#149本読みの流儀とそれを貫通する多和田葉子

 他人様の本読みに難癖をつけるつもりはない。俺は品行方正に育てられたから、自分がやられて嫌なことは他人にしないという白銀律を理屈注1の上では理解している。だからここで語るのは、俺が自分に課している本読みのあり方であって、それを規範化するつもりは寸毫もない。本などはめいめい好き勝手に読めばよろしい。「学んで」「気づきを得て」「成長する」ことがあなたの本読みの目的であり喜びだというのならば、どう注2ぞご自由にそう読めばよろしい。

 俺は生まれてこの方、活字に線を引いたことがない。そのことに最初に気づいたのは教科書や入試問題の類についてだが、そういえば日常の読書でもそうした行為と無縁であるな、と後になって気づいた。見えてしまうと意識してしまうもので、それから、何かを読む際には決して線を引いたりメモを書き込んだりしないこと、というのが本読みにおける美学となった。若かりし俺は、ほとんどすべての人と同じように、自分の行動にもっともらしい理由をつけて悦に入るという煩悩に囚われていたから、線を引かずに本を読むことについて、あれこれとそれらしいことを言っていた。



「大事なところに線を引けって、教科書の記載なんて全部大事に決まってるんだから、線を引く意味がないだろ」

「一度線を引いちゃうと、そこに対する関心が固定されてしまって、二度、三度と改めて文章を読むときにフラットな目線を持てなくなるんだ」

「だいたい、一読者ごときが、完成された文章に無様な線を引きたくるというのは、作者にとって極めて無礼な行いではないのかね」



 うるせー!問題作るときとか引用するときとかに不便極まりないんだから、黙って必要な箇所には線を引きやがれこのシャバ僧が!そうやって雑駁な読書精神を身につけてしまったから、法学や哲学の緻密な論理を体得できないんじゃないのか!気になるところがあればすぐに線を引け!今すぐに引け!痴れ者の大うつけが!!!

 俺がドラクエⅤの主人公なら、少年期にタイムスリップして彼がゴールドオーブと信じているそれを粉々に叩き割ってやるのだけれど、意外なことに俺は天空注3の花嫁に未だ出会わぬ独身男性だからその目的はかなわない。覚えた踊りを忘れるにはまだ60以上もレベルを上げなければならない憐れな雀なのだ。

 そういう風にして形成された本読みの癖は、合理性の対義語である美学として定着してしまう。線を引いたり付箋を貼ったりして、心に刺さるほどではない一節に対しても記憶の痕跡を残していけば、もう少し扱える表現の幅も広がるだろうが、今更そんな生き方をするわけにはいかない。軽薄な態度で二流の方法論だ、とどこかで俺以外の俺は声を上げているけれど、そんな言葉を聞き入れるわけにはいかない。
 美学とは、流儀とは、そういうものだ。


 ニュートンは巨人の肩の上に立った。そういうふうに発展していくのが自然科学であるのなら、言葉を発するということは全人類の踏みしめてきた道をなぞるようなものだろう。「言葉」も「なぞる」も「科学」も「道」も、辞書を引けば瞬時にその意味が立ち現れるけれど、その意味はこれまでに存在してきたすべての日本語話者の使用によって形成されたものだ。「科学」なんて言葉はもともと日本語には存在しない翻訳語だから、日本語以外の言語の実践の上にもそれは立っている。

 そうやって整備された心地よい大路を安穏と歩きながら、それでもときに蹴躓けつまずいたり衝突事故を起こしたりしているのが俺たちであって、脇道にそれる恐怖を厭わぬ勇気の者を詩人というのだろうが、詩人の勇気といえどもやはり大路に支えられている。たちまち月面に連行されてしまえば、さしもの北原白秋も宮沢賢治も、一歩も動けはしないだろう。

 言葉とはそういう蓄積されたものだから、ともすれば大路に立っている自覚すら忘れてしまう善良で凡庸な俺たちの発する言葉ごときに、影響だとかパクリだとかオリジナルだとか文体だとか、そういう類の表現を与えるのは実に烏滸おこがましいことなのだけれど、やはり他者が分け入った痕跡が生々しく残っている脇道を堂々と通るような破廉恥な真似はしたくない。せめてこの世で俺だけは、俺の書く言葉は俺のものだと思ってあげたい。
 これもまた一つの美学だろう。


