【書評】亀山純生「現代日本の〈閉塞社会〉転換への斬新な問題提起――上柿崇英著『〈自己完結社会〉の成立』(農林統計出版、2021)を読む」
ここでは、筆者が学生時代から大変お世話になった倫理学者の亀山純生先生(東京農工大学名誉教授)が、唯物論究協会の電子ジャーナル「唯物論研究ジャーナル」に投稿してくださった、拙著『〈自己完結社会〉の成立』についての書評を、ご本人の許可を得て再掲しています。
現代日本の〈閉塞社会〉転換への斬新な問題提起――上柿崇英著『〈自己完結社会〉の成立』を読む
はじめに
著者は全国唯研所属の新進気鋭の哲学研究者である。その著者は、同世代の哲学・思想研究者と共に独自の討論誌『現代人間学・人間存在論研究』に拠って、6年以上もの間、現代社会批判と人間存在・人間学をめぐって濃密な共同討論を積み重ねてきたと言う。本書は、その成果を広く世に問うた渾身の力作である。即ち、現代日本社会を独自に「〈自己完結社会〉」と新しく規定し、そこでの生の矛盾を凝視する中で改めて根底から人間存在を問い直し、近代的哲学の徹底克服と新たな人間観を提起する極めて大胆で刺激的な骨太の書物である。そこには、現代日本の哲学界に対してはもちろん、〈実践的唯物論〉にとっても、現代日本の〈閉塞社会〉転換を目指す上で、理論的死角を衝く斬新な視角と重要な論点が含まれている。そこで以下、私なりに本書の意義と検討すべき共同の課題について述べてみたい。
1.本書の概要
本書は、五部11章(序論含む)から成り、それを上下二巻に配した600頁近い大作である。まず、目次を中心に本書の概要を確認しておきたい。
上巻ではまず「まえがき」で、書名に掲げる本書の主題の「〈自己完結社会〉」の意味とこれを主題化する理由が簡潔に示される。
これを受けて「序論――本書の構成と主要概念について―――」では、現実の〈問題〉に応答する生きた「思想」の必要とそのための「現代人間学」の「方法」が示され、それにより本書では「三つのアプローチ」から人間存在の根底を析出することが予告される。
スタートは「第一部 時代と人間への問い――〈自己完結社会〉へのまなざしーーー」である。
「第一章 理念なき時代における“時代性”」では、21世紀が、「明確な理念」を持っていた20世紀とは異なり、高度化した現代科学技術を介した「巨大な〈社会装置〉」への依存による〈自己完結社会〉が成立し、理念が無効となる時代であることが示される。そこから、今なお20世紀型理念をふりかざす現代哲学が批判される。「第二章 人間学の“亡霊”と〈自立した個人〉のイデオロギー」では、この20世紀型理念の典型として「〈自立した個人〉」を取り上げる。そして、その核心の「自由」(他人の束縛からの解放)=自己決定(自律)が高度情報・消費社会において〈自己完結社会〉として、既に実現していることが示される。それなのになお〈自立した個人〉を理念と掲げるのは現代人を“亡霊”に憑りつかせ、他方で永遠に実現しない「本来の自己実現」追求の地獄苦に陥れることを照射する。
続いて、人間存在を改めて問う第一のアプローチとして「第二部 人間学的〈環境〉の分析と人類史における連続性/非連続性」が立てられる。
「第三章 人間存在と〈環境〉」では、従来の環境科学・環境倫理学の環境=自然を批判して、人間存在にとっての〈環境〉は「自然生態系」と共に、社会=「人為的生態系」であり、それは人工物・社会制度・意味体系の三契機からなる「〈生〉の舞台装置」であることが示される。これを受けて「第四章 人類史的観点における人間的〈環境〉の構造転換」は、人類史の第一の画期=農耕の登場による社会環境の成立、及び人間存在と自然環境との関わりの「間接」化、第二の画期=「近代社会様式」の成立により社会環境と自然環境の「切断」、そして第三の画期の現代社会は社会と人間存在の「切断」と特徴づける。
第二のアプローチとして「第三部 人間的〈生〉の分析と〈社会的装置〉」が立てられる。
「第五章 人間的〈生〉の分析と〈生〉の三契機」では、人間的生の三契機が①「〈生存〉」、②社会の中の「存在」、③世代間「〈継承〉」と示される。そして現代社会(→〈自己完結社会〉)では、生の三契機が市場など〈社会的装置〉への「委託」(①〈生存〉=貨幣の獲得等)となり,「〈生〉が不可視化」していることが示される。「第六章 〈生〉を変容させる〈社会的装置〉とは何か」では、「意味」で自他の矛盾を調節する「〈生〉の舞台装置」たる社会=「生活世界」に埋め込まれていた〈社会的装置〉が自立化して、「生活世界」を解体し「意味」なき自動調節装置と化したことが示される。
第三のアプローチとして「第四部 人間的〈関係性〉の分析と〈共同〉の条件」が立てられる。
