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あなたが欲しい

20020年6月12日号 目次
あなたが欲しい 4
オランダ運河のタカシ通り   2
君は素敵なレディになれる   3
珈琲亭・白鯨(モービィディック)  5 
Don’t Call Us Victims Ami Sato
大作のスケッチ

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あなたが欲しい 4

                                   あっという間に一年がたってしまった。ゼームス塾の最後の授業がきてしまった。子供たちの作品集を一人一人に手渡すと、長太は彼らにお別れの挨拶をした。すると子供たちが泣いているのだった。それもまたはじめての経験だった。毎年卒業する生徒たちのためにささやかなお別れのパーティを開いてきた。しかし子供たちが泣くなんてことは一度だってなかった。そんな子供たちをみていると長太の目にも涙がにじむのだった。
 中学生クラスのお別れパーティは、ちょっと工夫した仕掛けをした。長太は子供たちにそのことを告げた。
「今週の日曜日の朝十時に、ぼくのアパートにやってくること、できたら新しい雑巾をつくってもらって、それをもってきてくれたらうれしいな」
「なに、それ?」
 と子供たちはけげんそうな顔をするが、長太はあつかましく、
「それにだね、ポリ袋なんてあればもってきてくれよ。とにかくゴミがたくさんでるから。それと、ダンボール箱もいっぱいいるから、そいつももってきてくれ。そうだな、一人五箱ぐらい持ってくること。ダンボールなんてコンビニにいけばいくつだってもらえるから。いいね、たのんだよ」
「なによ、それ?」
 いよいよ子供たちは不思議な表情になるのだった。
 長太がアパートの大家に部屋を引き払うと言ったら、大家は喜びをしきりにかみ殺していた。なんでもそのアパートを立て替えるというプランが進行中だった。そのためにはまずアパートの住人を追い出すことだった。そのことに頭を痛めていた大家にとって、長太の転居はまさしく朗報そのものだった。
 その朝、子供たちは次々に自転車でそのアパートにやってくると、
「ぼろっちいアパート」
 とか、
「汚ったねえ家、こんなところによく住んでたね」
 とか。
 八年の生活がそこで営まれていたのだ。生活の痕跡が山ほど部屋に積み上げられていた。それらをことごとく整理していく。整理するとはきっぱりと捨て去ることだった。さすがに蝶の標本は捨て去ることができなかったが、部屋の半分近く占領している本や雑誌などはすべて捨て去ることにした。
 中学生たちはどんどん動いてくれる。彼らは夏のキャンプ生活でそのことを徹底的に学んだのだった。自分で自分の仕事を見つけて、自ら率先して行動していく。
「長太、これ捨ててもいい?」
「ねえ、これもっていくの?」
「そんなもん捨てれば」
「そうよ、捨てなさいよ、そんなもん」
 と女の子たちは声をかけながら、捨てるものと丹沢に運びこむものとを選り分けていく。男の子たちは詰め込まれたダンボール箱やタンスや電気製品を通りにとめてある四トントラックに積み込む。
 ようやく部屋が片付き、その部屋が空っぽになった。その部屋をみんなで掃除してから、パーティをはじめることになっていた。そのための飲み物や食べ物は山と買いこんでいる。いよいよその準備にとりかかろうとしていると、子供たちの母親が両手に一杯の料理をたずさえてやってくるのだった。彼女たちは子供たちに伝えてあったのだ。引っ越しの手伝いが終わったら電話をくれと。
 がらんとした部屋に母親たち手製の料理がずらりと並んだ。まったく豪華なパーティになってしまった。さまざまな思いがよぎる長太には、その料理ものどに通らないのだが、中学生たちは爆竹がはぜるように盛り上がる。なにしろ箸を落としただけで笑いころげる年齢なのだ。安アパートの部屋のドアを吹き飛ばさんばかりの爆笑がわき起こる。
 そんなかで順子がしみじみと言った。
「なんだか寂しいね。これで塾がおわっちゃうなんて」
 4トントラックを借りてくるとき、その荷台に積み込むだけの荷物があるのかと思ったが、いざ積み込んでみると、何度も積み替えなければ収容できないばかりの量だった。大半のものを捨てたのだが、大変な量だった。こんなに沢山の物にかこまれて生活をしていたのかと改めて驚くのだった。
 その翌日、大量の荷を積みこんだトラックは品川をたった。助手席には康夫と茂雄が乗っていた。二人とも三年生だった。塾をたたむことにした長太は、今年は受験生をとらないという方針を打ち出して、この二人にもどこか別の塾にいくことをすすめたのだが、彼らは塾に残ると言った。そこで長太はこの二人には、土曜日や日曜日に呼び出して受験指導をした。二人とも志望する高校に見事合格してくれた。その二人に丹沢まできてもらうことにしたのだ。
 トラックが丹沢村に着いたのはもう三時を過ぎていた。長太が住む家の前に車をつけると、康夫も茂雄も、
「でっけえ家、これが長太の家ですか」
「あのアパートとダンチじゃねえの」
「天と地だよな、信じられねえよ」
 と二人はちょっと興奮気味だった。
 築三十年の一軒家だったが、新しいサッシュをはめこみ、畳なども入れ替えてあるし、台所などはもう全面的に改築されていたからまるで新築の家のようだった。彼を雇い入れた森林組合と役場の意気ごみがただならないことを語っているかのようだった。
 四トントラックの荷台一杯に積みこまれていたのに、その家に運びこんでみるとわずか一部屋の片隅にちょこんと積み上げる程度のものだった。部屋が六つもある。しかも一部屋一部屋が広々としている。茂雄も康夫も家の大きさに感嘆しきりだった。
「ここにさ、また塾ができるね、塾でもしたら」
「できるかもしれないね、しかしもうぼくは樵になるんだよ、でもここはみんなの家だから、いつでも泊まりにきてくれよ」
 その夜、はじめて風呂をわかした。自分の家で風呂に入れるなんて夢のようだった。
 朝、長太は鳥たちのさえずりで目覚めた。隣の部屋で二人はぐっすりと眠り込んでいる。長太は一人を起きだすと、湯をわかしてコーヒーを淹れた。窓の外の木立ちに目をやりながら熱いコーヒーをすする。新しい世界がはじまる。おれはいまほんとうに新しい世界に入っていくのだ。おれにそれだけの力があるかどうか、そのことの不安もある。しかしともかくいまおれは新しい世界に乗りだすチャンスを与えられたのだ。やる以外にない。長太のなかにふつふつと新しい力が沸き立っていく朝だった。
 品川にはもう一つお別れのパーティがあった。分校でもまたお別れパーティを開くというのだ。長太がその日に分校に入っていくと、子供たちばかりではなく父母たちもつめかけていて拍手で迎えられた。長太はその数の多さにすっかりたじろいでしまった。子供たちが感謝の言葉をのべ、手に持ち切れないばかりにいっぱいの花束が渡されると、智子もまた挨拶に立った。
「長太さんは、こういうお別れパーティなどは、いやだと逃げ回っていましたが、でも私は長太さんにお礼を言うためにここにきてもらいました、ちょっと長くなりますが、みんな聞いて下さいね、私は四年前にこの分校を創設したとき、全く自信がありませんでした、果たして子供たちはきてくれるのだろうか、子供たちがきたとしても、いったいどんな活動をしていけばいいのかと不安ばかりでした、そのときいつも私のかたわらに立ってくれていたのが長太さんでした、何度も何度も壁にぶつかりました、どうしてこんなことになるのだろうか、どうしたらいいのだろうかと深く落ち込んで眠れない日が何度あったことでしょう、でもそんなとき長太さんはしっかりと私のかたわらに立ち、分校の成長を見守っていてくれたのです。
 長太さんの授業はほんとうに素晴らしいものでした、子供たちは長太さんの野外活動が待ち遠しくて仕方がありませんでした、丹沢の森の中で、私たちはあふれるばかりの自然の生命を浴びて蘇っていくのでした、長太さんはいつも驚かせるようなテーマを子供たちに突きつけます、子供たちはそんな挑戦にぐいぐいと引きずりこまれていきます、そして私たちはいつの間にか自然の大きさ、自然の不思議さ、自然のやさしさ、自然の圧倒的な力のなかに引きずりこまれていくのでした、私たちは長太さんの雄大な授業のなかで、自然の大きさや素晴らしさに目を開かれていったのです、その長太さんがとうとう丹沢の森のなかに入っていきます、この分校を支えていてくれた大きな柱がいま抜けていくようで、なにか大切なものが去っていくようなそんな大きな寂しさを感じます、私を支えていてくれた大きな柱が‥‥なんだかだんだんしめっぽくなっていきますが‥‥」
 智子の目に涙がにじんでいた。そんな智子の挨拶に長太は胸がつまるほど苦しくなるのだった。
 こうして長太はゼームス坂を去り、森の中に入っていった。
 森の生活がはじまった。長太は仕事から戻ってくると毎日のように手紙を書いた。塾の子供たちに。分校の子供たちに。父母たちに。新しい生活がはじまりました、とても充実した毎日です、休みにはみんなで遊びにきて下さいと。しかし最後の一通がなかなか書けなかった。ジープを走らせ役場に向かうとき、山のなかに入っていくとき、春の光を浴びて森のなかに歩くとき、明日こそ書こうと思うのだ。しかしその明日がやってきて、机に向かいペンを握ると書けない。一行も書けなかった。
 しかし日曜日の朝、雨にけぶる山に目をやりながら、長太はとうとう長い手紙を書きはじめた。すると言葉が指からしたたり落ちてきた。

