれわれは、「意のままにならない他者」と関わり、「意のままにならない身体」を持つ存在である限り、それに起因する根源的な不平等、「存在論的自由」の不可能性に直面することになるからである。
しかしだからこそ、「ポストヒューマン時代」の到来は、ここに新たな状況を突きつけていると言えるのであった。なぜなら「ポストヒューマン時代」の核心部分とは、まさしく人間存在が科学技術の潜在力によって、自身を「意のままにならない他者」や「意のままにならない身体」の桎梏から解放させる契機をもたらすところにあったからである。
再び想像してもらいたい。人々がAI、ロボット、サイボーグ、VR(メタバース)、人体改造によって「ポストヒューマンな存在」になることは、「存在論的自由」を拡大させ、人々の「自己決定」に貢献するとは言えないだろうか。例えば難病や障碍に苦しむ多くの人々は、それによって「存在論的自由」と「自己決定」を拡大できるとは言えないか。ならば老いに苦しむ多くの高齢者やその家族、あるいは差別や偏見に苦しむ多くの人々もまた同様であるとは言えないか。
また「ポストヒューマンな存在」になることは、われわれの生からあらゆる生物学的な「不条理」を取り除く。それゆえ容姿や才能を含んだ“生まれつき”という名の「不条理」に苦しむ人々は、それによって「存在論的自由」と「自己決定」を拡大できるとは言えないか。ならば属性や立場に拘束され、嫌な親族、嫌な隣人と関わり続けなければならない「不条理」に苦しむ人々もまた同様であるとは言えないか。
このようして人間存在は、「ミクロな権力」の元凶となる「意のままにならない他者」から、そして根源的な不平等の元凶となる「意のままにならない身体」から、ついに自分自身を解放させる。そしてそれは、まさしく「自己決定する主体」という人間的理想を「受肉化」させ、より完全なものへと接近させる行為であると言えるのである。
だがここに、本稿で着目したい最大の逆接がある。前述したように、「自己決定する主体」の概念は、もともと普遍的な「人間」への批判、「ヒューマニズム」を糾弾する「反ヒューマニズム」の文脈から出てきたはずのものであった。ところがここでは、差別や偏見からの解放を求める運動が、「自己決定する主体」を介して、そのまま継ぎ目なく「意のままにならない他者」や「意のままにならない身体」からの解放へと横滑りしていくのである。
それだけではない。AI、ロボット、サイボーグ、VR(メタバース)、人体改造を通じて希求されている何ものか、それは結局、ある種の普遍的な「人間」へと向かっていくようには見えないか。
それは、前稿で引き合いに出した「脳人間」を想起するように、身体からも、関係性からも浮遊した「思念体」とでも言うべき存在である。「思念体」は、身体を持たない精神体であるために、生まれ持った何ものにも拘束されなければ、属性も、立場も持たない。そうした高度に抽象化された“ニンゲン”へと収斂していくである。
このことは何を物語っているのだろうか。実のところわれわれは、一度として「ヒューマニズム」の外部になど出たことはなかったのである。「反ヒューマニズム」だろうと、「ポストヒューマニズム」だろうと、それは結局「ヒューマニズム」という「大きな物語」の内部で行われた、「小さな物語」をめぐる紛争に過ぎなかったのである。
人間は、自らを取り巻く世界を作り替えることによってこそ幸福になれる。人類は、理性の力を通じて自分自身を解放し、それによってあるべき本来の形へと到達する。「ヒューマニズム」とは、こうした人間存在に対する“信仰”であって、その起原はイエス=キリストによる救済の物語にまで遡る。それは前稿において本論が、〈無限の生〉の「世界観=人間観」と呼んできたものそのだろう。
われわれはかつても、そしていま現在もなお、その「大きな物語」を生きているのであり、普遍的な“ニンゲン”になることをずっと待ち望んできたのである。
(3)「ヒューマニズム」の亡霊
だが、それはやはり幻想だったのではないだろうか。「自己決定する主体」の理想は、結局ある種の“亡霊”に過ぎず、「ヒューマニズム」はやはりすでに「死んで」いたのではないだろうか。
