たまにはそういう作家もいるということ(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
今回はレビューしにくいです。コルタサルのレビューしにくさではなくて、ちょっとじゃなくてけっこうなグロが入っているので、ノートに書いても規制が掛かりそうなので、大雑把にしか書けません。
読んだ本は、木下古栗の「グローバライズ」という本です。
帯の所に「抵抗力に自信のない方は読まないでください」と書いてあって、でも、アメトーークでも紹介されてるし、なんか面白ほう! 立ち読みしないで買いました。
それが間違えだったのかもしれません。
グロが多めです。
僕の口からは言えないような作品が多くて(なんとかレビューしてみようと思って何作かは読んだが全部外れでした)でも、書けませんでした。
あんまり苦手なんですよね。こういうの。
別の角度のグロさでいうと平山夢明も苦手ですね。じわりじわりと得体の知れない恐怖みたいな、ゆっくりと首を締められていく感じするんですよね。
木下古栗氏は、血が出たり、シモのモノが出たり、もうなんかパニックみたいなパーティーみたいな、とにかく、読んでいて過呼吸になるような、呼吸の仕方を忘れるような、なんかハチャメチャな感じです。
でも、作品のシモやグロの部分を取ってみて考えると不条理な話なのかもしれないと思います。人がいきなり死んだりして、その理由もあまり具体的なものではない。あるお話では、寿司屋でヴェトナムから来た外国人に人間の脳みそを食べさせるために、隣にいたサラリーマンを殺すというのがある。
発想がぶっ飛んでいて、読んでいて話についていけなかったが、一回戻ってもう一度読み直してやっとなにを言っているのかわかった。
文芸の世界では、時々このような頭のネジが何本か外れている作家が登場する(褒め言葉です)。ただし、それが正当な評価を受けるかというとそうでもなくて、「あのカルト作家が!」みたいな感じに括られてしまうことが多々ある。
でも、そのような人達の想像力というのは、文芸の世界においては必要だと思う。それに、そういう作家がどのように世界を世間を捉えているのか気になってしまう。
僕は狭い世界の中で小説を書いているから、穿った見方で世間を見ていると思う。だから、僕の書いたものの中で素直に受け入れられないことというのがあるのかもしれないし、それを危惧している。
『錯覚の春夏冬』は実体験を元に書いた小説だ。ごく僅かな部分だが。
たまたま、知り合いの人とバーに行って、面白かったし、ほぼほぼ初めてだったので、新しい体験として小説に書くことができた。そして、同じようにバーを舞台にした話を、同人誌にも書いた。それくらい僕にはインパクトのある体験だった。
僕はだいたいが体験したこと、人から聞いたことを元に書いてて、半分くらいしか想像力を使っていない。
だから、想像力だけで書いているような作家さんには、ひどく憧れがある。
「どうやって小説を書いているんですか?」
って尋ねてみたいと思っている。
前回のレビューに続いて、小説論の話が連続してしまったが、今、僕は小説について模索している。ちょうど今書きたい小説がある。ただ、どうやって書けばいいのか分からないでいる。
それをこの企画と並行して考えて何かしらのヒント、ブレイクスルーを見つけたいと思っている。だから、この活動は大事にしたいと思う。