《‥‥分校での挨拶の中でもふれたことですが、分校の活動のお手伝いをするまで、ぼくはまったくの分裂状態のなかで生きていました、テストの点数を上げる教育など教育ではないという主義をもちながら、しかしゼームス塾で行っていることはテストの点数を上げる授業でした。この分裂状態のなかでずるずると生きていたのです。そんなぼくにあなたは、分校で子供たちの生命と対決するような授業を求めてきた。それはむしろぼくが望むことでした。かねてからそういう授業をしたいと思っていたのです。子供たちを山のなかに、自然のなかに誘いこんで、そして彼らの生命と対決するような授業を。
 分校の子供たちは、ぼくの拙い授業にこたえてくれました。子供たちは創造的に森に関わっていくようになりました。大きな実りを成した授業だったと思います。しかし今はっきりと思うことは、この授業はぼく自身のためにあったのだと思うのです。ずるずると分裂状態を引きずって生きているぼくの人生に一つのけりをつける授業だったのです。この授業によってそれまで以上に深く丹沢に入りこみ、子供基地をつくり、新しい道が切り開かれていったのです。ぼくもまた分校によって蘇ったのです。
 丹沢村での生活は二つの契約のなかではじまりました。役場の嘱託という仕事と森林組合の事務局の仕事です。月水金が森林組合の仕事で、火木土が役場です。それぞれから手当がでますが貧乏生活です。しかし家は無料ですし、森林組合からジープが貸与されていて、ガソリン代もそこで払ってくれます。村の人たちから野菜などもらいますから、安い給料でも少しも困りません。品川にいたときよりも何倍もの豊かさを感じています。こういう生活をつくりだしてくれた矢代さんの周到な配慮に頭が下がるばかりです。矢代さんはこの二つの仕事を通して、ぼくがしっかりと丹沢に入っていく道をつくりだしてくれたのです。
 役場の最初の仕事は八月に開催される「自然の学校」を組み立てることです。これはちょうどぼくたちが品川で試みてきた活動の延長のようなものです。入沢という山間にある廃校をいま改築していますが、その学校に都会からやってくる子供たちを宿泊させ、自然にかんする授業やら活動を展開していくのです。昆虫採集とか、自然観察とか、バードウォチングだとか、星空観察だとか、上流探検だとか、山登りだとか、キャンプファイヤーとかいったもので組み立てます。その学校が成功すれば、将来この村に本格的な「自然の学校」といったものをつくりたいと村長さんたちは考えています。そういう大きな展望のなかでの最初の布石ですから、張り切らないわけにはいきません。
 森林組合もまた八月にその学校を舞台にして講座を組むことになっていますが、そのほうの企画も進行させています。この講座もまた森林をテーマにしていますが、こちらは対象が大人たちです。男性だけではなく女性もまた参加できるように、小は木工制作から大はログハウスづくりなどの講座を組みこむ予定です。そんな企画を進行させているなか一番力を注ぎこんでいるのが森林クリエーターを軌道にのせることです。六十人もの応募者のなかから選抜された六人の青年たちとともに、ぼくもまたできるかぎり山に入ることにしています。
 伐採、搬出、枝打ち、間引き、下草刈り、植林、林道の整備、倒木の処置などそれぞれ重労働です。しかし山を知るということはこういう肉体の労働のなかからだと思っています。たんに観念ではなく、知識だけでなぐ、山というものを、日本の林業というものを知るには、矢代さんのように樵にならねばならないのです。都会生活ですっかりやわになり退化してしまった肉体を、山の仕事できたえ直そうと思っています。まったく山の労働はきついものです。山に入るたびにあちこち傷をつくります。しかし毎日がとても充実しています。こんな充実した生活ができるなんて嘘のようです。
 ここまでぼくのペンはすらすらと走ってきました。しかしここから書くことが突然にぶっていきます。一行書いては迷い、また一行書いてはため息をつき、さっぱり進みません。こんなことを書いたらあなたを怒らせるだけではないだろうか、あなたを不愉快にさせるのではないだろうか、ぼくたちの豊かな交流がこんな手紙のために一気に崩れ去っていくのではないかという思いが攻め寄せてきます。そういう思いがぼくをしきりに自制させようとしますが、しかしその一方であなたへのあふれるばかりの思いを伝えたいという誘惑もまた噴き上げてくるのです。
 ぼくはこの丹沢に入ってしきりにあなたを思います。朝の健康な光を浴びてジープで役場に向かうとき、カマやナタやノコギリや水筒や弁当をつめこんだリュックを背にして山に登るとき、きらめく森の光の中を歩いているとき、ぼくのなかにあなたがあらわれてきます。ぼくのなかであなたがどんどん大きくなっていきます。なにかたえきれないばかりに。そのことを伝えたいとしきりに思うのですが、しかしぼくにはそんな資格はありません。ぼくはやっと新しい道を歩きはじめたばかりであり、こんなことを書く資格などないと思うばかりです。しかしやはり最後の一行にぼくの思いを伝えようと思います。あなたとともに歩きたいと。あなたと森のなかを歩きたいと》