 二つの美学の発生源はおそらく全然別のものだが、意外にも美しい調和を見せる。線を引いたり付箋を貼ったりせずに本を読んでいれば、明示的な記憶としてその一節が自身に残る事態を逃れやすいから、他者の見出した言葉を自分の発見と錯覚して用いることを避けることができる。



「線を引いちゃうと、その言葉はいつまで経ってもその作者の言葉でしかなくてさ。それを俺の言葉にするためには、線を引かずにその言葉を一回忘れる必要があるんだよ」



 十年後には今の自分を引っぱたけるような存在でありたいが、まあ暫定的にはそう注4いう思いで線を引かずに本を読んでいる。俺のあらゆる行為の結果が熏習くんじゅうして俺の阿頼耶識注5 あらやしきを形成するように、俺が読んできたあらゆる言葉が俺の中に蓄積されて俺が読んだという記憶すら無くなった頃にいい感じに発酵して俺の言葉となる。事実かどうかはともかくとして、俺はそうやって本を読みたいし言葉を使いたい。

 そんなふうに思って本を読んでいるのに、一度読んだら忘れてしまうわけのない一節に出会ってしまうこともある。そうなると、俺はもうそれらの言葉を使うことができなくなるのだ。いつまで経っても発酵せずに他者の偉大な言葉として残り続けてしまう。せめて腐敗してくれればいいものを。


しょうてんがい、という言葉の響き、てんがい、天蓋、てんがいこどく。しょうてんがいこどく。

多和田葉子『百年の散歩』

この店ならあの人を連れて来たい。と考えるのが正しいだけで、本当は一人でここにいることが楽しいのだ。

多和田葉子『百年の散歩』

この店は鳥肌は立たないが、どこか調子がはずれている。趣味でやっているにしては趣味が悪過ぎる。

多和田葉子『百年の散歩』

友達がいなくてもたくさん友達がいるという前提で、二人目、三人目を捜している。友達が千人いたから孤独でなくなるわけでもないのに。

多和田葉子『百年の散歩』


 「とられた」という奇妙な感覚に陥る。これらの言葉が俺の心を惹きつけたということは、俺がもとよりそちらを向いていたからだ。この文章に出会わなければ、自力でこの脇道を行く可能性があったのではないか。そもそも言葉は誰のものでもないのは分かっているのに。多和田葉子もそんなつもりではないだろうに。とられてしまった、この美しい言葉たちが。そういう不遜の炎がちらちらと燃えてしまう。

 だと注6すれば、いっそ本なんて読まないほうが良いではないか。







注1
同時に俺は謙虚な人間だから、常に理屈通りにはいかないことも十二分に自覚している。

注2
ただ、俺と本読みを肴に膝を突き合わせる機会がないだけだ。でも、それはあなたにとって損失でも悲しみでもないだろう。

注3
俺はビアンカフローラ論争のどちらの陣営にも与する気はないが、学生の頃のバイトの後輩が、「幼少期に一回肝試しに行ったきりの相手を運命の幼馴染のような扱いをしてる世間の風潮おかしいでしょ」と言っていたのには妙に得心した。

注4
気恥ずかしいから鍵括弧でくくっちゃったけどさ。

注5
阿頼耶識(サンスクリット語の当て字なので漢字にそれほどの意味はない。アーリヤ識と表記することも多い)とは、仏教の唯識思想における八つの識(=人間の認識システム)の一つで、最も根本的なもの。全く同じ経験をしているのに、人によって感じ方・捉え方が異なるということがある。そのように、個人の経験に根本的な意味を生み出している無意識が阿頼耶識であり、あたかも布に香りを焚き染める(=熏習)かのように、あらゆる経験は阿頼耶識に蓄積されていく。仏教においては前世の経験を含めた理論であるが、俺は輪廻転生観はともかく、世界と自己の関係をめぐる説明原理として唯識思想は非常に優秀であると考えている。

注6
という思いを、本を読んで得た言葉で書いているのだ。それが俺の言葉かどうかはまだ分からないけれど。

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