
【エッセイ】運命の人と運命の愛について
結婚とか
お付き合いとか
パートナーとか
色んな言い方があるけど
心からこの人が運命の人だ
と想う人と出逢えて
その先にその人と
お互いに想いが通った時に
なんて言葉を贈ればいいかに悩む
という状況って
昔から映画やドラマで
数えきれないほど観てきた光景だけど
つまりそれは
「(生まれ変わっても一緒になりたい)」
は冒頭からハードルが高すぎるけど
でもそういうことなんだろうなと思って。
哲学者プラトンも
「愛とは魂の片割れを探すこと」
言うてるしなって
という様なことに
ふと頭を巡らせていたんですが
きっと運命の人という言葉の意味が
本当にその本質的な意味を伴って実感されるには
極々一部のよほど生まれつき成熟した考えの人か
僕も含め大半の人だと
よほど自分の生き方や価値観が定まっている人
とかでなければ
そのほとんどが
全然別の人を運命の人だと勘違いしたり
またはほとんどが
見過ごされてしまったりして
後になってその間違えに気づいたり
失うまで気づかずに
どの道"気づくのが遅かった"みたいなことで
そのほとんどが「後悔する」
っていうのがとても多いように思うのだけど。
ただどんな風に生きているかの
ベースの価値観みたいなところがそもそも
ある程度合致する場合じゃないと
この話もまた
全然共感されない内容なのは承知の上で書くと
僕は人並みという言葉も
よくわからない言葉だから使わないけど
ただ個人的には
"純愛至上主義"という世間では僕らの世代だと
非常に女性的と言われるような
「この人が自分の人生で最後の人」
という価値観で昔からずっと恋愛をしてきて
特に全く持って自信も無ければ
ただ恋に恋するだけの不器用で
とても苦々しい経験として10代の頃に
"奥手ロング片思いto失礼"を×3回ほど繰り返して
このままではダメだと積極性を身につけたのちに
これまで片手に収まる数の方と
基本的に"純愛至上主義"のため長いお付き合いを
したりもしてきたけど
最近巷で言う「運命の人は2人いる」とか
「深い付き合いになる人はみんな運命の人」とか
色んな言い方があるけど
そしてそれらの捉え方もそれぞれに良さがあるけど
ただやっぱり多分なんだけど
最後の出逢いになる人=最愛の人
こういう人はいるのだとすれば
紛れもなくその人こそが
冒頭に書いた哲学者プラトンも言う
「魂の片割れ」つまりNetflix作品や
映画タイトルでも使われる言葉にもなった
「ツインレイ」なのだとおもう。
このツインレイについては
スピリチュアル界隈では
色んな特徴があるとか色々言われてて
その辺りのお話も結構個人的に興味深いなと
色々と調べたり比較したりした事があるんだけど
結局のところはそういった膨大な
「誰かの作った話」みたいなものも含めた全てが
そもそもがある種のお試し要素がある気がするし
そういった色んなことに惑わされないくらい
自分自身の好き嫌いから始まる価値観と
どう生きるかの
"自分という乗り物の運転技術が身についた時" に
ようやくそういう出逢いに向かって
正しいコースを運転できる、走り出せる
ということなのかもしれないな
と、現時点で考えがまとまった。
そして最後にひとつ付け加えると、
一生忘れられない恋というのは
その時にあった色んな
「(喜び)という感情への憧れ」
というものが脳に記憶されているだけであって
[その相手のことが正しく深い愛で忘れられない]
という事ではなく。
またそれは極めて稀なケースらしい。
僕は個人的にこの事実を知って
とても気持ちが楽になったのと同時に
自分自身を見つめ直す上でも
割と色んな事に対して同じ様な目線で
冷静に考える為の捉え方として
とても参考にもなった。
ただそんな風な冷静さを
自覚するようになった今だからこそ
今日書いたような事が
自分なりに腑に落ちているのだと思うし
いつかの憧れた自分に向かい
時間を重ねられている気がする。
おしまい
二階堂新太郎
2024.12.08