Pさんの目がテン! Vol.79 見よ、私は帰ってきた レヴィ=ストロース『野生の思考』 1(Pさん)

 見よ、私は帰ってきた。久し振りの、おそらく二ヶ月近く振りとなる「目がテン」の更新である。
 中身を全く欠いた、大まかな見取りを描いている。正直、この「目がテン」の形式というのも、最近、どこか重たいものを感じてきた。いや形式というものを考えて始めたわけではなく、維持すべき何かを持っているわけでもないのに繰り返すうちにそれはいつの間にか出来上がっていて、それをさらに勝手に重たがっているだけといえば、そうかもしれない。が、とにかくそう感じているので、このシリーズは百回を数えた時点で終わりにして、それから先は、本を読み、企画にするにしても、何か別の形にしようかと、考えている。
 繰り返しになるが、全く中身について、ということはどんな本を読むとか、どういう方向に進もうといったことは考えておらず、単純にいつ区切るかということしか考えていない。
 これも繰り返しになるのかもしれないが、「目がテン」を続けようが止めようが、僕が読書をする仕方は、十年このかたあまり変わってはいないし、これからも変わらない、という気がする。
 何かを読む。すると、別の何かを読む必要が生じてくる。ひたすらそれに従って読むというのが、そのやり方である。
 内容と全く関係ない前置きが長くなったので、本題に入る。今回はレヴィ=ストロースという、知っている人は「何だ」と思うくらいベタな、文化人類学者、文化人類学といって真っ先に名前の挙がる人の、『野生の思考』という本を取り上げる。

 これは、又、前からの流れがある。以前に何度か取り上げた、思想家の中沢新一という人が、その思考法のベースとなった人として、レヴィ=ストロースを上げていた。レヴィ=ストロースは、「構造主義」という、思想の一派(とされているが、レヴィ=ストロースが単にその中の一人であるということはないと、中沢新一は書いている)の中の一人として、知っていたので、その代表作を読もうと思っていた。
 しかし、その代表作、最も名前をよく見掛ける本は『親族の基本構造』というもので、パッと見たけどかなり長く専門的な内容に思えた。しかも当時は古本とかでしか手に入らなく、あってもメチャクチャ高かった。なので、それよりは長くないが、同じくらい名前をよく見掛ける、この『野生の思考』に手を出した、ということがあった。
 レヴィ=ストロースは、他の構造主義と呼ばれている、フーコーやラカンなどの著作と比べると、地味に見えるところがある。僕も当時はそういう印象を抱いて、読み止めていた気がする。しかし、それは価値を持った地味さだったんだと、今回、『野生の思考』に再度導かれるきっかけとなった、中沢新一の「孤独な構造主義者の夢想」(『ミクロコスモスⅠ』収録)を読んでわかった。

六十年代に「構造主義」は流行の思想となり、「構造主義の四天王」なる人々が有名になった。クロード・レヴィ=ストロース、ジャック・ラカン、ミッシェル・フーコー、ロラン・バルトの四人だが、同じ「構造」という基本概念を使いながらも、この四人の思想は根本のところで違っていた。
(……)
 だから、一口に構造主義といっても、その代表者のほとんどが「構造」という概念を使って、描きだそうとしていたものは、ヨーロッパにはじまる「近代」というものの本質であった。それにたいして、ひとりレヴィ=ストロースだけが、これに敢然と背を向けていた。その姿勢は「ペシミスティック」とさえ呼べるものであった。
(……)
さて、ここにレヴィ=ストロースの思想の占める独特のポジションが、あきらかになってくる。レヴィ=ストロースの家系がユダヤ系であることは周知の事実で、そのせいだろうか、彼の創造した「構造主義」の思想そのものにたいして、「抽象的」であるとか「形式主義的」であるとかいう批判が、たえず投げつけられてきた。しかし、あとでわかるように、彼の構造主義の思想ほど、「抽象」とか「形式主義」などからほど遠いものはない。レヴィ=ストロースは「具体性の科学」を称揚した。ピカソではなく、アンリ・ルソーを称えた。現代芸術ではなく、ブリコラージュ(日曜大工)の作品の背後で動いている、野生の知性のほうに、高い評価をあたえようとしていた。セリー・ミュージックやミュージック・コンクレートなどを否定して、ラモーの音楽理論に立ちかえることを提唱した。
 レヴィ=ストロースこそは、「抽象化」への最大の批判者なのである。
(中沢新一『ミクロコスモスⅠ』、「孤独な構造主義者の夢想」、34、35、37、44)

 なんとなく内容がわかればと思ったけれども、ずいぶん長くなった。何となく理解するということの方が、リソースを食うのかもしれない。とにかく、ここを読んで、今まで全部白だったオセロの駒が一気に黒にめくれるように、前に読みさしで投げてしまっていた『野生の思考』についての理解が、読みにくさも含めてよみがえってきて、プラスのものに思えだしたのである。
 これだから読書はやめられないと思う。誰か、大学生か大学生上がりくらいの人がとある配信で、カントの「実践理性批判」か何かを、読み上げながら理解しようとして、結局「翻訳がわかりにくいから読みづらい」と一蹴して放り投げたのを見たのを思い出した。
 やはり、読書というのは、読みづらさとか、理解不能とかも含めて本なのだと、久しぶりに納得できる読書をすることができた。(続く)

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