「第七章 〈関係性〉の人間学」では、「生活世界」の人間関係は生身の他者との「〈我―汝〉の構造」にあり、「〈関係性〉」の内実が「〈間柄〉」「〈距離〉」等として示される。そして、〈自己完結社会〉では、この意味ある〈関係性〉が不在で、互いの「つぶし合い」の「0か1かの〈関係性〉」となると言われる。「第八章 〈共同〉の条件とその人間学的基盤」では、「生活世界」における「〈共同〉」の三つの「成立要件」とそれを実現する「“仕組み”」が「〈役割〉〈信頼〉〈許し〉の原理」から論じられる。そして、〈自己完結社会〉ではこれが無く、他者「不介入の倫理」が存すると示される。
下巻に入って「第五部 〈有限の生〉と〈無限の生〉」では、本書の内容上もう一つの核をなす世界観が詳しく論じられる。
「第九章 〈自己完結社会〉の成立と〈生活世界〉の構造転換」では、〈自己完結社会〉の成立過程が日本近代史を5期に整理して示され、市場・官僚制等の〈社会的装置〉の整備・自立と〈生活世界〉の解体過程、その中で人間が「旅人」を経て寄る辺なき「漂流人」と化すことが描写される。「第十章 最終考察―――人間の未来と〈有限の生〉」では、〈自己完結社会〉の思想原理は自由を絶対化する「〈無限の生〉」の世界観・人間観であり、その「原型」は近代哲学にあることが示される。そしてこの〈無限の生〉の世界観は、人間を「無間地獄」苦に陥れること、さらに独特の思考実験を介して、AI・ロボット等の科学技術高度化により生の自己決定=自殺という逆説で完結すると指摘される。これを踏まえて本書は〈有限の生〉の世界観への転換を提起し、それを生きる「五つの原則」等を示しつつ、生の意味は〈有限の生〉の〈美〉において成立すると強調する。そしてこれを基礎づける〈文化〉の学がこれからの哲学の課題だと提起して、本書は締めくくられる。
以上の大雑把な紹介からだけでも、本書の提起の独自性と斬新さの一端は窺えよう。本書は後述の如く独自の「基礎概念」によって緻密に展開され、そこに本書の提起の斬新さが具体的に示されるのだが、紙幅の関係で割愛し、以下、専ら私の関心から骨格的論点について述べることとする。
2.本書の内容上の特徴と意義
(1)現代社会=「〈自己完結社会〉」の特徴づけ
本書の第一の特徴と意義は、人間存在のあり方に注目して、21世紀日本で本格的に姿を現わしたAI技術による高度情報・消費社会を独自に「〈自己完結社会〉の成立」と特徴づけたことである。それは、「高度化した社会システムへの依存」により、生身の他者・人間と「直接的関わりを持つ必然性」を失い、他者なしに自己の世界だけで生きる「生の自己完結化」した社会をさす。
日本では1970年代以後、ぜいたく品や生活物資だけでなく余暇や育児・家事・介護など諸個人の生活活動自体も市場化・サービス商品化される消費社会が成熟し、福祉等行政のサービス化と相まって、生活主体がサービス利用者・消費者と化した。このあり方は、1990年代以来のAI技術の急激な発達によるグローバルな高度情報社会化で一層強化され、生活に必要なモノ・サービスをボタン操作一つで入手・利用可能とし、さらに人とのつながりも情報化し、生活空間は人工空間・サイバー空間と化した。その中で、諸個人の世界は自己と利用対象との関係に収斂し、生身の他者との関係を無用化し、さらには自己の生身の身体との関係も固有の位置を失って身体をも専ら利用対象に転化する(AIによるロボット技術・生命科学技術の発達が拍車をかける)。
本書はこのような高度情報・消費社会の下での人間の存在様式を市場・国家・情報等の「社会的装置」の「ユーザー」として規定し、その生を「生の自己完結化」と特徴づける。そして、そこでの生の矛盾を生身の他者不在・「脱身体化」による「〈関係性〉の病理」(他者への不信と「恐怖」)・「生の混乱」(「生の意味」不在)と注目する。
このような〈自己完結社会〉との特徴づけは従来の哲学・思想界ではほとんど見られず、私は基本的に大いに共感する。なぜなら私は、日本の高度情報・消費社会化が構造的に生み出す人間のありようを、特に21世紀に表出した、コンビニとネットがあれば孤立を居心地がよいとする〈積極的引きこもり〉現象に注目して、その生き方を他者との生身の関わりを拒否して孤立して生きることを是とする〈孤人(主義)〉=〈自己チュウ〉と特徴づけてきた。そして、そこにおける生身の他者不在・生身の身体(自然性)不在と道徳性・自己確証・生の実感・生命感の不在(〈喪失〉)との関係に特に注目して〈人間の危機〉と指摘してきたからである(その総括は亀山監修『風土的環境倫理と現代社会――〈環境〉を生きる人間存在のあり方を問う』2020)。
本書は、私のような現象的理解を超えて社会概念の独自の精緻な検討を踏まえた再定義に立ち返って社会構造論として本格的に位置づける点で〈実践的唯物論〉の深化を提起している。さらに、AI技術の高度化によるロボット技術・生命科学技術等の〈発達〉を見据え、この「〈自己完結社会〉」の成立を人類史上第三の画期(「特異点」)と重ね、近未来のAI社会を射程にして人間論を展開し、「ポストヒューマン」論に対しても根源的論点を提示している点で、画期的と思われる。
(2)戦後の〈自立した個人〉理念の歴史的批判
