【連載小説】10 days (12)
7.2
「ケンさん、もっと早く歩いてよ」
二人は『サクラ』からの帰り道だった。
「そう急かすな。話は変わるがな、お前、象とねずみ、どちらが長生きだと思う?」
「何、それ」
「いいから、答えろ。どっちだ?」
「うーん、ねずみかな」
「違う、正解は象だ。何でも心臓は一生涯のうちに、八億回脈を打つそうだ。動きがゆったりした象の心拍数は少なくて、ちょろちょろ駆け回るねずみのそれは多い。だから象の方が長生きなんだそうだ (※1)」
「で、それがどうしたの?」
「俺みたいに年を取ってくると、先が長くない。できるだけ心拍数を上げないようにして、少しでも長生きしなくてはな。まだお前みたいに、手が掛かるヤツがいるうちは、おいそれとは死ねん」
「何それ。ケンさんの話は、時々展開が見えない時があるよ。回りくどいことばかり言ってると嫌われるよ。気を付けた方がいいよ」
黄昏が迫る空。外灯が点き始めた。
玄関の脇に蹲っている影が見えた。健一を認めて、影は立ち上がる様子を見せた。シルエットが夕べの珍客、さくらよりもっと細くて長い。
「先生、遅いですよ。待ちくたびれました」
つくも出版の青木美咲だった。
「美咲君、じゃないか。どうした? ここで何をしている?」
「どうしたはないでしょう。先生の帰りをお待ちしていたんですよ。一昨昨日やっと捕まえたと思ったら、先生の声がいつもと違うから気になって……。気になりだしたら心配になって、仕方ないから、忙しい中、わざわざ来てあげたんです」
「それは悪かった。でも心配には及ばない。締め切りは必ず守るよ。話しただろう、急に孫が来たから、取り込んでいるって。これがその孫の佑斗だ。彼女は編集部の青木美咲君だ」
佑斗は黙って頭を下げた。美咲は佑斗をちらっと見て、
「今度は本当だったんですね」
と言った。
「今度はって、俺が君に嘘を言ったことがあるかい?」
「ありますよ、数え切れないほど! 時間の無駄だから、一々あげつらうことはしませんけど。こんなことを申しては何ですが、私、他にも何人か担当してますので、先生だけに関わっていられないんです」
「分かっているよ。感謝している。でも俺は何だかんだ言っても、締め切り日だけは守っているだろう」
「はいはい。仰る通りです。分かってますよ。でも先生、いい加減携帯電話ぐらい持って下さいよ」
以前、会社の携帯電話を貸し出したが、しばらくして携帯が不通になった。美咲が不審に思って見に来たら、携帯は机の上に置きっぱなしで、充電されることもなく疾うにバッテリーが切れていた。それ以来貸し出しても無駄だと諦めたらしい。
「あれ、どこへ行っても、ずっと見張られている気がして、嫌いなんだよ。でもFAXも、君に言われて留守電も付けたぞ。連絡を取り合うには、それで十分だろう」
美咲のしつこい説得で、健一はこれまで郵送していた原稿をFAXで送ることも渋々受け入れた。
「でも、骨董品に付け替えてましたよね?」
「ああ。でも先日来、元通りにしたままだよ」
「いまどき先生ぐらいですよ、携帯持っていない人。原稿もファックスか郵送というのも、先生だけです。先生、原稿をメールで送って頂けると、文字を起こす手間が省けて、大変助かるんですけれど」
「それは分かるんだが、俺は、ワープロやパソコンの画面を前にすると、操作にばかり気を取られて、ちっとも文章が浮かんでこないんだよ。やっぱり原稿用紙と鉛筆じゃないと……」
美咲と健一は、今までに何度となくこの手の不毛なやり取りを行っている。だからこれはある種の儀式か社交辞令みたいなものだ。それに、健一は美咲との会話を楽しんでいる節がある。だがそうとは知らない佑斗は、この息も吐かせぬ言葉の応酬をはらはらしながら聞いていた。