前稿で述べたように、一見あらゆる「存在論的抑圧」から解放されたかのように見える「脳人間」でさえ、実際には“脳”という物質そのものに縛られていた。そのことが象徴するように、人間存在は「意のままにならない他者」や「意のままにならない身体」が織りなす無数の「存在論的抑圧」、「ミクロな権力」からは絶対に逃れることなどできない。
それにもかかわらず、「ポストヒューマン時代」の科学技術は「存在論的自由」に更なる飛躍を与え、われわれはかえってその幻想に振り回されてしまうのである。
それは「自己決定する主体」という幻想であり、〈自立した個人〉という幻想であり、「あるべき人間(社会)」を絶えず求める「ヒューマニズム」という幻想である。
換言しよう。それは今日広く信じられているように、われわれが本来何ものにも介入されることなく自分自身でいられるはずだという幻想であり、われわれが理念として思い描いた自分自身になることが可能で、そうした自分になることこそが生きることの目的であるという幻想なのである。
そもそも「自己決定する主体」において、何かを決定しているところの、この自己とは何ものなのだろうか。「意のままにならない他者」から、そして「意のままにならない身体」から解放されたいと願っている“この私”とは何かということである。
「みんなちがって、みんないい」、「誰ひとり取り残さない」という言葉だけが虚空に踊るなか(29)、確かにわれわれは、おのれと他人とを比較して、なぜあの人だけが、なぜこの私だけがと簡単に病んでしまう。気に入らない人間、気に入らない言説、気に入らない身体の部位や性質を見つけだしては、それによってこの私は「自分らしく」いさせてもらえないと思ってしまう。
しかしわれわれは忘れているのではないだろうか。そのように感じている“この私”それ自体が、そうした「意のままにならない他者」との関係性、「意のままにならない身体」との相互作用によって形作られ、そしていままさにそのような形で成立しているという事実をである(30)。
「ヒューマニズム」はわれわれに、いかなる存在にもなれると説く。だが人間存在にできること、それは望んだ自己を実現することでも、何ものかから自分自身を解放することでも、あるいは世界をあるべき形に作り替えることでもない。「意のままにならない他者」と「意のままにならない身体」とに拘束され、また時代というそれ自体意のままにならない多大な変容の渦中において、われわれにできることとは、自らに与えられた現実を少しでも「より良き生」として生きること、そのために等身大の格闘を続けていくということだけである。
「ヒューマニズム」が忘却してきたもの、あるいは意図して目を伏せ続けてきたものとは、こうした〈有限の生〉を生きていくことの意味、そして「意のままにならない存在」とともに生きることの作法や知恵と呼ぶべきものだったのである。
この先われわれは、「ポストヒューマン時代」の社会的変容として、〈生の自己完結化〉と〈生の脱身体化〉が進行していく様子を目のあたりにすることになるだろう。それは市場経済、官僚機構、ネット空間からなる高度な社会システムによって作りだされる、生身の他者との接触や関係性を最小限のものとし、身体に由来する不都合な影響を最小限のものとするような〈自己完結社会〉の成立である。
そしてそうした変容によって、われわれは生活上の事実として、紛れもなく「存在論的自由」を獲得し、「存在論的抑圧」から少しずつ解放されていく。しかしその度にわれわれは、「自己決定」への幻想をますます増幅させ、これまで気にもとめていなかった、この私を拘束する何ものかの存在に戦慄し、圧倒され、ますます苦しみを深めることになるのである。
われわれはそこで、「自由」、「平等」、「多様性」、「共生」がいまだかつてない形で実現した社会を築きあげるだろう。だがその「ユートピア」は、高度に自律化した社会システムと、「自己完結」した人々による互いの生への不介入――包摂や多様性を装った「不介入の倫理」――によって成立している危うい世界である。