これと不可分の第二の意義は、この「生の〈自己完結化〉」と「〈自己完結社会〉」は戦後日本社会が理想としてきた「〈自立した個人〉」による自由な個人主義社会の歴史的完成態だと明らかにしたことである。大塚久雄や丸山真男が象徴する戦後理想の「自立した個人」(の追求)は、前近代的共同体否定の名で「〈生活世界〉」(地域社会)を解体して消費社会に依存した大都市の「〈郊外〉空間」において象徴的に実現し、それが高度情報・消費社会で全社会化したと本書は指摘する。
そしてこの「〈自立した個人〉」とは、思想的核心を西洋近代哲学由来の人間の普遍的本質=「存在論的自由」に措き、他人に妨げられずに「自己決定」する「自律的個人」であると指摘する。そしてこの「自律的個人」=「〈自立した個人〉」は、生身の他者(関係)がない「〈自己完結社会〉」において全面実現すると言う。そこから、「〈自己完結社会〉」の哲学的母胎である人間の普遍的本質論に立つ西洋近代哲学の全面見直しを提起する。
このような〈自己完結社会〉と近代の〈自立した個人〉理念との関係の指摘もとても重要である。私も高度情報・消費社会の〈孤人(主義)〉は、近代日本の個人主義思想、特に戦後社会が国民的目標とした〈共同体から解放された自立した個人〉=〈自己決定できる個人〉(「自律的個人」)の延長(実現)と見てきた。学校教育でロビンソンクルーソーのDo it yourselfマインドを理想化し、家庭教育でも〈自分のことは自分で決めよ〉が基本目標とされてきたのが象徴だ、と。そして、〈個人の自立〉を理想化する思想家や市民の多くが、自分が田舎(又は下町)の共同態の中で育ち、共同性の中でこそ自己が成立したことを忘却し、自立的個人は生得的に存在する(種子のように)と見なしてきた、と。さらに、その背後には、デカルト以来の近代哲学主流が、特に社会思想的文脈では、アプリオリな個人(自我)を人間の本質とし、他者関係を専ら外的関係とするアトム的個人とみなしてきたことがあり、その意味で〈孤人主義〉は近代個人主義の帰結と指摘してきた。
本書の指摘はこれと重なり、近代主義の思想・哲学批判が現代共有の課題となる中でなお深まってはいないと思われる近代的個人概念の根本的見直しの重要な提起と言えよう。
(3)独自の近代的人間観・世界観批判と〈有限の生〉の人間観・世界観の対置
本書の第三の特徴と意義は、「〈自己完結社会〉の成立」によって顕在化した生の矛盾と生の苦しみに注目し、それ故に「〈自己完結社会〉」の脱却の必要を示すとともに、その焦点としてその背後の近代的世界観=人間観の転換を、全く独自の仕方で提起することである。
即ち、「〈生の自己完結化〉」とは〈意のままにならない〉生身の他者・身体の不在化による「〈意のままになる生〉」の成立であるとする。そしてその背後には、人間の普遍的本質を「存在論的自由」とし、自由の拡大(障害・限界の除去、自然や他の存在の支配)を求めて際限なく努力する人間を「本来の人間」とする近代的人間観、そして世界を人間の自由の際限なき実現の場と見なす近代的世界観があると指摘する。
本書はそれを独自に「〈無限の生〉の世界観=人間観」と特徴づけ、近代の「自立した人間」理念の根底をなすと指摘する。そして、この「〈意のままになる生〉」が「〈関係性〉の病理」・「生の混乱」を生み、永遠に達成できない〈無限の生〉を「本来の人間」の目標とすることが現代人の「無間地獄」の根幹をなすとする。その上で、これを脱却する基本方向を、〈意のままにならない生〉という「〈現実〉」に即した「〈有限の生〉の世界観=人間観」と提起し、その具体化を後述の「〈有限の生〉の五つの原則」等として示す。
確かに西欧近代哲学は大きく言えば、他者による支配・拘束から解放される政治的自由・人格的意志の自由・社会的行動の自由を人間の普遍的本質から基礎づけ、そこで自由を存在論的に拡張してきた。即ち人間を、必然性に支配される自然や機械と異なって自由意志をもつ存在とし、自然や他者・世界による制約(限界)を除去しこれらをコントロールする点に自由と人間の普遍的本質の実現を位置づけ、その無限進化を人類の発展と見てきた。かかる思想は、科学技術と資本主義の発展の中で社会思想の本流となり、大規模な自然破壊を引き起こし格差社会・強者の弱者支配を拡大してきた。これらの克服は近代批判の思想的課題になっており、その中で脱近代の参照点として東洋思想や先住民文化も注目されている。
「〈無限の生〉」理念から「〈有限の生〉の〈現実〉」直視への転換という本書の提起はこれと重なり、しかも一人一人の人間・自己の生身の生の次元に徹底的に定位している点は、従来の哲学の理論的死角を衝くものとして斬新で画期的である。
それを典型的に示すのが「〈有限の生〉の五つの原則」である。即ち、①「生物存在の原則」(生物的生存・身体的存在故の制約の不可避性の承認)、②「生受の条件の原則」(自己の出生とその場・条件の所与性の不可避性)、③「意のままにならない他者の原則」(他者は本質的に不如意であり、かかる他者との関わりの「負担」の引き受け)、④「人間の〈悪〉とわざわいの原則」(自他が共に「〈悪〉の種」をもち「わざわい」として発現させる可能性の不可避性の甘受)、⑤「不確実な未来の原則」(世界・自他の行為・生の出来事への「人知の限界」の不可避性の中で生きる覚悟)。
