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俳句について 〜俳句としての側面、一行詩としての側面〜 短文エッセイ

俳句にご興味のあるnoteのみなさまに俳句の様々なことについてご紹介していく記事です


俳句について 
『俳句としての側面、一行詩としての側面』

これまで実際に俳句をつくってきて、個人的に感じたことをごく短くまとめたエッセイです


俳句の作品には現在、

・古来からの『俳句としての側面』
・近代からの『一行詩としての側面』 

の大まかに2つの側面があるように感じています。

文語体でつくる文語俳句にもその傾向はやはりあって、作品として今日まで両方の探究が進められてもきたようです。


◇俳句としての側面 参考句

柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺
正岡子規

咲き満ちてこぼるる花もなかりけり
高浜虚子

をりとりてはらりとおもきすすきかな
飯田蛇笏


◇一行詩としての側面 参考句

手の薔薇に蜂来れば我王の如し
中村草田男

露人ワシコフ叫びて石榴打ち落す
西東三鬼

目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹
寺山修司


どちらの作品も『575の型』『季語』の俳句の基礎をふくんでいますが、『切れ字』による切れの有無や格調、間、余情、風情などに違いが見られます。

また単なる発句と平句の違いにとどまらず、俳句と詩の違いを意識させる作品もあるように感じます。

ただ同一作者の作品が、より俳句的であったり、より詩的であったりすることはごく自然にあるようです。


一方、口語体でつくる口語俳句は、当初から前衛的な俳句として自由律や無季と結びつけられ、『一行詩としての側面』をより深く探究する試みが盛んに行われてきたようです。

現在発表されている口語俳句の作品からもその傾向をより強く感じます。

『575の型』や『季語』をふくむ場合でも、一行詩的な印象をあたえる作品がよく見受けられます。


◇一行詩としての側面 参考句

頭の中で白い夏野となつてゐる
高屋窓秋

街燈は夜霧にぬれるためにある
渡辺白泉

一本のマッチをすれば湖は霧
富澤赤黄男


逆に言うと、口語俳句の『俳句としての側面』については歴史的に未開拓な部分が多く、現在もほぼ探究されることなく丸ごと残されているともいえそうです。

それは『575の型』『季語』『切れ字』を基礎にした俳句の特徴を活かしたつくり方です。


◇俳句としての側面 参考句

雲は秋運命という雲もまじるよ
金子兜太

霧に白鳥白鳥に霧というべきか
金子兜太

蝶よ川の向こうの蝶は邪魔ですか
池田澄子


俳句の口語化には大まかに2つの方向性がありそうです。

・俳句を口語化して『口語俳句』にする
・俳句を口語化して『口語一行詩』にする

前者が俳句化、後者が一行詩化です。

俳句化では、俳句の基本的な特徴
一行詩化では、現代詩の基本的な特徴

がそれぞれ強まりそうです。

今後、口語俳句が『一行詩としての側面』だけを探究しつづけて単に一行詩となっていくのか。

それとも『俳句としての側面』を兼ね備えて俳句としての探究も進めていくのか。

いま現在を生きる口語俳人の方の、俳人としての度量が試されても来そうです。


さいごに、俳句には発句としての歴史をふくめるとたいへん長い歴史があるようです。

これまでがそうであったように、これからも多種多様な探究や取り組みが生まれ、作品がつくられていくのだと思います。

これからも俳句の様々な作品や出来事を個人的に見つめつづけていられればと思っています。


*個人的な考え方や見解をまとめたエッセイです

*俳句と一行詩の違いについては、書籍やネット検索、生成AIなどで調べてみてください

*至らない点、十分に書きつくせていない部分もあると思いますがご容赦ください

*俳句については、個人、団体によって様々な考え方や見解があります


いつも
ご覧いただき
ありがとうございます


◇引用 作品収録句集

高浜虚子著
句集「高濱虛子集」
朝日文庫 1984年

飯田蛇笏著
句集「蛇笏俳句選集」
植村書店 1949年

西東三鬼著
句集「夜の桃」
七洋社 1948年

中村草田男著
句集「長子」
沙羅書店 1936年

寺山修司著
句集「花粉航海」
深夜叢書社 1975年

高屋窓秋著
句集「白い夏野」
流星閣 1936年

渡辺白泉著
句集「白泉句集」
林檎屋 1975年

富澤赤黄男著
句集「天の狼」
天の狼刊行会 1951年

金子兜太著
句集「百年」
朔出版 2019年

句集「旅次抄録」
構造社 1977年

池田澄子著
句集「月と書く」
朔出版 2023年


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