「それに電話一本で、用が足りることだってあるんです。それなのに。こんなの、時間の無駄です」
「無駄かどうか、まだ分からんじゃないか。それが分かるのは、俺の人生が終わった後のことだ。そうでなきゃ、携帯電話がなかった時代に生きた人の人生は、みんな無駄になってしまうだろう。当然そんなことはありはしない」
「先生の論理は極端です。時間を節約する手段があるのに、それを使わないのは無駄だと言っているんです」
「でも君は時間を使って、ここに来ている。私がいつ帰るか分からないのに、家の前でずっと待っていた。それは無駄かね」
「はい。無駄だと思います」
「俺は違うと思うよ。それは無駄と思わず、空き時間だと考えればいい。空き時間に何もしないで、ぼーっとしているのが無駄なんだ」
確かに美咲は膝を抱えて、ただ待っていただけだった。美咲は痛いところを突かれて黙り込む。
さて。健一はにこりと笑いながら、
「私はこれから夕食を作る。取り立ての野菜と新鮮な魚を使った料理だ。それに加えて、美味しい地酒もある。ここまで来たお陰で、君はそれらを相伴できる。これも無駄かね」
「いいえ。それは決して無駄ではありません」
「そういうわけだ。美咲君、うちは……」
「分かってますよ。働かざる者食うべからず、でしょう」
美咲が健一の言葉を引き継いだ。
「そうだ。佑斗、お前も手伝え」
健一は一時間ほどで、魚のソテーとカルパッチョを作り、夏野菜をオーブンレンジで焼いて、ソテーの付け合わせにした。二人は、健一の料理の手際の良さに驚いた。
「美咲君、ご飯が炊き上がったら、粗熱を取って、刻んだ大葉を混ぜてくれ。これに煎りごまと塩を振り掛けて食べると、これがまた旨いんだ」
更に美咲は味噌汁を作り、佑斗はサラダを拵えた。
「もう少し待っていられるようだったら、白身魚の煮付けも作るけど……」
健一が目を遣ると、自分の作業を終えた美咲の目は地酒に釘付けになっている。
「まあ……無理のようだな。これくらいにしようか」
「先生、もう十分ですよ。さあ、戴きましょう」
食事中、美咲は雄弁だった。
「美咲君は、相変わらず、忙しい人だね」
健一が呆れるほど、飲みながら食べながら、殆ど一人で喋っていた。
「こいつがいてくれたから、久々に君みたいな若い女性と、一緒に食事を楽しめた。来てくれてありがとう」
「先生の口から、ありがとうの言葉が聞けるとは、思っても……みませんでした……」
美咲が両手で顔を覆った。肩が震えている。
突然の展開に面食らう佑斗に向かって、
「いいか、佑斗。これだけは覚えておけ。女性を簡単に信じちゃ、いかん」
お猪口をぐびっと飲み干しながら、
「美咲君でも、これくらいの演技ができるんだ。況んや海千山千の女をや、だ。女は恐いぞ」
と講釈を垂れる。
「あはーっ、ばれましたか」
美咲はけたけたと笑った。陽気な酒らしい。二人のやり取りに驚いたり、呆れたり。佑斗も終いには笑っていた。
「俺は、まだ仕事が残っているから、これくらいにしておくよ」
夕食を終えて、人心地が付いた頃。
「さあ、仕事、するか」
健一は大きく伸びをしながら、仕事部屋に向かう。
「美咲君、まだ電車はあるだろう。タクシーを呼ぼうか? 原稿は、今日中に上げて、送っておくよ」
「いいえ。戴いて帰ります」
「信用ないなぁ。今まで一度だって破ったこと、あったかい?」
「それはそうですけど。今日はもらって帰ります」
「そう。俺は構わないけど、下手すれば徹夜になるよ。今夜泊まる所、あるの?」
「いいえ。まだ」
「じゃあ、うちに泊まればいいよ。空いている部屋もあるし」
「そうですか。それでは遠慮なく。実はそういうこともあろうかと、いつも一泊分の着替えと化粧品一式は、カバンに入れてますので」