そこでは新たな形式を纏った「排除」さえ生じてくるかもしれない。それは自分以外の何ものかをこの世界から締め出す「排除」ではなく、「自己決定する主体」として、「あるべきこの私」になりきれない自分自身を「排除」したいと願うような恐るべき感情である。「ユートピア」には、「あるべきもの」以外は必要ない。いや、「あるべきもの」以外は存在してはならないからである。
5.おわりにーー今後の議論に向けて
以上を通じてわれわれは、「ポストヒューマン時代」を読み解く手がかりとして、改めて「自己決定」をめぐる人間的理想に焦点をあわせ、それが「ポストモダン」や「反ヒューマニズム」といった時代状況のもと、いかなる思想的な経緯で成立してきたのかということについて見てきた。そして本論では、それが普遍的な「人間」、人類の進歩、人間性の完成を謳った「ヒューマニズム」という「大きな物語」との関連において、いかなる矛盾を抱えているのかについて見てきたのであった。
仮に「ポストヒューマン時代」の趨勢にブレーキをかけることができるものがあるとするなら、それは唯一、「ヒューマニズム」を影で支えてきた「世界観=人間観」を根源的に批判することができる思想だけだろう。
ここでは最後に、本文では十分に踏み込めなかった論点について取りあげておきたい。
最初に指摘したいのは、いまなお人文科学においてオーソドックスな位置を占めている「不可視化された権力の可視化」というアプローチの限界についてである。前述したように、このアプローチはM・フーコーによる「ミクロな権力」の分析に由来し、いまなおマイノリティの権利擁護を試みる際などに大きな役割をはたしている。ところが近年、差別への糾弾は加熱しすぎる傾向があり、意図せずして新たな抑圧を作りだす矛盾に直面しているようにも見えるのである。
確かにわれわれは、古びた境界線を解体し、何ものかを定めた言説を作り替えていく必要がある。しかしその目的は、あくまで時代に合うよう境界線を引き直すことであって、境界線それ自体、あるいは「ミクロな権力」それ自体から人々を解放することではない。
もしもわれわれが「ミクロな権力」それ自体からの解放を目指すとするなら、われわれは「自己決定する主体」が陥った、あの「存在論的自由」の「無間地獄」にそのまま没入してしまうだろう(31)。繰り返すように、人間社会から何かを定める規範や標準や境界線それ自体が消えることなど決してない。問われているのは、われわれがこうした事実とどのように折り合いをつけていくのかということなのである。
もうひとつの論点は、今日しばしば新自由主義批判と合わせて語られている、「自己責任論」をめぐる問題についてである。
その一般的な主張によれば、今日わが国で拡大している格差や貧困は、新自由主義政策の結果によるものであるにもかかわらず、そうした事態にあえぐ人々は、それを社会的に解決すべき課題とは見なさず、ひとりひとりが引き受けるべき個人的な問題として認識する傾向がある。そしてそうした意識は、実のところ資本の増大が目論む「ミクロな権力」の働きに他ならないというものである。
しかし本論の立場からすれば、この想定には問題がある。例えば確かに、新自由主義政策は国民に自助を求めるが、これは国家の役割を縮小させるという明確な目的に基づく「マクロな権力」の行使である。それよりも重要なことは、「自己責任」を規範として尊重してきたのは、何より「自律した主体」や「自己決定する主体」をめぐる人間的理想の方であったということである。
「自律した主体」は、思考、判断、行動などを他人任せにすることなく、自らの責任のもとで行うことを美徳とする。また「自己決定する主体」は、「自己決定」として選択したものの結末を他人に転化することなく、自らの責任として引き受けることを美徳としてきたからである。つまりここに「ミクロな権力」が働くとするなら、その責めはむしろ、亡霊のようにわれわれにつきまとっている「ヒューマニズム」にこそ求められるべきなのである(32)。
また「自己責任論」を問題にしようとするなら、われわれはそれとはまったく別のところに視点を向けてみる必要がある。それは今日われわれに内面化されている「自己責任」が、本来ひとりの人間が背負えるはずのない次元、いわば「無限責任」ともいうべき水準にまで拡張されて理解されているという点である。