 翌日の朝、長太は役場の前にある郵便ポストに、その手紙を怒ったように投げ込むのだった。
                完

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君は素敵なレディになれる 3


 その翌週だった。その朝のぐずり方はちょっとひどいものだった。それだけ智子が強引だったこともあるが、ベッドからひきずりだしても、また智子の手をふりほどいて布団のなかにもぐりこむ。智子は負けまいと、また力づくで宏美をひきおこすと、宏美はばたばたトイレにかけこんで錠をおろしてしまったのだ。そんなことははじめてのことだった。ドアをどんどん叩いても、なかから嗚咽があがるばかり。この新たな展開に智子はすっかり動転してしまった。
 智子はいらだちと悲しみのないまじったためいきをつくと、気分をかえようと宏美の部屋にもどり、窓をあけた。すると窓の外にめぐらせた柵にぼてっと水を吸った教科書とノートがたてかけてあった。本やノートはたっぷりと水をすっていてずしりと重たい。おなかが痛いの、下痢なの、と泣きながらもどってきた宏美に、
「どうしたの、これ?」
 と智子は訊いた。
「なんでもないよ」
「なんでもないじゃないでしょう、いったいどうしたの、これ」
 宏美はじれったそうに、昨日お掃除のとき水のはいっているバケツのなかに落としてしまったのだと言った。しかし智子はピンとくるものがあって、
「だれかが、宏美ちゃんの教科書やノートをバケツのなかに放りこんだんじゃないの」
 宏美は涙をぽろぽろ流しながらはげしく首を振った。
「いいわ。今日はお休みにしなさい。でもそのかわり、お母さん、学校にいって先生に会って、最近の宏美ちゃんのことを聞いてくるわね」
 宏美の担任は宮崎という三十前後の独身の先生だった。どこか茫洋としていて、小さなことにこだわらないスケールの大きな先生だという印象だった。しかしこのごろはただずぼらで、感受性の乏しい先生ではないかという印象にかわってきていた。そんなイメージを抱いてはいけないと思いながらも、会って話しをするたびにその思いを強くするのだった。
 その日の放課後、智子が引き戸を引いて教員室に入ると、宮崎が手で招いた。
「さあ、どうぞ、そこに」
 智子が躊躇していると、
「いや、高橋先生はもう帰られましたから、そのイス空いてます、どうぞ」  
 そうではなかった。まだ部屋には先生たちがたくさん残っていた。そんななかでこみいった問題を話すことなどできなかった。こういうところが無神経なのだと智子はまた思ってしまうのだ。
「ちょっと個人的なことですので、どこか静かなところでお話ししたいのですが」
「ああ、そうですね。それなら教室にでもいきますか」
 そしてくたびれる話はいやだなあという表情をあらわにして、ぱたぱたとスリッパの音をたてて教室にむかうのだった。
 小さな椅子にすわると、智子は教科書のことを話した。
「ほお、そんなことがあったんですか。しかしそれは宏美が言うようなことではなかったのですか」
「でも私のカンですけど、なにか隠しているような様子です。もし宏美の言うようなことでしたら、すぐに私にそのことを話すはずなんです。バケツに教科書とノートを落としちゃったけど、どうしたらいいって。それをこっそりと窓の外にだしているなんて、おかしいんです」
「それは、お母さんの考えすぎではないんですかね。お母さんのカンというのは、だれかうちのクラスの生徒が、宏美の教科書やノートをバケツのなかに投げこんだということですか」
「いえ、そういうわけではありませんけど」
 そうあからさまに言われると否定する以外にない。
「そこまでする生徒はうちのクラスにはいないと思いますがね」
 そう言われてしまうと、もうそれ以上のことは言えなかった。智子は仕方なく話をかえて、宏美はいまクラスでどんな生活をしているのかを訊いた。それは宮崎の感受性がどこまで宏美をとらえているかということなのだ。
「宏美はとにかくユニークな子ですね。自分をしっかりと主張しますから。そんなことでクラスからちょっと浮くということがありますけど、でもそれがいじめにつながっているとは思えませんがね」
「そうでしょうか。でもいじめられているという噂は、宏美のお友達からもよく聞くんですよ」
「そのことは先日、母さんから言われまして、ぼくも注意してみているんですが、それらしきものはみえないんですがね」
「でも、子供たちってとっても利口だから、先生に見つからないようにするんだと思うんですよ」
「しかしみえてくるものは、どんなに隠していたってみえてくるもんですよ。お母さんもかつては先生をなさっていたんですから、そのへんのことはわかると思いますが」
 なにかそれは嫌味を言われたように響いてきてしまう。そんなふうに受け取ったらいけないのだと思い素直に言ってみた。
「そうですね。みえてくるものはみえてきますね」
「宏美がいじめられている光景は、少なくとも学校では、というよりも教室ではみえませんね」
「それはきっと宏美が弱音を吐かないからだと思うのです。あの子はちょっとぐらいのことではへこたれたり泣いたりしません。どんなにくやしいことがあっても泣かない子なんです。そういう子が朝はほんとうに泣虫になって、めそめそして、学校にいくのをいやがるんですね。いったいどうしてなんだろうと‥‥」
「それはぼくに言われてもわかりませんね。精神科医ではないんですから。まあともかく、ぼくはお母さんの考えすぎだと思うんですが。たしかに宏美はちょっと目立つ子です。はっきりと意見を言うし、仲間とちがったことを平気でやりだすこともある。群れのなかに入れないというよりも、入らないで超然としているというか、入れないでも平気でいられるんですね。そういう個性はもちろん貴重であり、悪いとは言いませんけど、しかしみんなとなにかをしていくときには、協調することも必要だと思うのですね。そういう努力も必要なんですよ」
 そしてもう話は打ち切りたいと言うように、
「まあ、ぼくもいっそう注意して彼女をみていきますが、ご家庭でも学校にいきたくないような原因というか、状況をつくりださない努力が必要だと思いますね」
 宏美が学校にいけないのは、家庭に原因があるような口ぶりだった。智子はちょっとかっとなったが、しかしそんなふうにしか受けとれなくなった自分が、みじめでなさけなかった。人の言葉を素直に受けとれないなんて。

