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夢と渋谷と統合失調。それでも彼女は歌い出す〜10年映画「ドコニモイケナイ」感想〜

よく撮れたな。というか、よく撮らせたな。
観ていて、のけ反ってしまうドキュメンタリー映画が好きだ。

「ドコニモイケナイ」は、まさにそんな作品だった。先日、いくつかのサブスクで配信が始まった。

お話の内容は、十代の女性がミュージシャンを目指して上京し、それが頓挫し、故郷に戻って暮らしを続ける、というもの。あらすじだけなら、とてもシンプル。

しかしこの映画は、ジュブナイルではない。
戦争映画だ。
たった一人で、東京という敵地で、人生と戦争している女の子の物語。
武器は心もとない歌唱力と、まだ原石の美貌のみ。金なし宿なし人脈なし。
カメラは従軍メディアとして、彼女のストリートでの野戦を撮り抜く。そして、戦線から退いた後も。

撮影は主人公である吉村妃里が19歳の時に始まり、中断を挟んで足がけ約10年かかっている。
島田隆一監督もほぼ同じ年齢だから、撮られる方も撮る方も人生単位の作品ということだ。ありきたりなドキュメンタリーに収まるわけがない。

私はこの作品から、人生が終わらないという残酷と、人生が続いていく希望、その両方を感じた。
北極と南極くらい真逆で、そっくり。そんな二つが、一人の人間の中で地続きになる瞬間が描かれる。
ドキュメンタリーって、すごい。人が生きていくって、すごい。

以下、私が見どころだと思ったところ3つに絞ってご紹介するが、ネタバレの心配は御無用。
というのも、Amazon PirmeU-NEXTの紹介が、映画内で起きている出来事のほぼ全てを説明してしまっている。
逆にいえば本作の真価はそういう「起きたこと」にあるのではなく、主人公の表情や渋谷の街という「写っていること」にある。あるいは、写ってないけれど、今なら見えてくる何か。
つまり、観れば良さが分かる映画。それはとりもなおさず、観る価値のある映画、ということになる。

終わらない人生の残酷さを知ってしまった大人たちに。
あるいは、青春と呼ばれる何かを取り上げられたまま、年齢だけ重ねてしまった大人たちに。
つまり私のような人に、きっと届いてほしい作品です。

見どころ1「2001年渋谷の旅」

何が面白いって、とにかく時代描写が面白い。

舞台は2001年の渋谷。その街並みから映画が始まるのだが、私は顔を画面に近づけてしまった。
「うそ。渋谷、ぜんっぜん変わってないじゃん!」
冒頭を、何度も巻き戻して見返してしまう。
スクランブル交差点、センター街、道玄坂。やっぱり。20年前どころか、20時間前の渋谷と言われても信じてしまいそうだ。
過去にタイムスリップしたら現代とそっくりな文明社会があった、みたいな不思議な感覚。

あの時代の渋谷は、10代と20代がカルチャーをつくり発信する街だった。
しかし私にとっては、オシャレで遊ぶお金のある都会っ子だけが改札を出られると噂の、架空の都だった。心の距離感はニューヨークくらい遥か彼方。

しかし意外にも、渋谷はそこから進化が止まっているように見えた。四半世紀近くも何してたの?
高嶺の花すぎて口にしたことすらない憧れが、お焚き上げされた瞬間だった。歳をとるっていいもんだ。

そしてこの印象はおそらく「街ゆく人が今と変わり映えしない」ということにも大きく起因していると思う。
ファッションも、職業や年代も、から騒ぎも、令和人とそっくり。客先回り中の私もうっかり映り込んでいそうだ。

だからこそあることに気づくと、この風景が絵解きに見えてくる。
「この人たち全員、スマホなんてもってないんだよな」
フォロワーではなくメル友で、DMといえばハガキで、不特定多数との交流は2ちゃんねるで、ブログなるものがようやく認知され始めた時代だ。そもそもパソコンの普及率が50%を超えたのが2001年。
今の私と似たり寄ったりなこの人たちは、何を拠り所にしてあそこにいたのだろう。どうやって人と繋がり合っていたのだろう。

ここから、この映画の時代描写はさらに面白くなる。
街を切り取るだけではない。当時の若者たちの生の声が、収められているからだ。丁寧なインタビューで。
そこでは彼らの当時の価値観やコミュニケーションについて、リアルが語られている。
「あーやっぱそうだよね」
「そういうこともあったか」
変わらないように見えて、変わったこと。その逆も。
観ているこちらは映像にのめり込み、おのずから吉村妃里という人物を知ることになる。
孤独を覚悟で東京に出てきた理由、彼女を取り巻く社会環境。