このことを暗示しているのは、近年話題となった「反出生主義」(anti-natalism)――われわれは新たな生をこの世に生みだすべきではないし、人類は早々に絶滅すべきであるということを論理的に正しい命題として掲げる――が近年にわかに共感を呼んでいることである(33)。
筆者の見立てによれば、その背後にある心情とは、将来不幸になるかもしれない何ものかをこの世に生みだしてしまうことへの責任など、自身は到底背負い切れるものではないという感情の裏返しである。
われわれはすでに、自らが存在してしまうことに起因する、あらゆる迷惑、あらゆる影響、あらゆる帰結の責任を、換言すれば、はじめから背負えるはずのない責任を、自分一人で背負おうとしてクタクタにすり切れてしまっている。そしてこの惨事を引き起こしているものもまた、突き詰めれば、あの「ヒューマニズム」という名の亡霊のもとに行きつくのである。
注
上柿(2022b)、上柿(2022c)。このとき使用したスライドは、筆者のウェブサイトからダウンロードすることができる。
本稿は、前稿と同じく上柿(2021a、2021b)において論じた議論が土台となっている。本稿で用いる〈自己完結社会〉、〈生の自己完結化〉、〈生の脱身体化〉、〈無限の生〉、〈有限の生〉、「無間地獄」、「脳人間」、「思念体」といった概念の詳しい説明については同書を参照のこと。
ロック(1968)、ルソー(2005)。
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カント(1976)。
ヘーゲル(1994)、マルクス(1956)。
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フロム(1965)。
リオタール(1986)。
フーコー(2020)。
フーコー(1986)。
フーコーの試みはしばしば「人間の死」とも呼ばれるが(フーコー 2020)、これはF・ニーチェ(F. Nietzsche)の「神の死」に倣って用いられる表現である。なお、こうした動向を「反ヒューマニズム」として位置づける方法は、ブライドッティ(2019)から学んだ。
ボーヴォワール(1997)。
サイード(1993)、古谷(2001)。
例えばローズ(2016)は、心理学を中心とした「心的なもの」(psy-)をめぐる科学的言説を、「系譜学」として読み解きつつ、それがいかなる形の権力装置として作用してきたのかについて論じている。
社会構築主義が孕んだ方法論としての問題についてはボゴシアン(2021)が詳しいが、そこで社会構築主義が批判されるのは、それがしばしば自然科学的な言説でさえも社会的に構築されたものだと主張してきたからである。
フーコー自身もおそらくこの問題を認識していただろう。フーコーの新しさは、まさしく国家や資本を超えて、関係性に一般的に内在するような「ミクロな権力」の形態を明らかにしたことにあった。ところがフーコー自身の議論においても、「ミクロな権力」として見えるものが、結局は国家や資本に還元できると読める箇所がある(フーコー 1986)。また晩年になると、フーコーはカントの啓蒙論を再評価し、「意志の自律性」を肯定的に論じるようになるなど、さらに立ち位置が揺らぐことになる(フーコー 2010)。
ここでの表現は、岸のエッセイ「手のひらスイッチ」(岸 2015:111-112)からひとつの手がかりをえた。
ここでの「存在論的抑圧」と「存在論的自由」をめぐる問題については、上柿崇英(2021b)の第10章を参照のこと。
インフォームド・コンセントは、本論では「意志の自律性」として位置づけられるが、医療現場などでは、そうした「自律」が結局は万全のものにはなりえないことがさまざまな形で指摘されるようになっている(島薗/竹内 2008)。