 その日曜の朝、智子が品川の駅のホームにいくと、小学生八人に中学生が四人、それに大学生がきていた。長太は五分ほど遅刻してきた。すると小学生たちが遅刻遅刻と大合唱をはじめて、これで百円もうかったなどと言っている。どうやら遅刻したら、一人に百円払うという罰ゲームがあるようだった。
 智子はこの塾の野外活動に参加するのは、これで三度目だったが、とても楽しみにしていた。邦彦はゴルフだったし、宏美のことで毎日が気がめいるばかりの智子にとって、大自然は命の洗濯になるのだ。
 彼女は学生時代よく山に登った。あの苦しい登りがなんともいえず心地よかった。登りはじめていくと、どっと汗が吹き出てくる。都会の生活でたまっているさまざまなストレスといったものが、あの苦しい登りのなかで一斉に吹き出していって、代わって新鮮な血液が体のなかをかけめぐっていく。
 教師時代も彼女はよく生徒たちを山につれていった。長い夏休みや春休みになると、八ケ岳、南アルプス、北アルプス、ときには北海道の大雪山まで連れていったこともあった。彼らはそのきつい登りにあきれかえる。気が狂っちゃうとか、どうしてこんな苦しいことが面白いんだとか、なにが自然が素晴らしいんだとか、もうぜったいにこんなところにくるもんかとか、ぶつぶつ言いながら登ってくる。しかし苦しければ苦しいほど、山は高度をあげていく。壮大な景色が眼下にひろがっていく。そうやって彼らは、大自然のふところに抱かれていくのだ。
 彼らの心が次第に変化していく。自然の大きさ素晴らしさに、次第にひきこまれていくのだ。どんなに手のつけられない子でも、どんなに心の通わない子でも、山につれていくとたちまち深いところで交流できた。山小屋の粗末な食事、沈む太場、夜にまたたく星空、そして朝の日の出。その山登りは、まだはじまったばかりの彼らの人生に、たしかにある痕跡を残すのだ。
 それは彼女が、中学の教師であった二十三のときから二十八までの、わずか五年にすぎなかった。しかしその五年間が、どんなに輝いていたか。ときどきそのときのことが、胸をしめつけるばかりによぎってくるのだった。