従来の学術的な哲学は、こうした論点を人生訓・処世術次元と見なして哲学の対象にしてこなかった。特に、理性の無限発展を原理とする近代西洋哲学は問題を類的次元に還元し、人類文明の発展によりこれらの制約(限界)を専ら克服対象、否定されるべきものとして、諸個人一人一人の生の原理には全く位置づけてこなかった。また、社会科学や社会哲学は人間を集団として考察する(個人主義を標榜する立場でも、諸個人と言う名で一括し集団的に扱う)故に、本書が注目するような生の有限性は理論的に位置づいてこなかった。それは本書が批判する〈無限の生〉の世界観に立つ諸学だけでなく、地球環境問題など科学技術や人類の有限性を見据える諸学でも、同じと言えよう。予測できなかった災害に遇った人々を〈不運な犠牲者〉とか〈社会政策の不備・矛盾の犠牲者〉次元で捉える(それ自体は重要)に止まってきたのが、その証左である。
だが、只今を生きる一人一人の人間・自己・この私の生にとっては、本書が「〈有限の生〉の原則」とするこれらの制約・有限性は極めてリアルで、否定しようもない現実である。仮に科学技術の発展により未来は今の時点での具体的限界が乗り越えられ、そこに希望をもつことはあったとしても、只今の生はこれらの限界を見つめこれと向き合う中でしかありえない。まさに生身の人間・自己の生の次元に改めて定位してこそ浮上する〈生の原則〉であり、それは従来の哲学、社会哲学・社会科学の理論的死角を衝く重要な提起である。それは、生老病死など自己の生の有限性の自覚を説く仏教哲学とも通底しつつ、しかもその内面主義を超えた新しい社会的〈生の哲学〉の提起とも言えよう。
本書はさらに、以上の論点を析出する「補助線」として設定した多様な考察の中で多くの独自の提起をしている。新たな〈環境〉概念、人間の生の三契機の独自の定式化、「〈間柄〉」を軸とする人間関係構造論による生の作法、〈美〉による生の意味付け等々。特に私の関心から言えば、〈実践的唯物論〉も含めて現代哲学の主要傾向が〈共同〉を市民的協同次元で論じることに対して(アソシエーション論など)、これと区別して「共同」概念を提起し、これとの相関関係を方向付けている点が注目される。上記でも少し触れたようにそれぞれ、上記の根本的提起の内実をなす興味深く重要な論点だが、紙幅の関係もあり残念ながら割愛し、私の関心と関わりで若干後述するにとどめる。
3.現代哲学・〈唯物論〉研究にとっての意義
さらに特筆すべき本書の特徴は、哲学のスタイル・方法にある(特に序章で詳論)。
(1)全国唯研の哲学研究の原点の再確認の提起
第一に、本書は、20世紀末以来〈理念なき社会〉化した現代日本の現実に有効に対応できない人文社会科学の「基礎概念」を下支えしてきた現代哲学の〈無力〉批判からスタートする。
そのポイントを、既存哲学が海外の哲学の紹介・文献解釈(翻訳などそれ自体は一定の意義があるも)に止まり、結局は現実と乖離し西欧哲学の模倣になっている点に見る。そして、21世紀に必要な哲学とは、「あくまで現実世界との対峙を出発点とし」、それ故に既存哲学(特に社会哲学)の基礎概念を一端括弧に入れて用いず、自らの知的営みを通して21世紀の現実を生きる自らの言葉(生活者の言葉)で現実に対応し、「自らが拠って立つべき」基礎概念や人間観等を創出することだと言う。著者自身によるこの試みの成果、言わば〈自前の言葉による自前の現実的哲学〉を世に問うたのが本書である。
このような哲学的スタンスは、時代の転換期に〈無力〉化した既存のキリスト教的価値観・哲学を疑い、日常現実の人間と生活の観察を通して新たな拠り所を模索した懐疑論的モラリストを彷彿とさせ、ある意味で哲学の原点の再確認を迫るとも言えよう。
何より、全国唯研の理論・哲学研究の原点と全く重なると思われる。私の記憶では、現在の全国唯研(唯物論研究協会)は、象牙の塔たるアカデミズムの現実乖離を批判した大学紛争を受けて、改めて現実と向き合う哲学を求めた全国若手哲学ゼミナールの中心メンバーを軸に1978年に設立された。そしてマルクスの「根底から疑え」に拠り〈ラディカルに哲学する〉をモットーに、哲学・社会科学など既存学問やそれまでの唯物論研究・マルクス主義の権威主義や解釈主義を批判し、改めて現実の人間の生の矛盾の現場から哲学や理論の概念を見直す作業に集中した。機関誌を敢えて『思想と現代』と銘打ち、人間存在をめぐる具体的問題を生活現場の言葉で思想化しようと努めたのがその象徴である(現代の人間の問題をまずどこまでも現実の生をめぐる〈自前の言葉〉で論じる本書はこれと通底する)。このスタンスは、当初こそ哲学でなくジャーナリズムとの異論も見られたが、その後現在に至るまで会員の共通理解となっており、哲学的基礎概念もそこから再検証・再構築するのが全国唯研の理論・学術研究の生命線だと、私は理解している。その点で、本書は全国唯研の思想・理論・哲学研究の原点を自ら愚直に踏みしめることで、会員・読者へのこの原点の再確認の提起にもなっている。