吉村!がんばって!でも気をつけて!
時代やキャラの設定説明が面白い映画は、面白い。本作はその典型だ。

見どころ2「吉村妃里の戦争」

この映画に出てくる若者の多くは、地べたに座り込んでいる。
段ボールを敷いて弾き語りする子。1日中同じ場所で顔見知りを待つ子。車座になってたむろする子たち。
特に夜のハチ公前は、今のトー横やグリ下に酷似していた。

おそらく彼らの中には、深刻な事情を抱えた子も沢山いただろう。
夜の街へ逃げ込むしかないとしても、それが唯一の手段なら、逃避行は何も持たない者なりの戦い方だ。
彼らは、戦っていた。路上で、そこで出会った仲間と、笑いながら。笑うことが戦いだとでも言うように。
彼らの目線に合わせたようなローアングルが、その表情をとらえている。

吉村妃里もまた、そんな渋谷の若者の一人だった。
当時19歳。プロのミュージシャンを目指して、佐賀からヒッチハイクで上京してきたという。

しかし彼女は、際立っていた。

はっきりとした目鼻立ちには、金髪に負けない華があった。
笑うと少年にも見え、性別や年齢のものさしは通用しない。
舞台映えしそうな長い手足と、精悍な佇まい。
第一印象を覆す、ハスキーで低めの声。

まだあどけない立ち振る舞いも、喧騒に負けがちな歌声も、彼女を応援したくなるギャップだった。
吉村はわざわざハチ公前を選んで歌い、しかもアカペラだったけど、もし私がそこにいたら彼女の前で立ち止まってしまったと思う。

歌う彼女の足元には、プレートが立っていた。
「ただ今 無一文」
果たしてそれは本当に「ただ今」に始まったことなのか。カメラは吉村の実家に乗り込んで、彼女が逃げ出そうとした生活を直視する。
シングルマザーやシングルファザーが片親とか呼ばれていた時代。生活は今よりもさらに苦しかったのではないだろうか。
彼女は幼少期の辛かった思い出、悲しい記憶をカメラに語りながら、こう付け加えた。
「私が結婚したら、絶対に母子家庭にはならない」
「お母さんを養いたい」

日本は、ひとり親家庭の困窮率が50%以上。先進国の中でも、突出している。
その問題を知っている今から見れば吉村の境遇は、悪い意味で”珍しくない”。さらに悪く言えば”ベタな設定”に感じるかもしれない。
それでも本作を見ていられるのは、吉村を定型的に描いていないからだ。逆境のヒロインではなく、反逆のヒロインとして。

深刻な背景と、複雑な気持ちを抱えながら、地元から1,000km以上も離れた舞台で、これから主人公になろうともがく人間を撮っている。
彼女のドラマは、彼女がつくる。観客は黙って見てろ。私は、そう言われている気がした。

美貌と野心とたくましさ。
デフォルト装備の武器だけを頼りに吉村は、東京と目的地と狙い定め、果敢に自分の居場所を獲りにいく。
仲間と転身、活路と敗北、遭遇する人と再会する人。
こんなはずじゃない。こんなもんじゃない。私には彼女が戦っているように見えた。カメラはその一部始終を、友だちの至近距離で撮り続ける。
戦士と戦友。私が本作を戦争映画と感じた理由だ。

実際、カメラは忙しかったのではないか。吉村の周りは事件だらけだった。
捨てる神と拾う神をいっぺんに呼び込んでしまう人というのがいるが、彼女はきっとそれだった。
だから、見ていて飽きない。もっと言えば、危なっかしくてしょうがない。
これは見方として反則なのだが
「この監督が身近で撮ってくれている間は、吉村はイケナイ方向には行かないんじゃないか」
と、祈るような気持ちで観ていた。
頼む。犯罪とか暴力とか、売るとか買うとか、そういうのに巻き込まれないでくれ。頼む。

結局、そういう展開にはならなかった。
しかし、そういう展開にならなかった、というだけの話だった。

渋い谷。いくつもの坂が底でまじわる谷で、戦っていた吉村。
敗戦と言いたくない。終戦と信じたくない。
しかし、撤退は余儀なくされた。

見どころ3「映像に写っていなかった希望」

吉村は、統合失調症を患う。

夜の公園。彼女は誰もいない暗闇に向かって、切実に叫びかける。
「お友達になってくれてありがとうございます!普通に来てください!私だけ見えるんで」
「もういいよ行け!松ちゃん行け!松本人志!」
「よかったら私と握手してください両足から」
遠巻きに見ていた人々が彼女を見て、薄ら笑いを浮かべる。