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オランダ運河のタカシ通り  2


 それは七年も前のことだった。
 新しい子供が転校してきたという噂が児童館にも流れてきた。なんでもその子の母親は夜逃げしてしまい、いまヤクザをしている父親と二人で小さなアパートに住んでいるとか、その子はまだ四年生だけどすごく喧嘩が強くて六年生を泣かしてしまったとか、いつも学校を休んで深夜までぷらぷらしているからしょっちゅうパトカーで警察に連れていかれるとか。そんな噂を聞くたびに悪い環境にいる子だな、と弘はさむざむとした気持ちになるのだった。
 ところがそれから間もなくして、その噂の主が児童館にあらわれたのだ。弘は子供たちの噂から、体の大きなふてぶてしいあのドラエモンにでてくるゴンちゃんのようなイメージをいだいていたのだが、実際のその子は四年生にしても背が低く、おまけにひょろりとやせていて、どこにも喧嘩の強そうなイメージはなかった。むしろさびしげな表情をたたえた弱々しそうな子供だった。
 それから高志は毎日のように児童館にやってきたが、子供たちには人気があり、次第に遊びの中心になっていった。しかし弘の印象はけっしてよくなかった。弘が高志に声をかけると、じろりと鋭い視線を放ってぷいと離れていく。弘にはいつも敵意のこもった表情をむけるのだった。
 しかし同僚の久保田信子は、弘とまったくちがった見方をしていた。
「あの子はすごくやさしい子ですよ」
「そうかな。ぼくには敵意のこもった目をするけど」
「そんなことありません。あの子はとってもやさしいのよ」
 信子はそう言って高志のことを擁護したが、それから間もなくして弘の予感するようなことが起こった。和彦という子が弘のところにやってきて、高志に三千円とられたと言ったのだ。そんな噂を弘は前から耳にしていた。高志に百円おごったとか、二百円貸したとかいった話を。しかしそれは別に高志という子に、カツアゲされたとかだましとられたという話ではなかったから、そのまま聞き流していたのだ。しかし和彦の話はそれとはまったくちがったものだった。和彦ははっきりと三千円とられたと言ったのだ。
 その日、高志が姿をみせると、弘は彼を児童館の屋上に連れていった。午後の太陽がふり注いでまぶしい。弘はどっかとコンクリートの上に尻をおろして、高志にも同じことをすすめた。しかし彼はただならぬ弘の気配を警戒してか立ったままだった。
「すわりたくない?」
「べつに」
「じゃあ、すわってくれよ」
 彼はやっとすわった。高志をまじまじと目の前でみると、まだあどけなさとかわいさをたっぷりと残しているし、その目はとても澄んでいるのだ。
「あのね、ちょっと高志にきくけどさ、君はいくらぐらいお小遣いもらうわけ」
「もらうときも、もらわないときもあるよ」
「もらったときは、なにに使うわけ」
「いろいろと」
 と小さな声でぼそっとこたえる。鋭い嗅覚ですでに弘がなにを言おうとしているのかわかっているようだった。高志は緊張で体をこわばらせていた。それは無理もなかった。弘の口調がまるで尋問しているかのようなのだ。ちょっと興奮している弘は思い切って言ってしまった。
「君はカツアゲしているんだってな」
 一方的にきめつけるように言うと、それはわかっているんだ、ちゃんと調べてあるからね、嘘をついてもだめだよ、それはよくないことだ、そんなことをしたら犯罪なんだ、犯罪ということはおまわりさんにつかまることだ、こわいところに連れていかれるんだぞ、とまったく子供をおどかす古い常套句をつかって叱ってしまった。
 その翌朝だった。弘が児童館に出勤すると電話が入ってきた。
「あの、中川和彦の母親ですが、いつもお世話になっています」
 弘は母親たちから電話があるたびにひやりとする。このときも和彦の母親だときいて、ああ、あの三千円の問題だなと思い、ちょっと構えて受話器を握りなおした。
「児童館の帰りなんでしょうかね、唇のところがばさっと切れて、顔もものすごくはらして帰ってきたんですよ。痛いって言うもんだから、すぐ医者につれていったんですけど。だれかにそれは強く殴られたようなんですね。今朝も頭が痛いって言うもんですから、学校を休ませたんですけど。児童館でなにかあったのでしょうか?」
 あいつだ、あの子だ、と弘はすぐにひらめいた。弘にちくった和彦を待ちぶせて鉄拳を見舞ったのだ。弘はそのあたりの事情をもっと詳しく知ろうと自転車にとびのって和彦の家にむかった。
 和彦の家はあきれるばかりに大きな家だった。部屋に入るとその広さその豪華さがさらに目につく。広々とした玄関ホール、そこからのびているゆったりとした廊下。招かれた居間はふかぶかとした絨毯がしかれ、皮ばりのソファーがL字型に鎮坐して、その奥にグランドピアノがあった。テレビドラマにでてくる上流階級の家庭さながらの室内風景だった。
 弘は母親よりも和彦と話しがしたくて、二階の和彦の部屋にいった。そこも十二畳はたっぷりあるのだろうか、子供部屋とは思えない豪華さだ。テレビがあり、電話まではいっている。公団アパートで一家四人つましく暮らしている弘には、ためいきがでるばかりの部屋だった。
 和彦はベッドにあわてて飛びこんだという風だった。
「やあ、どうだい。調子は」
 と言って彼の額に手をやってみた。熱もない。顔のむくみもない。昨日殴られたあとはあとかたもなく消えていた。どうして母親というのはあんなにオーバーに言うのだろうかと弘は思った。
「だれかと喧嘩したんだ?」
 彼は首をふった。そのはげしいふり方は、もう口が裂けても言うまいと決意しているかのようだった。
「あのね、もう一度きくけどさ、それは高志じゃないの」
 と弘は言った。和彦はまた首をはげしくふった。そのはげしいふり方はまぎれもなく高志なのだと言っているのだ。
 その日の午後、高志は児童館にあらわれなかった。それはそうだった。昨日あんな言い方をした以上、もう二度とこないのかもしれなかった。
 どうしても高志と会いたかった弘は、児童館の門を開じてから彼の家にいくことにした。彼が住んでいる高橋荘を知っている子供たちから、だいたいの場所をきいていたのだが、なかなかその建物がみつからなかった。裏通りからまた裏通りへとぐるぐるまわって、やっと路地のつきあたりの奥に、まるで隠れるようにひっそりと立っている貧相な高橋荘に出たのだ。
 山川という紙きれが、そのドアに貼ってあった。そこが高志の部屋なのだろう。ドアを叩いても、なかから応答がなかった。鍵もかかったままだった。もうすっかりあたりは暗くなっている。ぼんやりとしたさびしくわびしい裸の電球が、そのアパートの二階に上がる鉄の階段についていた。弘はその階段にすわって本を開き、そのあかりで活字を追いながら高志の帰りを待っていた。
 高志の姿が角からあらわれたのは七時を過ぎていた。
「お一い、たかし!」
 と弘が声をかけたとたんに、高志はものすごい勢いで逃げ出したのだ。弘もまた猛然とかけだした。高志は路地から路地へとねずみのようにかけこんでいく。しかし弘も負けてはいなかった。必死で追いつめて、やっと彼の手をつかんだ。
「高志、そうじゃないんだ。君にあやまろうと思ってきたんだ」
 と弘は荒い息をはあはあさせながら言った。しかし弘の手にがっちりとおさえられている高志は、反抗の姿勢を全身であらわしたままだった。
「きのうはゴメン。ぼくが悪かったんだ。あんな言い方ってないよな。許してほしいんだよ」
 弘のそんな言い方に、高志も少し警戒をゆるめたようだった。
 そこは六畳一間の部屋だった。家具が壁を埋めて、狭い空間の真中に折りたたみ式のテーブルがおいてあった。そのかたわらに汚れた衣類が山とつまれてある。わびしく殺伐とした部屋だった。
「お父さんは、いつも何時ごろ帰ってくるの?」
「一時ごろ。おそいときは二時ごろ」
「夕食なんてどうするわけ」
「パンを買ったりしているよ」
「そうか、一時か二時なのか、お父さんが帰ってくるのは」
 子供たちが高志のさまざまな噂をしていたが、その噂の謎といったものがとけていくように思えた。いったいこんなことがあるのだろうか。これでは学校にいけないのも当然だった。これでは夜遅くまで外をうろつくのも仕方がなかった。謎がとけていくと、弘は泣きたくなるほど悲しくなった。こんなことが現実にあるのだろうか。こんな豊かな社会にこんな貧しい状況におかれた子供がいるなんて。いままでの弘には想像することもできないことだった。
 弘は高志を、ゼームス坂の坂道を下りきった所にあるラーメン屋に連れていった。
「さあ、なんでもいいよ。なんでも君の食べたいもの食べていいから」
 しかし高志は、ぼくはいいけどと言った。そんなに食べたくないと言った。あとで知ることなのだが、高志は誇りの高い子供だった。どんなに空腹でもどんなにつらくても、なにか彼の守るべき掟みたいなものがあって、それをけっして破ることをしないのだ。
「ここのラーメン、うまいんだよ。ダシがきまっているからね。なんといったってラーメンはダシだからね。このダシがなんだかわかる?」
「いや」
「あのさ、この辺の猫が消えるんだよ。毎日毎日一匹づつ。こっそりと君だけに教えるけど、どうもこのラーメン屋はその猫をダシにつかっているという噂なんだ」
「うそ」
「ほんとうさ。だから猫たちは、ぜったいにこのラーメン屋の近くには近づかない。猫たちはね、このラーメン屋に対抗してね、猫同盟というのを作っているんだよ」
 それは弘が最近作った〈猫同盟〉という童話だった。彼は童話を作ると子供たちに話して、そのできぐあいをみる。子供たちがその話にのってくると大成功というわけだった。その〈猫同盟〉のあらすじといったものをひそひそと高志に話してみたが、高志にはさっぱりうけなかった。それで、
「あのさ、もしお金がほしくなったら、ぼくのところにきてくれよ。ぼくも貧しいけど、高志に貸すお金ぐらいあるからさ。もちろんそのお金は君が大きくなって働くようになったら返してもらうけど」
 高志はもう弘にたいする警戒も敵意もといていた。そして彼の心をすべて開くかのように言ったのだ。
「和彦ってお金をもっているんだ。あいつのお小遣って一万円だって」
「そうだろうな。あいつの家は金持ちだからね」
 昼間いったあの和彦の家がよぎってきた。あの豪華な家と高志のアパートのはげしい落差。この落差のなかで子供たちは生きているのか。
「ぼくは金持ちの子からしか借りないから」
 と高志は言ったのだ。