(2)近代哲学批判と〈実践的唯物論〉の根源的立場・方法の独自の実践
第二に本書は、著者が「新しい哲学的方法論」と言う次の四つの原則に基づいて展開が試みられている。「①優先されるべき思想の創造、②絶対的普遍主義の否定、③世界観=人間観の提示、④強度を備えた〈思想〉の希求」。私には、その核心は②にあり、それこそ〈実践的唯物論〉の立場の根本の改めての確認を示すと思われる。
本書は②の意味を、「普遍的真理」や前述した「自由」の存在論的絶対化、形而上学的「人間の本質」の実体化、「理念」の絶対化を認めないことと言う。まさしくそれらは「思想」「観念」の実体化でいわゆる観念論の基本フレームであり、近代哲学の主流をなしてきた。その典型が絶対的観念論と評されたヘーゲル哲学体系であり、これを批判して普遍主義的概念に対する感性的存在の現実性、絶対的精神に対する自然と人間身体の根源性をトータルに提起したのがフォイエルバッハであった。この理論的立場がマルクスに継承され、エンゲルスにより観念論に対する唯物論と定式化された。本書の②の原則はフォイエルバッハこの立場と基本的に重なっていると言えよう。
特に注目すべきは、フォイエルバッハがこの理論的立場に立ったのは、この立場のアプリオリな真理性によるのでなく、どこまでも現実の人間存在、心身一体の生身の人間の受苦の解決(キリスト教国家の下での受苦や自然との関わりの中の受苦の解決)を目指した故の理論的要請からであり、彼の理論的選択の結果だという点である。マルクスは彼の理論的立場を社会関係に拡張し、経済関係を基礎とする社会観・歴史観(史的唯物論)を構築したが、それは同じく生活苦・生と社会関係の矛盾の社会的解決をめざす理論的要請の帰結であった。その意味で、〈実践的唯物論〉であった。そして、この実践的哲学の立場からは、概念や理論・哲学は受苦・生の〈問題〉を人々が思想的に共有し、さらには共同による解決方向の共通理解に至るために要請されるものであった。概念・理論・理念の〈普遍性〉とは、諸個人の相異、属する文化・社会・歴史の相異を超えた共有可能性であり相対的普遍でしかなく、理性とはもともとこの共通理解に至る能力である(フォイエルバッハが理性=「普遍的感性」と性格づけるのは示唆的)。それ故、近代哲学のように理性を絶対化し、概念・理論・理念を「真理」などと実体化し絶対普遍とするのは逆立ちであり、逆に受苦や生の矛盾を発生させることになる。
この意味で、現代社会の人間の生の矛盾・「苦しみ」の解決を出発点とし、そのために「絶対普遍主義」の否定を方法とする哲学を目指す本書の立場は、フォイエルバッハらの〈実践的唯物論〉と基本的に重なる。この視点からは、①も生の〈問題〉解決のために「優先」される思想・理論の選択は当然であり、③の世界観・人間観も〈問題〉の思想的理論的共有の為に相対的〈普遍〉の範囲内で要請される。④の「強度」を本書は現実の人間の心に届くことというが、それも〈問題〉解決の共有化・共同化のために当然要請される。
もとより、本書は前述の如く既成哲学(特に社会哲学)の概念を基本的には使わないので自己の立場を〈実践的唯物論〉とは言わない。問題は名前でなくフォイエルバッハらの哲学的立場の内実である。その点では、20世紀には近代自然科学(物質科学)の真理概念を社会科学に適用し唯物論を真理とし、歴史発展法則を絶対化した史的唯物論の普遍主義化(形而上学化)の傾向も存在した。それと関連して、ギリシア哲学由来のmaterialismも翻訳語の「唯物論」もこの内実の適切な表現か否かは、当然検討されてしかるべきである(私自身は哲学原論を専門とせず、ヘーゲル的観念論に対するフォイエルバッハの立場の表現として、ともかくも歴史的に共有されてきたこの名前以上に思いつかないので、〈唯物論〉と用いているに過ぎない)。名前はともかく、立場の内実の点で〈実践的唯物論〉と重なり、本書はその原点を確認させる意義があると言う所以である。
(3)〈実践的唯物論〉の大前提の人間観の再照射
関連して第三に、本書が近代の「〈無限の生〉」に対置する「〈有限の生〉の五原則」や「生の三契機」の前述の紹介や「〈共同〉」論に示されるように、本書が人類史的視野から根底におく人間観は身体(生物的存在)と〈生身の人間関係〉を基軸にしている。それは、フォイエルバッハがヘーゲルの観念論的人間観に対置する「現実存在」としての感性的人間=〈心身統一としての人間的身体=生身の汝―我関係における「共同人」としての人間〉と骨格的に重なっている。