美咲は脇に置いた黒いトートバッグをポンポンと叩いた。
「佑斗、そういう訳だ。今夜は徹夜になるかも知れない。明日の朝は、適当に起こしてくれ」
「分かった。じゃあ、おやすみなさい」
健一は原稿用紙を前にして指の体操をしながら、「さあやるか」と独りごちた。
「美咲君、終わったら起こすから、そのソファーベッドで休んでていいよ」
「いいえ。先生が仕事なさっているのに、私だけ寝る訳にはいきません」
「見張られているみたいで、落ち着かないなぁ」
「そうですか。では、じっとしてるのは、私の性に合いませんから、原稿ができ次第、私、文字起しします」
美咲はバッグからノートパソコンを取り出した。
「それも急かされるみたいで、嫌なんだけどなぁ」
美咲は健一の不平を悉く無視した。
美咲は受け取った原稿を読みながら、
「先生、感じが少し変わりましたね」
と言った。
「えっ? そうか? そんなことはないと思うが」
「いいえ。一枚目とこの二枚目、やはり違います」
「ああ、あいつが来たんで、中断して、少し間が開いたから、気持ちの繋がりが切れたかな。でもそれ以外何も変わらんよ。気のせいじゃないか」
「いいえ、入社以来ずっと先生の担当で、過去の著作も全て目を通して来ましたから、分かります。少し優しくなったというか、丸くなったというか、上手く言えませんが、これまでと何か違います。いいですね。もしかして佑斗君のお陰ですかね?」
「そんなことはないだろう。俺は、こいつと何を話していいのか分からなくて、毎日苦労しているんだ」
「それですよ、先生。一枚目を今のご自分の目で、見直して頂けませんか?」
美咲の編修者としての目を信じている。健一は読み返してみて、美咲の言うことが分かる気がした。
老人一人の行動範囲など高が知れている。しかも年を取ると共に狭くなる傾向がある。そうなると、必然的にネタ探しも苦労することになる。それが佑斗の来訪で健一の生活にいやが上にも変化が起こった。
「先生の『港町から』というエッセイですが、初掲載からそろそろ一年半になりますよね。失礼を承知で申し上げますと、この頃陳腐化していると言いますか、マンネリ化が見られます。そろそろネタも切れてきたのではと思ってました。
そこに佑斗君が来て、いい刺激を与えてくれたのかも知れませんね。先生、もっと佑斗君と接して、話して、遊んで、心に波を立たせて下さい」
例えば、池の水面に立った波は、時間と共に次第にエネルギーを失ってしまう。
「君との会話も、中々刺激的なんだけどね」
そこに一石が投じられると、新たな波が生じ、周りに伝播していく。
「いいえ。私は精々大きな石みたいな物です。投げ込むと表面に波紋が生じますが、それは一時的なもので、それきりです。風が起こす波には及びません」
自分を『石』と卑下しながらも自身の形容に『大きな』と付ける所が美咲らしい。謙遜しているようで、自分をアピールすることを忘れていない。健一はそこに彼女の強かさを感じた。
「ほう。あいつは風かね」
「はい」
「風邪の間違いじゃないか? 俺は熱に浮かされているだけじゃないか?」
「またそんなこと言って。心地よい風でしょう。それは先生が一番よく分かっていらしゃいますよね」
健一は、佑斗が来てからここ数日間に、自分の周りで起こった出来事を思い起こす。
源三との諍い、圭太と佑斗とのケンカ、さくらの予期せぬ訪問。未だこの後も何かが起こりそうな嫌な予感がする。
――いいや。あいつは、そんじょそこらの風なんかじゃない、台風みたいなものだ。
後始末が大変そうだな。健一は大きくため息を吐いた。
<続く>
※1 ゾウの時間ネズミの時間: サイズの生物学 (中公新書 1087) より引用
<続く>