どこまでも不確かであいまいな「記憶」という存在について
月ごとにテーマを決めて、小説を通して出会った興味を深掘りすることにした2024年。
5月のテーマは「記憶」について。
現在、放映されているドラマ『アンメット ある脳外科医の日記』を始めとして、第1回本屋大賞を受賞した小川洋子さんの『博士の愛した数式』など、「記憶」をテーマにした物語は数多く存在している。
そして、どの物語にも共通するのは、どこか捉えようのない不思議な存在を手探りで追いかけているような感覚になること。
だからこそ、これまで触れてきた作品を通して、どこまでも不確かであいまいな「記憶」という存在について、いつか学んでみたいと思っていた。
人生を象る「記憶」という存在について
最近、読んだ「記憶」にまつわる本の中でも、特に印象に残っているのが、宇佐美まことさんの『羊は安らかに草を食み』という小説。
この作品では、認知症を患った女性が歩んだ人生をたどる最後の旅と、彼女が戦時中、命を晒されながらも生き延びた満州での日々が綴られている。
俳句なかまで20年来の付き合いでもあるアイと富士子は、同じく仲の良かった益恵を連れて、彼女がこれまで過ごしてきた場所をめぐる旅に出る。
そんな壮大な旅へと老齢の3人が出発したのは、益恵の夫から認知症になってもなお、彼女を苦しつづけている「記憶」のつかえを取りさるため、過去をめぐる旅路のおともを託されたからだった。
益恵が周囲の人々と安らかに過ごした地で、彼女が詠んだ句を振りかえりながら、その想像しえない過去に2人は想いを馳せる。
しかし、そんな想像を遥かに超える壮絶な日々を、彼女は日本から遠く離れた満州の地で生き抜いていた。
現代の平穏な風景が流れる旅と、過酷な過去の記憶が対比されるように描かれるからこそ、想像では決して埋めることのできない、あまりにも大きな隔たりがそこにはあった。
認知症を患った女性が、老いて記憶を失くしてもなお、胸の奥底に留めていた秘密。
読みおわってからも、彼女が歩んだ物語の情景が脳裏から離れなかった。
「記憶」を通して、浮かびあがる真実
『羊は安らかに草を食み』の他にも、『異邦の騎士』や『闇に香る嘘』など、「記憶」を扱った物語はミステリ作品にも多くある。
記憶を失った登場人物の存在が、後々、事件の鍵を握るのは、それほど「記憶」が真実に直結する情報だからだ。
そもそも「記憶」は、人にとって生きるうえで重要な手がかりであり、その「記憶」を喪失することは、自身の意思決定の理由さえも失ってしまうことにもなりかねない。
しかし、それほど重要な存在にもかかわらず、「記憶」はとても不確かなものとしても知られている。
ただでさえ目には見えないもので、主観的であいまいな部分も多い。
だからこそ、あらためて学んでみたいと思った。
人にはさまざまな「記憶」のカタチがある
そんな自分にうってつけだったのが、長年、記憶に関する認知心理学を研究している高橋雅延さんの『記憶力の正体 人はなぜ忘れるのか?』だった。
この本では、世間で認識されている「記憶」を細かく分解して、多くの実験を引用しながら、その内実をていねいに説明してくれている。
たとえば、「エビングハウスの忘却曲線」で知られているエビングハウスが提唱している説では、「記憶」を3つに分類できるという。
1つめは、意識的に思い出すことで再現できる、いわゆる誰もが想像するような「記憶」。そして、2つめは、意思とは関係なく自然と思い出される「記憶」。
これら2つは、どちらにせよ過去にあった出来事として認識できるのが特徴で、意識的記憶(顕在記憶)として分類されている。
そして、3つめが「過去のことを思い出している」という意識のない、無意識的記憶(潜在記憶)と呼ばれるもの。
たとえば、車の運転や外国語の使用など、日常で自然と行っている動作や技能についても、再現している意識がないだけで、記憶の一種として分類されているのだ。
その後、本書では「忘れられない」や「思い出せない」の正体についても、過去に行われたさまざまな実験を例にして、「記憶」をカタチづくる膜を一つひとつ慎重に剥がしていくみたいに、少しづつ明らかにしていく。
また、その分析のなかで「フラッシュバック」や「ド忘れ」、「胸騒ぎ」といった、普段から耳にする言葉がどういった「記憶」と紐づいているのかも知ることができた。
当たり前だけど、記憶に残って初めて、忘れることができて、思い出すこともできるのだ。
「記憶」を未来に開かれたものにするために
また「記憶」とは心に強く影響を与えるもので、それはときに、トラウマや思い出したくない出来事を想起させてしまう。
そんな心に傷を負う原因ともなる「記憶」に対して、著者の高橋さんは「語る」ことの重要性を説いていたのが印象的だった。
どうしても辛い記憶は心の奥に押し留めて、二度と浮かび上がらないようにしてしまいがちだけれど、そのままにしていては、理解できない理不尽な記憶として処理されてしまう。
しかし、自身の「語り」を通して、あらためて過去の記憶に名前をつけてあげることで、初めてカタチになった記憶を「思い出さない」ように忘れることができる。
また、人はいつの日か忘れてしまうことを恐れてしまうけれど、忘れない限りは思い出すこともできない。
余計な部分を忘れることによって、本当に必要な記憶だけを抽出して覚えておくことができる。
記憶を少しづつ削ぎ落として、自分が取り出しやすいように形を整えておくことができる。
忘れるのは、決して悪いことばかりだけではない。
この本を読んで、そう思うことができた。
最後に
忘れてしまうこと。思い出せること。覚えていること。
これまでは「記憶」を同じように扱ってしまっていたけど、実際はいくつもの種類があって、人によって異なるカタチで保管されている。
また、入り混じった記憶は白黒はっきりと区別できるほど鮮明ではなくて、時間の経過とともに変化していくものでもある。
だからこそ、自らの「語り」によって、記憶を変容させながら、自らの体験を経験へと変えていくことが、最も重要なことだと高橋さんは述べていた。
そして、それは「記憶」がとても不確かであいまいな存在で、他者が介在することのできない、唯一無二のものだからできる芸当ともいえるかもしれない。
「記憶」を過去に閉ざすのではなく、未来に開かれたものにすること。ただ意識するだけで、「記憶」に対する想いは変わっていく気がした。