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珈琲亭・白鯨(モービィディック) 5


 謙作の住むアパートは、エンジュの街路樹が立ち並ぶ通りを折れて、くねくねとした裏通りを幾つも曲がった所に立っていた。モルタル仕立ての木造二階だてで、間もなく解体されると宣告されているような建物だった。謙作の部屋は一階の一番奥の、北向きの一年中太陽がさしこまない薄暗い六畳一間の部屋だった。全国どこの不動産屋も老人には部屋を貸さないというルールがある。謙作がその部屋に住むことができるようになったのは、管理人という仕事をするという条件があったからだった。
 管理人といっても手当がでるわけではない。それどころか毎日、アパートの玄関やらトイレやら廊下掃除をするという仕事があった。しかしそういう仕事を担うことが謙作の生きがいにもなっていた。だれにも気兼ねすることはない。自由だった。仏壇にのっている幸子の写真が、彼にむかって微笑んでいる。美しい笑顔だった。その笑顔が謙作に語りかけている。早く病院にいきなさい、病院が嫌いなのはわかるけど、もっと悪くなったらどうするんですかと。老人はドアをあけて、廊下からその部屋の全体が収まるように《写ルンです》のシャッターを切った。
 
 冬将軍がやってきた。寒風が吹き荒れていた。その寒風をついて珈琲亭にやってきた老人はいつものテーブルに座った。窓からみえる街路樹はもう葉をすべて落としていた。広大なJRの車両基地も、赤煉瓦の建物も、なにやら吹き荒れる寒風に縮み上がっているようだった。その寒々とした景色に目をやりながら、老人はあたたかいコーヒーカップを両手にくるみこんで、いとおしいものをすすりこむようにコーヒーをすすった。そしてコートから封筒を取り出すとテーブルの上に置いた。その封筒のなかには数行の文字を記した便箋が入っていて、そこにはこう書かれていた。

《クジラ絵本クラブ様。自分にとって夢のような旅でした。このような旅を自分に与えてくれたクジラ絵本クラブ様にどんなお礼をしていいかわかりません。これはほんの少しですが受け取って下さい》

 受け取る者をちょっと困惑させるばかりの現金がその封筒に入っていた。コーヒーを飲み干すと、珈琲亭のオーナーといつも交わすセリフを投げあい店を出ていった。それが謙作が珈琲亭を訪れた最後の日だった。

 しかし私たちは今でも謙作に会うことができる。JRの大井町駅の改札を抜け、土手下に線路が走る道を歩いていくと、赤煉瓦仕立てのビルの前にでる。一階は英国屋というテーラーでその店の横にらせん状の階段がついている。その階段をぐるりと回って上がると『珈琲亭・白鯨』のプレートが架けられた店に出る。その店のドアを押すと香り高きコーヒーの匂いがただよってくる。窓際に外を望む長いカウンターがある。そのカウンターの左端の椅子に座ると、そこに一冊の絵本がのっている。その絵本の表紙に描かれている人物こそ謙作その人だった。
 その絵本を開くと最初のページに《渡辺謙作さんへ》と記されている。その絵本の体裁は、左のページに二三行の横組みの文章が、そして右のページが絵だった。パステルで描かれたその絵は、子供が描いたような絵だった。しかしなにか懐かしい、なにか私たちの魂を響かせるような絵なのだ。最初のページからそこに組まれた文章と、その絵をざっと文字でスケッチしてみる。

《渡辺謙作さんは、一九二〇年六月、長野県東筑摩群潮沢村池桜に生まれた》
謙作が潮沢村で撮ってきた写真を下敷きにして描かれている。峠から木立のなかに点在する集落が俯瞰されていた。

《謙作さんは中国の大地を開墾して開拓村をつくった。そして幸子さんと結婚した。二人の子供も生まれた》
畑のなかに立つ二本のポプラ。その木立の前に小さな子供を中に農夫と赤ちゃんを背負った農婦が描かれている。それはおそらく若き日の謙作と幸子を描いたのだろう。

《謙作さんは関東軍に召集された》
謙作を乗せたトラック。そして開拓部落の人たちが日の丸の小旗を振っている。

《謙作さんはニューギニア戦線に投入された。何十万もの兵士がジャングルのなかで餓死した》
暗い熱帯雨林のなかに、錆びつき破損した日本兵のヘルメットが描かれている。

《ソ連軍が満州国に進攻してきた。幸子さんは逃亡の途中、二人の子供、太郎と次郎を失った。開拓村から日本に帰ってこれたのはたった三人だけだった》
黄濁した河を避難する開拓民たちが渡っている。

《謙作さんと幸子さんは、再び原野を開拓することになった》
荒れた土地を開墾していく謙作と幸子をミレーの絵画のように描いている。

《冬になると東京にきて建設現場で働いた。農業だけでは食べていけなかったのだ》
海に架けられた巨大な橋。空を飛翔するユリカモの一群。橋梁建設の作業場で謙作が働いていたことを伝えようとする絵だ。

《六ケ所村は新全国総合開発計画の敷地になった。開拓者たちの大半は開墾した田畑を売ってしまった。しかし謙作さんと幸子さんは抵抗した》
土砂を運ぶダンプカーが列をなして広大な更地にしていく。謙作と幸子は田畑で働いている。

