noteでは「素直」に書いてます(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
みなさんは、「素直」ですか?
自分にウソをついて生きてませんか?
僕はケースバイケースですね。
でも、どこかでねじ曲がってるとは思っています。斜に構えているというか。
たとえば、ツイッターのタイムラインで知り合いが盛り上がっていると、「なにやってだよ。つまんねーの」と思っています。でも、心の中では逆に「自分も中に入りたい。入れてほしい」と思っています。
ということで、僕は素直じゃないんですよね。
でも、このノートで書いていることは素直に書いています。それに嘘偽りはありません。ご安心ください。
結局は、寂しがり屋の部分もあるし、同行者に対してはライバル心みたいなのは、あるんですのね。
んで、一番近いライバルはPさんですね。彼は仲間でありながら、良い敵だと思っています。モノを書くスタンスやジャンルみたいなものは違いますが、彼には負けたくないという気持ちがあります。
彼に、本編(好奇心の本棚)で僕の締めの言葉を取られたのは悔しくてたまりません。せっかく、オリジナリティを出そうと思って考えたもの、取られたのはツイッター上と対面で穏やかにやり取りをしたのですが、内心では結構怒ってます。彼と被ることによってオリジナリティが無くなってしまうのではないだろうか、逆に、このマガジンに共通性が持てていいのではないだろうかと対抗する気持ちを持って落ち着かせてますが、まだまだ、心の中では決着は着いていません。
この行為も素直じゃないっていう例にも当てはまることだと思うんですよね。
どこかのアニメで出できた逸話として、ハリネズミのジレンマの思い出しました。ハリネズミは自分に他者を近づけようとしても、針があって決して近づけることが出来ないと。
僕はそういう人間なのかもしれないです。
素直なことはいい事だということで話を書いた短編に中原昌也の『真弓、キミが見せてくれた夢』というのがある。主人公の知り合いの女性の真弓は素直だった。僕のイメージでは、古風な女性で男性を立てるような性格にも思えた。
しかし、この真弓も根の所のではねじ曲がっている。出産も育児もしたことないのに。それらのことについて書いた本があり、それがベストセラーになっている。いや、逆にねじ曲がっているのではなくて、彼女の素直さが育児に上手く平行して使えるのかもしれない。
この物語の中で、「本物の素直は心が大事なんだ」とか「ひねくれてばかりいては、幸福を逃がす」と書かれている。
これは主人公にあてはまる。主人公は、真弓のことが好きだった。だが、その事を押し殺して会うことだけで嬉しいと思っていた。
だが、物語の終盤、真弓は物語から退場してしまう。そこから、彼女の本を眺めては、彼女の子供を産んだなら、この教本通りに彼女は行動するだろうかだとか、もうどうしようもない想像をする。
ただ、真弓のオフィスの描写が出てくる。その事によって、物語の中て主人公と真弓の世界は繋がっていることを表している。つまり、どこかでなにか同じものを共有している、もしくはしていたのかもしれない。そして、最後に物語の冒頭に書かれた主人公が見ていた日曜の歩行者天国を見ていることを真弓も見ている描写で終わっている。
好きという気持ちを押し殺すのは簡単で、自分の心の一部を凍結させてしまえばいいのだから。でもらその凍結を解いたあとに来る、虚無感はひたすら孤独だ。自分の存在が愚かなものであるような感じにさせてしまう。「好き」と言わなければ、関係が壊れない関係を今までたくさんしてきた。その度に胸が苦しくなる。好きな人と近くにいれることは幸せだ。それで甘んじてしまっていいのかと葛藤するときがあるが、関係が長くなると、もうそれが麻痺を起こしてくる。だから、好きだと思ったら、その瞬間のインスピレーションを大事にしている。
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