一瞬ワルふざけに見え、「いや、これはフザケてるんじゃない」と気づいた後に、私は爪を噛んでしまった。
幻視と幻聴。自分を制御できていない。できてないことに気づけていない。もう夢とか有名とか、そんなこと言ってる場合じゃない。
卒倒した彼女は、不運の銃弾に倒れたとしか考えられなかった。

案の定、ドクターストップ。そして、帰郷。
空港に向かう彼女は、明らかに表情が乏しく、寝起きのようだった。クチャクチャとガムを噛む口元も緩い。
あのいきいきとした、挑戦者としての笑顔とは対照的。
もしかすると、治療薬の副作用だったのかもしれないけれど、それにしたって人間ここまで変わってしまうものなのか。カメラは本当に、これを撮りたかったのか?

手荷物検査のゲートをくぐる時、彼女は振り向きながら言った。
「バイバイ。また会おうね」
笑顔から泣き顔まで、ぜんぶの絵の具を混ぜたような表情。私にはとても美しく見えた。儚く振られる、白く長い指も。不謹慎なのだろうけれど、見惚れてしまったシーンだ。

この映画が常軌を逸しているのは、カメラは本当に”また会い”に行ったところだ。
しかも約10年後。
一度止まった物語が、再び動き出す。再開のきっかけは紹介されないが、運命に編集された作品であることに間違いない。

吉村は佐賀の実家に連れ戻され、地元の福祉作業所に通っていた。
かつて逃げたかった生活よりも、さらに不本意な状況。
きっと、誰かに見られるのは嫌だったかもしれない。内職をする母親も、夢とはかけ離れた仕事をしている自分も。食事も、洗濯物干しも、風呂掃除も、通院や通所も。車窓はずっと山林だ。私ならカメラを手で塞いでいたと思う。
しかし吉村は撮らせ続けた。カメラもまた、それが戦友としての最後の務めだと言わんばかりに、直視し続けた。

吉村はインタビューに答える。
「気持ちを押し殺して生活している。逃げたくなることもある」
「幽霊見えるし。治らなくてもいいやと思った時もあった」
「母の前では何も言えない」
ああ。「母」って言ってる。19歳のインタビューでは「お母さん」って言ってたのに。
彼女は大人になっていた。大人としての自由だけは、まだ手に入れられないまま。
人生が軋みを立てるばかりで、回らない。でも、終わらない。その残酷さに窒息していたように見えた。

しかし一転、映画はクライマックスを迎える。
場所は深夜の博多駅。吉村はそこで何をしたのか。ぜひ本作で見届けてほしい。
私は「捨ててなかった〜!」と、両手で拳を作ってしまった。

エンディングテーマで流れる曲は「元気でいこう」。吉村がずっとアカペラで歌っていた曲だ。
皮肉なんかではない。私は最後の最後で、希望の響きを聴いた。人生が続いていくことの希望を。

彼女は今でも、歌っているのだろうか。

この映画を見ている今は、2024年。2010年の撮影再開から、10年以上が経っている。
その間に、多様性や包摂性という言葉が広まった。行政や企業の制度は改善され、今年からは合理的配慮も義務化された。
NPOなどの民間団体は増え、活動内容もバラエティに富み、面白いものがたくさんある。サークルまで広げれは数知れず、だ。
テクノロジーの進化はいわずもがな。

彼女が彼女らしく生きていける手段は、格段に増えている。一人でもできる。仲間ともできる。
もしかすると、すでに彼女はそうやって生きているのかもしれないし、そうあってほしいと願う。

彼女が歌っている限り、誰かに届く。
少なくとも、私には届いた。彼女と同じ歳で、同じお金持ちじゃない家の出で、同じく精神を病んでいる私に。
私にはしっかり届いたことが、彼女にも届くといいなと思った。

これが本作には描かれていない、人生が続いていくことの希望だ。
10年後の未来を生きている、私の祈りだ。
本作のタイトルは「ドコニモイケナイ」。
そう言うなよ。元気でいこう。無理しなくていい。気楽な気持ちでリラックスして。

登場人物に語りかけたくなる作品は、間違いなく名作だ。つまり本作は一見の価値のある作品だと断言できる。これでたったの85分。見ない手は、ない。

(おわり)
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


※補記
統合失調症は、ストレスや人生の転機を迎えた緊張で発症することが多く、およそ100人に1人が罹る。つまり、いつでも、誰でも発症してしまいうる病。発症のメカニズムや原因は、まだ明らかになっていないらしい。しかし薬などの治療で寛解へと進む病でもあるから、公的な相談窓口を知っておくことが重要だと思う。


末尾に作品リンクと、私の過去記事も貼っておきます。よろしければぜひ。

▼作品リンク

▼過去記事


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