《幸子さんを病で失った。中国で失った二人の子供を供養する道祖神の横に、謙作さんは幸子さんの道祖神を建てた》
冠雪した雄大な六甲田山。画面の左側に三体の道祖神が建っている。

《また新しいモンスターが六ヶ所村におそいかかってきた。核燃料サイクル施設の建設がはじまった。このとき謙作さんにはもう抵抗する力はなかった》
起動する重機が謙作と幸子が築きあげた家屋を粉砕していく様子が描かれている。

《謙作さんは一人息子の一家と東京に住むことになった。しかし息子さん一家との生活は一年で終わった》
ゆったりと流れる多摩川。その堤に座っている老人。その背中が孤独と悲しみの深さを伝えている。見るものの胸を締めつけるようなパステル画だ。

《謙作さんはアパートの管理人となって、そのアパートに住んだ。六畳一間の部屋だった》
タンスやら仏壇やら冷蔵庫がひしめていている小さな部屋。そのわずかな空間に卓袱台がおかれている。

《謙作さんは、二〇〇八年二月二十日、荏原病院で八十八年の生涯を閉じた》
 対面の頁は白紙である。何やらその白い頁は、人間の語る最も深い言葉は沈黙であると語っているようだった。

 その絵本を閉じる。歴史に翻弄された渡辺謙作の八十八年の生涯をたどって、あらためて表紙に描かれた謙作の顔に見入るとき、すべてを許容しすべてをつつみこむような笑顔が切なく哀しく心に染み込んでくる。その絵本のタイトルは《日本人》となっていた。

               完

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飯舘村菅野村長への手紙 
村長室であなたから手渡された佐藤安美さんの記事は、いまでも私の胸底のなかに深くしみこんでいます。間もなく村長選挙がスタートしますね。それはまた私たちへの問いかけでもあります。飯舘村を復活していくには、私たちはなにをしたらいいのか。飯舘村の悲劇を私たちはどんどん捨て去っていく。とんでもない話です。飯舘村の悲劇は、私たちの世代が犯した恐るべき犯罪でした。私たちはなにをしたらいいのか。私たちに何ができるのか。無力で非力な私ですが、いつもその射程を忘れてはいません。

れり1

Don’t Call Us Victims  
Iitate Junior high school  Ami Sato

I have a word which I don’t like to say. It’s “hisaisha”, which means a victim of disaster. I am not a victim anymore. I’m tired of being called a victim. On March 11th, 2011, a big earthquake hit us. It was the most powerful earthquake ever recorded in Japan. And it brought about 16,000 deaths, 6,000 injured and 2,500 people missing across twelve prefectures. What’s more, 230,000 people ended up living away from their homes because of, as you know, the nuclear accidents caused by the tsunami. Everyone was desperate.  I am one of them. Although I live near Fukushima city now. I lived in Iitate village until that day. When my family heard the news about the accident at the nuclear power plant, they decided to take refuge in Tochigi Prefecture without my mother, who was working in Iitate. I spent a lot of anxious nights worrying about her. I’d like to ask you: What do you know about us? And how did you know that? Many people usually get information through mass media and they believe it as truth. Actually, I have watched TV programs about the disaster and also been interviewed about my experience many times. Just doing a little thing causes them to cover it. So we try to broadcast the reality that we are working hard. We want you to know that we are moving on. However, I feel that the reports have become biased. Footage and interviews were made into exaggerated stories. They are just making us out to be victims. Must we keep being victims forever as they expect? Indeed, “hisaisha” tend to be regarded as miserable. However, I don’t feel that way. “Hisaisha” is not always miserable. When the earthquake hit us, we got a lot of support from all over Japan, or rather all over the world. For example, I joined a camp with a lot of foreign people to brush up my English. During that time, I met some precious people who encouraged me. Thanks to that, I found I really loved English. And there, I’ve found my dreams. I want to go to America. I want to learn more about this world. I want to be a teacher. We are not special. We study like everyone else. We go out to find what we want like everyone else. We have dreams like everyone else. The 6 years since that day gave us enough power to stand on our feet. What I am now is a result of my resistance against the disaster. Now we can do anything if we never give up. I am working hard to learn even more about Iitate village. Through this study, I made a movie with my friends to broadcast about the reconstruction of our hometown. We can create our future by ourselves. We don't want to use the word "hisaisha" anymore. We are people who can live looking forward.

被災者と呼ばないで  
飯舘中学校三年 佐藤安美

私には口にしたくない言葉があります。それは「被災者」という言葉です。災害による被害を被った人のことを意味します。私はもう被災者ではありません。そう呼ばれることにうんざりしています。2011年3月11日、大きな地震が私たちを襲いました。それは日本で観測され た最も大きな地震でした。1万6,000人が死亡し、6,000人が負傷、そして12 の県で2,500人が行方不明となりました。さらには23万人が住み慣れた家を離 れ、避難を余儀なくされました。津波によって原発事故が引き起こされたからです。誰もが必死になっていました。私もその一人です。今は福島市の近くに住んでいますが、その日まで私は飯 舘村に住んでいました。私の家族は、原発事故のニュースを聞いて、飯舘村で 働く母を残して、栃木県に避難することを決めました。母のことを心配しながら、私は不安な夜を過ごしました。会場の皆さんにお聞きします。私たちについてどんなことを知っていますか。そしてそれをどうやって知りましたか。多くの人はメディアから情報を得て、それを真実だと信じています。実際に私は震災についてのテレビ番組をたくさん見ましたし、インタビューもたくさんされました。ほんのちょっとしたことでさえ報道されました。だから、私たちは一生懸命がんばっているという事実を皆さんに伝えようとしてきました。「私たちは着実に前進している」そんな事実を皆さんに知って欲しかったからです。しかしながら報道には偏見が入っているように感じます。映像やインタビューは誇張した話で作られていました。私たちをただの被災者に仕立て上げるのです。彼らの望む通り、私たちは永遠に被災者であり続けなければいけないのでしょうか。確かに、被災者はみじめなものとして受け取られがちです。でも私はそうは 思いません。被災者は必ずしもかわいそうではないのです。地震が私たちを襲ったとき、私たちは日本中、いや世界中からたくさんの支援をいただきました。例えば、私は英語力を磨くために、外国の人と一緒にイベントに参加しました。そこで私を勇気づけてくれるかけがえのない人々に出会うことができま した。そのおかげで、私は本当に英語が好きなんだということにも気づきました。そこで私は夢も見つかりました。私はアメリカに行きたい。この世界のことをもっと学びたい。そして将来教師になりたい。私たちは特別なんかじゃない。みんなと同じように勉強するし、やりたいことを見つけに外にも飛び出します。みんなと同じように夢だって持っていま す。あの日からの6年間が、私たちに、自分の足で立つ十分な力を与えてくれたのです。今、ここにいる私は、震災に対して必死に抵抗した結果なのです。私たちは諦めなければ何でもできます。今、私はふるさとについて一生懸命学んでいます。この学習で、私たちは飯舘の復興を発信するための動画を作りました。私たちは、自分たちの未来を、自分たち自身で創っていくことができます。私たちは被災者という言葉をもう使いたくはありません。私たちは前を向いて生きているのです。

