ホイットマンはこの地上が最初に生んだ地球人だった。
ホイットマンはアメリカとアメリカ人を歌ったアメリカの詩人だった。しかし彼はまたフランスを歌い、アイルランドを歌い、中国を歌い、インドを歌い、ギリシャを歌った。銃弾に倒れたリンカーン大統領を歌った幾つもの詩があるが、それと同じ深さの愛情をこめて、黒人を、恋に破れた若者を、老人を、飲んだくれを、売春婦を、同性愛者を、兵士を、犯罪者を、農夫を、鉱夫を、船員を、漁師を、印刷工を、大工を、樵を、詩人を、インディアンを歌った。彼はこの地上が最初に生んだ地球人だったのである。
この詩人と「草の葉」をはじめて日本の紹介したのが、夏目漱石であったことはよく知られているところだが、「草の葉」の内実を日本に熱く伝播させたのは内村鑑三だった。この内村の影響をうけた有島武郎がアメリカに渡ると、彼は本格的なホイットマン体験をすることになる。そして帰国後、「草の葉」を日本に根づかさんと日本語訳に挑むのだが、その舞台となったのが、明治四十五年に武者小路実篤や有島生馬や里見弴らと創刊した雑誌「白樺」だった。その雑誌から白樺派という一種の文芸運動がおこっていくのだが、「草の葉」が日本でもっともよく読まれたのはその時代ではなかったのだろうか。
その時代に何人かの文人たちによって「草の葉」が翻訳されて世に投じられている。しかしそれらはいずれも部分訳で、長大な「草の葉」の一部分に触れたといった程度のものだった。「草の葉」には短い詩もたくさん織り込まれているが、その核心となる詩はいずれも数百行に及んでいて、「ぼく自身の歌」などは一千四百行になんなんとしている。これらの長編詩一篇を翻訳するのさえ容易ではないのに、「草の葉」全訳などといったら途方もない道程が必要だった。
しかし一九五十年、長沼重隆訳が三笠書房から、一九七十年には杉本喬、鍋島能弘、酒本雅之訳によって岩波文庫から「草の葉」全訳が登場する。酒本氏はさらに再度全訳に取り組んで、同じ岩波文庫から一九九八年に投じられている。なぜこのような奇跡が日本の読書社会に誕生したのか。詩集を手にする読者などほんの数えるほどだ。まったく採算が成り立たないのだ。こういう状況のなかで、なぜ酒本氏は二度も「草の葉」全訳に立ち向かいそれを結実させることができたのか。それはおそらくこういうことだろう。ホイットマン体験をした先人たちの魂が歴史の底に精神の地下水脈となって滔々と流れていた、その地下水脈が酒井さんを通して噴き上げてきたのだ。
「草の葉」は売れない本である。しかしそれを手にした読者を通して「草の葉」の魂が大地の底に地下水脈へと流れ込んでいく。そしてそのときがきたらその地下水脈は厚い地層を突き破って地上に噴き上げていくのだ。「草の葉」とはそのような本である。この「草の葉」の魅力に取りつかれて翻訳者たちは、どのような覚悟で取り組んだのだろうか。
有島武郎はこう記している。「翻訳の困難、とくに芸術的作品翻訳の困難であることは十分知っている。而して詩の翻訳においてその困難は、困難という境を越えて不可能であるように見える。而して私はあえてこの無謀な企みをはじめた。それゆえに私は一つの芸術品としてこの翻訳が受け入れられる事を期待しない。私は日頃愛唱して措かないホイットマンの面影をかすかながらにでも、英語を解し得ない読者に伝えたいと思いたったのだ。それゆえこの翻訳は原詩のおぼろな影響にすぎない」
長沼重隆はこう記す。「その中核となすものはいつも人間相手、それも雑草のような下積みの、それでいて逞しい生命力をもつ人間を歌うことに始終した人間愛の詩人であった。これが彼の最初から抱いた意図であり、使命と感じていたようだ。彼はまた祖国アメリカのことをよく歌っており、「万人の母」というような呼び方をしている。しかしそれは現実のアメリカではなく、H・S・カンビーが指摘したごとく、彼の胸裡に存在した象徴的アメリカであり、常に未来を志向したアメリカであった」
白鳥省吾はこう記す。「英米に輩出した数多き詩人は、それぞれ特色があるが、ホイットマンの如く国境を越え、時代を越えて、今なおわれらの胸に新鮮に直接に響くものは偉大と処すべきである。日本に於けるホイットマン研究は詩人に逝去した明治二十五年に夏目漱石が紹介して以来、かなり豊富に翻訳された。私のホイットマン訳詩集は、大正八年五月新潮社発行の三十歳の時以来、絶えず増補修正しつつ、「草の葉」全訳を志しており、今まで五冊も出ているが、今年七十六歳にして未だ完了せず、日暮れて道遠しとはこのことであろう」
酒本雅之はこう記す。「『草の葉』全訳という大仕事にとりかかってまもなく逝去された杉本喬氏は、日本におけるホイットマン研究の先達であり、この訳業の中心的存在となって頂くはずでもあっただけに、氏を急に失ってしまった悲しみと衝撃は大きかった。しかし『草の葉』を相手に悪戦苦闘したこの三年間、挫けそうになる僕の励ましとなり支えともなったのは、何よりもまず、いつも脳裏を離れぬ氏の温顔の記憶だった。今はただ、むろん不出来なものであるが、この訳書を氏の霊前に捧げてご冥福を祈りたい」
亀井俊介はこう記す。「彼はすべてを自己の問題とし、常に自己を前に理想をすえ、それに向かって飛躍しつづけた。その理想に裏切られ、そのために固体が気化するように、拡散していった。それをとりこもうとしつづけた結果、ホイットマンの自己拡大も自己拡散にいたった──あるいは自己から出て自己より大いなる存在に没入していった、そこには一種悲劇的な感じさえある。しかし彼はなんとおおおらかにその状況に対処したことか。彼はあくまでも、アメリカと人間の夢を追いつづけ、それを肯定しぬいた」
Web Magazine 「草の葉」創刊号の目次
創刊の言葉
ホイットマンはこの地上が最初に生んだ地球人だった
少数派の輝く現在(いま)を 小宮山量平
やがて現れる日本の大きな物語
ブナをめぐる時 意志 星寛治
日本最大の編集者がここにいた
どこにでもいる少年岳のできあがり 山崎範子
13坪の本屋の奇跡
シェイクスピア・アンド・カンパニー書店
サン・ミシュル広場の良いカフェ アーネスト・ヘミングウェイ
シェイクスピア書店 アーネスト・ヘミングウェイ
ジル・サンダーとは何者か
青年よ、飯舘村をめざせ
飯舘村に新しい村長が誕生した
われらの友は村長選立候補から撤退した
私たちは後世に何を残すべきか 上編 内村鑑三
私たちは後世に何を残すべきか 下編 内村鑑三
チャタレイ裁判の記録 記念碑的勝利の書は絶版にされた
チャタレイ裁判の記録 「チャタレイ夫人の恋人」
日本の英語教育を根底から転換させよう
草の葉メソッドに取り組むためのガイド
草の葉メソッドの入門編のテキスト
草の葉メソッドの初級編のテキスト
草の葉メソッドの中級編のテキスト
草の葉メソッドの上級編のテキスト