その点で本書の〈有限の生〉の人間観の提起は、マルクスの史的唯物論に拠る〈実践的唯物論〉の主流が専ら社会関係・社会構成体の構造・社会システムとその転換の分析に集中してきた故の理論的陥穽を照射する。即ち、マルクス自身は史的唯物論の構築に際し、フォイエルバッハの上記の感性的人間を大前提としていたことの理論的意味を忘却してきたことである。特に、マルクスのアソシエーション論は専ら自立的個人の自由な連帯とのみ強調されて、その基礎に家族等の生活共同態Gemeinschaftが前提されていたこと、つまり連帯主体として政治的社会的抑圧に屈しないと言う意味で自立的個人は汝―我の共同関係の中でこそ成立し、アソシエーションは「共同人」Gemeinmensch故に可能なことを見落としてきた。それ故、マルクス主義の権威主義化・抑圧思想化への批判も個人の自由抑圧レベルに止まり、この批判の根源的依拠点は生身の「共同人」の生であることを見落としてきた。さらに言えば、21世紀に入り人間孤立が問題視されコミュニケーション論が注目されるようになったが、理論的には今なお〈自立する個人〉を前提する傾向が強い。〈有限の生〉の提起はこれらへの鋭い警鐘と言えよう。
その意味で本書の提起は、〈実践的唯物論〉の根底にフォイエルバッハ的な生身の人間存在を改めて位置づけ直すことの提案の意味を持っていると言えよう。
4.本書が残す課題とさらなる期待――本書が提起する共同課題
(1)自前の「基礎概念」の社会哲学的共有化
前述のように本書では、「戦後の人文科学を支えてきた基礎概念」(特に社会哲学が基礎づけてきた主要概念)を基本的には使用しない。「理性、自由、平等」や「疎外」「本来の人間(性)」、「権利、連帯、正義、権力、抑圧、資本主義、全体主義」など。そして、下巻末の参考文献リストが示すように実に多くの論者の議論を膨大に参照しつつも、〈自前の〉「独自の概念」を用いて自身の哲学探究を試みる。「〈環境〉、〈生〉、〈関係性〉、〈生存〉、〈継承〉、〈間柄〉、〈共同〉、〈役割〉」「〈美〉」等。繰り返すが、このスタンス(「方法」)は「ラディカルに哲学する」出発点として重要であり、本書の果敢な心意気に敬意を表したい。
だが、哲学としてはさらに既成概念との比較検討による概念の彫琢が求められ、それは本書の提起を含めて現代社会の〈問題〉とその解決への道の共有化(特に人文社会科学との)にとって不可欠である。その点で、すでに共有化されている既成の哲学・社会哲学の概念は歴史的に彫琢されて積極的意義をもつ面もあり理論的対話の媒介となる。その意味でそれらの批判(否定でなく、Kritikの原義に即して肯定的なものと否定的なものの明確化)を通して取捨選択・深化を図ることが有意義であり、それは本書も〈生の三契機〉の一つに数える「継承」の文化・思想次元の営みとして不可欠であろう。
このことは本書も自覚しており、自説展開の中で必要最小限に触れ、さらに〈自前の基礎概念〉の今後の理論的哲学的彫琢・展開の予備作業として、下巻で「補論二 学術的論点のための五つの考察」を試み、「自由」、「疎外論」、「個と全体」、「自己実現」、「ポストモダン論」を批判している。だが、本書全体は〈自前の言葉〉で叙述するため既成の概念や理論枠組みとの異同が分かりにくい点も多く、折角の本書の提起が誤解されないかと懸念する。本書が同じく下巻で「補論一 残された課題としての〈文化〉への問い」として展望する「〈有限の生〉」の人間観=世界観」の下での「生の意味」基礎づけの具体的展開とともに、今後の展開に大いに期待したい。
その点で先走るようだが、以下私の関心から、特に社会的意識と社会的存在との関係に関してさらに具体的明示を期待する論点に触れておきたい。
(2)〈自己完結社会〉転換と社会構造変革との関係
何よりもまず、生の矛盾・苦をもたらす〈自己完結的生〉・〈自己完結社会〉からの脱却が「〈無限の生〉の人間観」から「〈有限の生〉の人間観」への転換として前面に強調されるあまり、そこにおいて、〈自己完結社会〉自体の否定すべき現実の社会的転換と社会構造の変革がどう位置づくかが、不鮮明なことである。
本書は、近代哲学に淵源する戦後日本の社会思想・哲学が、人間の本質=「存在論的自由」(無制約の絶対的自由)を実現する「あるべき社会モデル」に基づく「あるべき社会変革」を目指し、「(有限の生)の現実を否定する理想」を理念としてきたと強調する。そして、それが「〈有限の生〉」の「現実」にある生身の人間をして、その現実否定の理念は永遠に実現できないという「無間地獄」に陥らせる「〈無限の生〉の人間観=世界観」だと批判する。これは斬新で説得的批判である。だが、そのことを強調する余り「現実転換」・「社会変革」等のキータームを避けるので、本書において現代社会構造の現実の否定的側面の克服、社会構造の転換・変革の位置づけを見にくくしている。
もとより本書のこの批判の趣旨は理解でき、例えば戦後の空想的共産主義運動や絶対自立的個人主義社会実現論に対しては、批判は全面的に妥当である。だが社会変革論は全てこのタイプでないし(特に現代の〈実践的唯物論〉はこのタイプの批判を前提していると思われる)、「〈有限の生〉の人間観=世界観」に基づく社会変革論もあるはずである。その点が不鮮明なので、本書の提起も近代仏教の通説が説く有限な生の諦観(心理転換主義)と同じに見られないか、と懸念する。
