演劇の時代を作るための本づくり
文芸というジャンルには小説家、詩人、劇作家と呼ばれる人々がいるが、西欧社会では、ホメロースや、ダンテや、シェクスピアを生んだ伝統によって援護されるからなのか、いまでも暗黙のうちにその順位がつけられている。第一位が詩人で、第二位が劇作家で、第三位が小説家という順位が。
いまここで西欧社会が作家たちを格付けする順位を俎上に挙げるのは、日本の詩人と劇作家の存在のあまりにも無残な希薄さである。この日本には詩を書くことで人生を生きようとしている詩人は何千人といるはずだ。あるいは劇作家としてその人生を貫こうとする人々だって、何百人と存在しているはずだ。日本の社会でのこの詩人と劇作家の存在がいかに希薄かを数字で表現してみると、小説は数十万部売れたらベストセラーとよばれるが、詩人の本は数百部売れればベストセラーであり、劇作家の本は数十部売れたらベストセラーである。
西欧社会でも詩や戯曲の本が売れるわけではない。売れたとしてもせいぜい数千部どまりである。それなのに詩人や劇作家たちが小説家以上に格付けされるのは、伝統によって援護されているからだけではなく、彼らが苦闘して書き上げた作品が一冊の本に結実して読書社会に送りだされ、その本が文芸の世界に核を作っている人々に読まれていくからなのだ。
この日本にはすでに名を成した劇作家が何十人といる、さらに新しい時代を作らんと奮闘している劇作家が何百人といる。彼らは新作を創造する。しかしその戯曲が本になって読書社会に投ぜられることは皆無に等しい。それは当然の現象かもしれない。なにしろ数十部しか売れない戯曲を本にする出版社など存在しないのだから。この現実を前にして、日本の劇作家たちは有名無名を問わず、その創造を本にして世に投ずるという努力をあっさりと放棄している。なぜあっさりと放棄するのか。それは戯曲とは、舞台にのせるための台本であり、脚本であり、シナリオなのだと思考しているからなのだ。
しかし戯曲とはそれだけのものではない。戯曲とは人間の光と影を、人間が織りなす人生を、一幕一幕に切り取り、対話によってあるいは独白によって展開される言葉のドラマなのだ。そのドラマを一冊の本にして読書社会に放っていくとき、もちろんその戯曲が力と光を放つときだが、その本を手にした読者は次第に演出家となって、あるいは俳優となって、彼らの内部にそのドラマをつくりあげていく。戯曲とはその書を手にする人々に、演劇的空間、演劇的時間を創造していくという驚くべき機能を宿した文芸なのだ。だからこそ戯曲は人類の歴史の底に地下水脈としてとうとうと流れてきたのだった。日本の劇作家たちは、この戯曲のもつ根源的な力を放棄しているということになる。
私は、今、演劇の時代を作るために、戯曲「ゴッホは殺されたのか──ゴッホとテオとヨハンナ」を一冊の本にして読書社会に投じるのだが、このとき、これまでの戯曲の本のレイアウトを一新した紙面にしてそのドラマを刻みこんでいくことにする。これまでの戯曲は、次のようなレイアウトで割り付けされている。
ゴッホ グランド・ジャッド島の日曜日の午後だったね、スーラーの絵は。ぼくは面白いと思ったよ。
ゴーギャン おれも面白いと思ったよ。ピサロの親父、さっそくあいつが開発した点描画なるものを描いて、その展覧会に出している。そんなピサロも攻撃された。
ゴッホ ぼくも実験的にあのスタイルで描いてみたが、すぐにあきたよ。あのスタイルはぼくにはあわない。
ゴーギャン 当然だろう。君は色彩の冒険を、色彩の革命を行っているんだ。石棺の背後の黄色に染まったポプラが、濃紺の空に向かってそびえ立っている。大地もまた血を吸ったような赤褐色だ。こんな絵は印象派のやつらには描けないよ。
しかし私はこのレイアウトを全面的に革命する。
ゴッホ
グランド・ジャッド島の日曜日の午後だったね、
スーラーの絵は、
ぼくは面白いと思ったよ、
ゴーギャン
おれも面白いと思ったよ、
ピサロの親父、
さっそくあいつが開発した
点描画なるものを描いて、
その展覧会に出している、
そんなピサロも攻撃された、
ゴッホ
ぼくも実験的にあのスタイルで描いてみたが、
すぐにあきたよ、
あのスタイルはぼくにはあわない、
ゴーギャン
当然だろう、
君は色彩の冒険を、
色彩の革命を行っているんだ、
石棺の背後の黄色に染まったポプラが、
濃紺の空に向かってそびえ立っている、
大地もまた血を吸ったような赤褐色だ、
こんな絵は印象派のやつらには描けないよ、
読者の内部に演劇的空間・演劇的時間を創造してもらう試みである。ゴッホとゴーギャンの挙動が視覚され、そこで彼らが発するセリフを聴覚してもらえるように韻文スタイルで記述することにした。
そのセリフだが、これまでの戯曲本では、一言一言が句点の打たれた完結した文章となって記述される。しかし私たちが日常行っている会話は句点を打った、すなわちピリオドを打ったような話し方をしていない。そのことに察知した作家がいた。山本周五郎である。彼の小説での会話には句点が打たれていない。そのセリフはすべて読点を打って記述されている。
「くどいことを云うな、いま御新政改廃のために、懸命に努力している、私の言葉を信じてくれ、もう暫く辛抱してもらいたい、もう暫くのことだ、わかってくれ」
実際、私たちの日常行われている会話は、「くどいことを云うな。いま御新政改廃のために懸命に努力している。私の言葉を信じてくれ。もう暫く辛抱してもらいたい。もう暫くのことだ。わかってくれ」と、一言一言にピリオドを打って話しているわけではない。これは次のことを演出家や俳優に挑戦していることになる。俳優はそのセリフをピリオドを打ったような話し方をしてはならぬということなのだ。俳優たちはここぞとばかりにピリオドを打ったセリフを投げ合うが、それは会話の持つリアリティを生殺してしまうことなのだ。
こうして戯曲「ゴッホは殺されたのか──ゴッホとテオとヨハンナ」を本に結実させて、広大な読書社会に投じるとき、数十部売れたらベストセラーという定説を打ち破ってくれるかもしれない。そして、劇場などに足を運ばない人々にも戯曲の本が読まれるようになり、そこから新しい演劇の時代が始まっていく。
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