(高円宮杯全日本中学生英語弁論大会に福島県代表として出場した飯舘中学校3年の佐藤安美さんのスピーチ。「広報いいたて」平成三十年一月号より転載)

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大作のスケッチ

 祖父も祖母も二人の孫を愛していた。彼も二人に愛されていることはわかっていた。市役所に勤務する祖父はまだ定年前だったし、祖父母の生活は健全だった。祖父は最後は助役にまで昇進している。いわば地域社会のエリートだった。どこにも中学三年生になった孫が、新聞配達をしなければならないような理由はなかった。しかし彼のなかになにか火山のように吹き上げてくる力動のうねりが、彼をしきりに駆り立てるのだ。立て、立て、自立せよ、と。クラスに新聞販売店を経営している家庭の子がいた。彼はその子にたのんで新聞配達をはじめるのだ。祖父母は猛烈に反対したが、彼の内部に吹き上げてくる怒りのエネルギーを、そんなことでもしてしなければ解消できなかったのだ。毎朝四時に起きて新聞を配って歩く。その一歩一歩が彼の精神を自立させていく。ぼくは捨てられたのでない。ぼくの方からあんたのような馬鹿な親を捨てるのだと。
 天は彼にちょっと酷な運命を与えるが、同時に飛びぬけた才能をも与えたということかもしれなかった。新聞配達をしながら通った高校は学力二流高校だったから、三年間ぶっちぎりのトップだった。そしてストレートで東大に合格する。そのとき彼の周辺はちょっとした騒ぎになった。地元の新聞がこの快挙を「新聞配達をしながら東大合格」という大見出しをつけて報じたのだ。東大合格では大見出しなどつかないが、新聞配達をしながら東大合格は特ダネ的ニュースであり、さらに読者の心を打ったのは、東大に入っても新聞配達を続けるというくだりだった。
 このくだりに胸打たれた読者から、彼のもとに手紙が殺到した。なんでも百通は越えたらしい。その手紙のなかに現金が挟み込まれていたりして、なかには学費の足しにと二十万円も入れた現金書留が送られてきたりした。(もちろん彼は即刻その金は送り返した)。あるいは封書の中に若い女性の写真が入っていて、東大卒業後にこの娘と結婚してくれれば、あなたの学費と生活費を全額援助すると書かれてあった。あるいはまた私立高校の理事長と校長がつれだって訪ねてきて、特別奨学資金を出すから、卒業したらわが学校の教師になってもらいたいといった話も持ち込まれた。地方の町村では東大とは別格の存在で、そこに新聞配達しながら通う苦学生といったストーリーが加わると、こういう異様な社会現象になるのだろう。そしてそのときわが子を捨てたはずの馬鹿な女もまた東京から戻ってくるのだ。
 しかしこの母親の息子の才能は、なみなみならぬものだった。とにかく彼の読書量は半端ではなかった。あらゆる種類の本を読んだが、なかでも一番興味をひかれたのは歴史だった。小学生のときすでに二十数巻にのぼる「日本の歴史」や「世界の歴史」を二度も三度も読み返している。そしてそのシリーズのなかに登場してくる夥しい古典の本を、学校や町の図書館には置かれていないから、県立図書館から借りだしては手あり次第に読んでいるのだ。中学生になるともう彼の目標はしっかりと定まった。歴史の本を書く歴史学の教授になるのだと。大きな夢をもつのは母譲りなのだろうが、母とちがっていたのは、この息子はその夢を実現していく知恵と力をもっていたのである。彼が睡眠時間を削り取っての猛勉強で東大を目指したのは、その夢を実現させるためだった。彼は新聞販売店で出会ったばかりの石にそのことを告げている。
「まず取り組みたいのは、今日の歴史教育を逆転させることだね。小学校でも中学でも高校でも、歴史って必ず古代からはじめていくじゃないか。縄文式土器の時代が終わったら弥生式土器の時代とか、平安時代が終わったら鎌倉時代とかさ。しかし歴史の勉強は現代からはじめていくべきなんだよ。だってぼくたちが家系を調べるとき、まず自分の親からはじめていくだろう。それから両親の父母、その父母の父母と、どんどん過去にさかのぼっていく。それが歴史を学んでいく正しい方法なんだ。それが生きた歴史の学び方なんだ。年号を覚えるだけの歴史、知識だけを詰め込む歴史なんてまったく意味がない。こういう無味乾燥な歴史教育を百八十度転換させる。それもぼくがすべき仕事の一つだな」
 ともに大学一年生だった。二人は年齢が同じだった。石ももちろん漠然としてたが将来の進路図を描いていたが、これほど明確な目標を掲げて学業に立ち向かっている須藤に、ホームシックに陥っているような自分の甘さが鞭打たれたように思えた。
 彼は三年生のときに原稿百枚になんなんとする論文を書くのだが、その経緯がいかにも彼らしかった。その講義の期末テストはレポート提出で、そのときの課題が「中世荘園の政治的社会的構造を論述せよ」というものだった。その教授は日本中世史の権威と評される人物だったが、その講義に反感が募るばかりだった。何百年も眠っていた資料解釈の講義だから面白くないのは仕方がない。彼のなかから湧きたってくるのは、この教授の歴史に対する態度だった。そこで須藤は与えられたテーマではなく、そのころ耽読していたニーチェの「生に対する歴史の利害について」から借りてきた三つの概念、記念碑的歴史学、骨董的歴史学、批判的歴史学に、彼が思考した権威的歴史学という概念を組み込んで、この教授の講義に痛烈な批判をするレポートを書き上げた。いや、この教授だけではない。すべてとはいわないが、東大の歴史学の教授たちが一様にみせる資料の読み方、つまり歴史解釈に対する彼の疑問が噴き出してきたレポートだった。

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