この点に関して本書も〈無限の生〉から〈有限の生〉への人間観・世界観の転換は諦観主義でないと強調し、「現実と格闘」し「現実に寄り添う理想」=「よりよき生」実現を基礎づける哲学だと強調している。なのでそこには〈有限の生という現実に寄り添う〉仕方での社会構造の変革も含まれると思われるが、それが明示されず具体的に論じられないことが惜しまれる。
そこで敢えて、改めて私なりに本書の論理を推察すると、本書は「近代的な経済様式」を「市場原理に基づく調整機能を備えた経済システム」と規定し、国家・官僚制システム、情報システムと三位一体となった社会システムに全面依存するのが〈自己完結社会〉の構造であることを基本にする。それ故、〈生の自己完結〉・〈無限の生〉の人間観から〈有限の生〉の人間観への転換は、この社会システムに生が全面依存する社会構造の転換が不可欠の課題と設定されていると窺える。これは、マルクスの〈実践的唯物論〉が拓いた枠組み、資本主義経済システムと国家体制とイデオロギーの三位一体の転換と軌を一にし、特にイデオロギー批判と思想転換を軸にしたその21世紀バージョンの課題設定と言えよう。
そこで問題は、この転換、つまり社会変革の道筋如何である。現代の〈実践的唯物論〉は、1970年代までの短絡的な革命・国家体制変革図式の破綻を受けて、社会システム転換の主導的ポイント・入り口を模索して多様な議論を行っている。その視点から見ると本書は、現代の上記の社会システムと諸個人の生の間に媒介領域として地域社会での〈生活世界〉の再構築を当面の社会構造転換の基本と位置づけていると窺える。〈自己完結社会〉の歴史的成立が、諸個人の生活空間の〈郊外化〉を契機とする〈生活世界〉「解体」=地域社会の解体に起因すると論じているからである。しかもこの〈生活世界〉のポイントを、〈有限の生〉の三契機と「五つの原則」や「人間的〈関係性〉」から、人間の生の生命的自然との交流と生身の人間関係(「共同」)を根底とすると窺える。
それは、市場原理主義社会の高度化による〈人間の危機〉脱出方向として〈農〉のライフスタイルを軸とする風土的生活世界の社会構造的位置づけを言う私の提起と重なる(前掲亀山2020)。さらに、人類史的視野から生活様式の概念を基軸に、生産関係基軸の従来の史的唯物論・社会哲学の再構築を目ざし、資本主義社会転換の当面の入口として〈農〉基軸の地域協同社会の確立とそれを媒介とする国家・経済を展望する尾関周二氏の提起(『21世紀の変革思想へ向けて』農林統計出版2021)とも、根幹では重なるとも言えよう。
本書の論理を注意深く読むとこうなると思われるが、特に〈生活世界〉の再構築が、〈自己完結社会〉、即ち現代の高度情報・消費社会の構造転換・生活の物理的空間の転換とどう関わるかの視点が具体的には見えにくい。それ故、他方で〈生の舞台装置〉としての〈社会〉における「“意味”」の回復や〈美〉的生に強調点が置かれることと相まって、本書の提起は文化主義と誤解される余地を残す。なので、上記の私の解釈の是非も含めて、今後この点の具体化を期待したい。
(3)〈自己完結社会〉に満足する諸個人はいかに転換主体となるか
さらに、〈自己完結社会〉の社会構造の転換と〈生活世界〉再構築のためには主体的担い手自身がこの転換を目指すことが不可欠だが、それがどう可能かが見えにくい。
本書は〈自己完結社会〉の転換をそこでの生の矛盾=現代人の受苦から論じる。繰り返すが、それ自体は〈実践的唯物論〉の基本的枠組みとして重要である。だが、生の矛盾を「〈関係性〉の病理」・「生の混乱」とし、その苦しみの基本原因を〈無限の生〉の人間観=世界観の矛盾、すなわちこれに対して〈現実〉における「意のままにならない生」の「残存」に措き、そのポイントを前述の「〈有限の生〉の五つの原則」で示す。そこから苦しみの解決を、〈無限の生〉志向を否定し、「意のままにならない生」を全面肯定する〈有限の生〉の人間観=世界観への転換に求める。それ自体は至極もっともであるが、なお深めるべき問題が残されていると思われる。
一つは、諸個人の生の矛盾・苦は諸個人が生きる社会構造にも由来する面が不鮮明なことである。比喩的に言えば、〈意のままにならない〉ことが苦と言う場合、そこには飢餓・貧困など生きる上での基本的欲求が満たされない点も含まれている。この欲求はいわば〈有限の生〉故の生の最低要件の実現を願うという意味でのささやかな限定的〈意のままになる生〉志向であり、〈自己完結的生〉における恣意的かつ無限の〈意のままになる生〉志向とは全く区別されるべきである。そしてその限定的な〈意のままにならない〉苦を、諸個人が生きること自体を困難にするほど固定化し増幅しているのが社会構造と言うべきだろう。〈有限の生〉の人間観・世界観の中でこの点が明確にされないと、〈自己完結社会〉からの転換は結局、社会構造の転換なき諦観主義・心理転換主義と誤解される懸念がある。
