Pさんの目がテン! Vol.81 ブリコラージュと料理 レヴィ=ストロース『野生の思考』3(Pさん)

 前回の流れを余り受けていないかもしれないが、『野生の思考』を最初に読んだ時に感銘を受けたのは、「ブリコラージュ」という工作法と、それの普遍化のくだりである。

「ブリコラージュ」とは、「コラージュ」という語(?)が入っていて似たような意味なのだが、既にそこにある、限られた物を組み合わせて何かを作るという行為のことで、その際、その素材が、たとえばレジン細工におけるレジンとか、工作をする際のナットとボルトとかいったような、「それを作るための部品」、ではなく、例えば偶然家に転がっていた爪楊枝でパソコンを作ってみたとか、廃車を分解して集めた部品からガンダムの模型を作るといった、「ありあわせのもので作る」というニュアンスがこもっている。
 僕は、いつからか、ツイッターや、noteでも一回上げたことがあるが、料理を作ることをはじめていて、そのときに、この「ブリコラージュ」という作業法のことを思う。これは、作業法というよりは、精神的な構えといった方が良いかもしれない。料理を作る際、大きく分けて、素材が各々何グラムで、こしょうと塩が少々(少々というのはおおよそ何グラムのことで……)酒大さじ幾ら、みりん大さじ幾らといったような、計量をしてそれをそっくり再現するというやり方をする人と、そんな単位関係なしに、フライパンに直接醤油の大ボトルを注いでドボドボ入れ、冷蔵庫にあったそれっぽい食材を全部乱切りにして順番もなくボトボト入れてそれで完成、本当に旨いのコレ? と思っていたら意外に旨い、なんていう風に作る人がいるけれども、ブリコラージュの精神を持っているのは、明らかに後者だ。
 特に、この場合は「冷蔵庫にあったそれっぽい食材を……」の所がポイントで、前者のキチキチ料理観に従って料理を作っていると、「あれの味噌焼きのレシピに従って作る場合には玉ねぎが½だから残りの玉ねぎが余って他のどれにも合致しない……ああ、今度は一個と書いてあったから前回半分のを入れた上で次のを半分にして入れたらまた半分余って……そうこうしているうちにニンニクから芽が生えてきた……」なんてことに簡単に陥る。要領の良さが料理には不可欠で、この「ブリコラージュ」を最も体感するのは、現代における生活場面では料理なのではないか(逆に、もはや料理しか残されていない、とも言えるかもしれない)とすら思える。
 そして、中沢新一も、先に挙げた「孤独な構造主義者の夢想」の中で触れていたけれども、レヴィ=ストロースは、芸術家の仕事として考えても、「キチキチ料理派」よりは、「もこみちのゴロゴロ具材料理」の方、ブリコラージュのやり方の方を推しているのである。
 小説にとってのブリコラージュとは何だろう?(続く)

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