例えば経済産業省(2021)。多様性の議論は、もともと持って生まれた避けがたい特徴や属性に対する差別や偏見、不平等を是正するためのものとして始まったが、今日ではそれが「自己決定」の問題とシームレスに結合する傾向が見られる。こうした傾向は、特にジャーナリズムやマネジメントの現場において見られ、例えば船越(2021)は、多様性を外見など可視的な「表層的タイバーシティ」、学歴など不可視的な「深層的ダイバーシティ」、集団によって共有される「カルチュラル・ダイバーシティ」の三つに整理しつつ、今日求められているのは、個々人が組織への帰属感と同時に「自分らしさが発揮」でき、それが周囲に認められていると感じられるインクルージョン(inclusion)であると述べている。
カーツワイル(2007)。
ブライドッティ(2019)。
実はブライドッティの試みには、「生気論的唯物論」(vitalist materialism)、「ゾーエー中心主義」(zoe-centered egalitarianism)といった概念を通じて、「反ヒューマニズム」の弱点となりうる社会構築主義を退けるという意図が含まれており、この点は興味深いと言える。しかしその先に提示される「ポストヒューマン的主体性」は、はたして有効なものなのだろうか。それは境界の解体という思想上/理念上の解決策としては有意味であっても、いままさにわれわれが何を目標とすべきかという問題の次元においては、「自律した主体」や「自己決定する主体」がはたしてきたほどの積極的な意味を持ち合わせていないように見えるのである。
「トランスヒューマニズムとは何か?」( 2023/03/16閲覧)を参照。
前掲のウェブサイトからは、「トランスヒューマニズム」の射程に、決して完全とは言い難い人間性(生物学的な本性を含む)を技術の力で改善するということが含まれていることを読み取ることができる。「トランスヒューマニズムの哲学」( 2023/03/16閲覧)。
「みんなちって、みんないい」は大正時代の詩人金子みすゞの言葉、「誰ひとり取り残さない」は、持続可能な開発目標のキャッチコピー。前者は近年多様性を肯定する言葉として盛んに引用されるが、はたして金子は自身の作品がこうした形で流布されることを望んだだろうか。
こうした〈自己存在〉の概念を、筆者はこれまで〈存在の連なり〉という概念を用いて説明してきた。詳しくは上柿(2021a、2021b)を参照。
われわれはその典型的な行き詰まりを、ブライドッティの「ポストヒューマン的主体性」としてすでに見てきた。また、その行きつく先こそが、本論で繰り返し言及している〈自己完結社会〉であり、「脳人間」世界なのである。
実際、もしも新自由主義政策が廃止され、高度福祉課によって格差が縮小したと仮定しよう。はたしてそのとき、われわれの内面から「自己責任」の意識が消えることなどあるのだろうか。いやむしろ、事態はその逆であるようにさえ思われる。社会的サービスが充実しているのなら、なおさら人々は自らの選択の結果を自分自身で引き受けるべきだと考えるようになるのではないだろうか。
ベネター(2017)。「無限責任」の概念および、本論と「反出生主義」の関係については、上柿(2023)において詳しく論じた。
参考・引用文献一覧
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上柿崇英(2022b)「ポストヒューマン時代が揺がす人間らしさ――思想・哲学の視点から」総合人間学会第16回研究大会、大会シンポジウム、発表資料
上柿崇英(2022c)「「ポストヒューマン時代」をめぐる哲学/思想的諸問題について――「無用者階級」、「脳人間」、〈自己完結社会〉、〈無限の生〉の「世界観=人間観」などの視点を中心に」、総合人間学会第16回研究大会、ワークショップ、発表資料
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N・ローズ(2016)『魂を統治する――私的な自己の形成』堀内進之介/神代健彦監訳、以文社
J・ロック(1968)『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波文庫
(出典)上柿崇英(2023a)「「ポストヒューマン時代」と「ヒューマニズム」の亡霊――「ポストモダン」/「反ヒューマニズム」状況下における「自己決定する主体」の物語について」『総合人間学』、総合人間学会、第17号、 pp.34-63