もう一つは、〈自己完結社会〉の生の苦しみの原因を〈無限の生〉の人間観=世界観の矛盾に求める論理は、この社会で〈生の自己完結〉を肯定する人間にとってどれほど説得性があるか、という問題である。
即ち、自然性を喪失し脱身体化した〈生の自己完結〉肯定の人間は、まだ残る限界(障害)やそれをもたらす科学技術の限界をひたすら克服可能と見るのでそれは苦にならない。さらには、既に他者無き〈自己完結の世界〉にいるので他者は苦の原因ですらありえず、専ら排除すべき障害物=モノでしかない。また、近代の〈無限の生〉の人間観と言えども、全てを直ちに〈意のままにする〉ことは理想とせず、将来に期待するという枠組みである。将来に希望が持てれば、今の困難は苦しみでなくなる。本書もこの問題を重視し独自の思考実験を行い、ポストヒューマン社会を〈自己完結社会〉の完成形(純化)と想定し、〈無限の生〉の人間観=世界観の窮極的矛盾は生に飽きた自殺と強調する。だがそれは、〈意のままの生〉を理想とする〈自己完結社会〉の肯定者にとって、なんら苦ではないだろう。その意味で、本書が力説する「〈関係性〉の病理」「生の混乱」自体に関しても、そうと自覚せず苦と見なさない〈生の自己完結〉肯定者が、この苦の解決として〈有限の生〉の人間観に同意することは極めて困難である。だからと言って、当事者の外から権威的権力的に〈自己完結社会〉を転換するのは、現実的に不可能なだけなく、そもそも論外である。
実は、私の言う〈孤人(主義)〉脱却も同様の困難を持つが、私はそれを回避し〈孤人(主義)〉脱却を共有化するポイントとして、一方で、モノに囲まれモノとだけ関わる〈自己チュウ〉(〈孤人〉)は、人間の本来的生(人間の〈本質〉)に反し、非人間化(物象化→自他のモノ化)することの提起が重要と考える。この場合人間の〈本質〉とは、近代哲学主流のように人間固有の性質のアプリオリな実体化でなく、フォイエルバッハが言う生身の人間の現実的存在要件、特に生命的身体と生命的自然依存、および生身の他者との〈共同存在〉を強調し、それ故に他者の危害・殺傷は根源悪とする。本書も、近代哲学の形而上学的なアプリオリな〈人間の本質〉論を否定しつつ、今時点までの人類史から人間の〈本質〉の対置は論理的には行っているが、さらに疎外論、特に物象化論との突合せが重要と思われる。
他方で私は、かかる本来的生が発現する具体的空間として、生命的自然との生身の関わりと生身の人間の〈共同〉を媒介する〈農〉基軸の風土的世界を具体的モデルとして示す。それにより、〈孤人(主義)〉者自身の、否、そうであるが故の自然との関わり欲求に依拠しつつ、ライフスタイルの構造転換(生活域の空間的転換)による〈孤人(主義)〉の自発的脱却を展望する。その際、〈孤人(主義)〉者に対しては、理論的説明に止まらず、ましてや〈お説教〉でなく、風土の中の〈農〉のライフスタイルが、〈孤人(主義)〉の生に対して〈人間的生〉としていかに充実しているか、の具体的描写・感性的提示が決定的に重要と考える。
本書も、〈自己完結的生〉の矛盾(「〈関係性〉の病理」「生の混乱」)に対して、〈有限な生〉の〈人間的生〉は「より良き〈生〉」「生き方としての美」を深めることを今後の中心課題と強調する。それは〈自己完結社会〉に埋没する人間の意識転換にとって〈有限な生〉の意味を論理的に示す以上に、美的・感性的に示すことが重要と見ているからと思われる。これは全く重要な視点であり、ある意味で従来の〈実践的唯物論〉が〈苦手〉としてきた〈美〉の領域への新たな展開を開拓するものとして大いに期待したい。
と同時に、〈美〉は諸個人の主観性が深く関わる領域だけに、その際諸個人に共有可能な〈人間の客観的存在基盤〉の共通理解が不可欠である。即ち〈有限の生〉の人間の現実的存在様式を、〈生活世界〉の空間的再構築(〈郊外型〉でない生活空間の再構築)を媒介にして、具体的に提示する必要があるのではないかと提起する所以である。
本書の後を先取りし過ぎたかもしれないが、〈自己完結社会〉の転換を一層展開し、無用の誤解を避ける上でもぜひ上記の論点の具体化を期待したい。それによって、〈有限の生〉という人間観・世界観をベースにした〈自己完結社会〉の社会構造的転換が明確になり、それが〈実践的唯物論〉の深化・豊富化に資することを期待したい。
そのためにも、今回は後回しにした既成の社会哲学の基礎概念を本書の自前の〈基礎概念〉との突合せを通して批判的に整備し、その共有化への尽力を期待したい。本書が戦後の人文社会科学の基礎概念の問題として従来の社会哲学批判を試みるので、人文社会科学との新たな共同を深化する上でもこの尽力は是非とも求められよう。
ともあれ、実に骨太く大胆かつ斬新な問題提起の書である。著者の続編を切望するともに、〈実践的唯物論〉の共同深化のためにも、本会会員をはじめ多くの人が検討されることを期待したい。
亀山 純生 KAMEYAMA, Sumio(東京農工大学名誉教授/倫理学)